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HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

発展する運動となって行くには

2018-03-13 07:11:02 | 新しい希望に向けて!

 発展する運動となって行くには

 

安心安全な商品が並ぶスーパー

最近あるテレビで、東京や神奈川で最近話題のちょっと変わったお店の紹介をしていた。

それは、「生活クラブ」という生協が経営するスーパー「デポー」。ここは様々なオリジナル商品が魅力で、年々組合員数を増やして今や38万人の会員がいるという。

ここの特徴は、消費者である組合員自らが加わって開発したオリジナルなPB商品。

消費者である組合員が直接加わって、生産者と二人三脚で、「安全で美味しい商品」を開発し続けて来た。あくまで消費者目線で、原材料から加工の仕方に至るまで、素人ではあるけれども消費者として不安な原材料や製造過程の不安を一切取り除いた、商品作りで、ここで売っている商品はどれも安心できるし、おいしいという商品を作り上げて来たのだそうである。

生産者からすれば、これで安全性も心配ないし、味も良いだろうと思うのが、消費使者の立場からみれば、そうでもないことが多い。製造過程で一見不合理だと思うことが、消費する立場から見れば理にかなっている場合があるのである。

消費者目線の商品開発に主婦たちが

もとは社会党系の政治運動を行ってきた組合の創業者たちだったが、牛乳値上げに対抗して、本当に安心でおいしい牛乳を!と、自分たちで牛乳工場を立ち上げたところから始まったらしい。

そのうち消費者の主婦たちが加わって独自の商品開発を始めるようになって、本当に安心して消費できる商品が受け入れられるようになり発展を遂げて来た。

生活クラブの組合員の中から地域に受け入れられ喜ばれる事業を起こした主婦起業家がすでに600もあるそうである。それは消費者目線の商品開発に取り組んできたノウハウを生かして、本当に地域に愛され必要とされる、例えば高齢者向けの弁当屋などを起業してきたからである。

ここの組合員たちは自分たちが「社会をよくする主役になる」という意気込みに満ち溢れているという。

だから、今この「生活クラブ」は、創業者の意図するところを越えてどんどんと発展して行っているのである。敢えて、会員拡大と言わなくても多くの主婦の支持を得て組合員は増え続けている。

 

発展の鍵 

筆者は、ここに発展の鍵があると思った。

どんなに素晴らしい商品があるとしても、本当に必要としている商品を消費する消費者の立場に立たなければ人々から受け入れられない。却って一見不合理のようでも、社会に密着した消費者の立場に立って、個々の感性や能力を発揮していった主婦達の力が大きな発展の原動力になったのである。

 

家庭崩壊の激しい時代、今世の中はこの家庭崩壊を食い止める何ものかを求めている。

そのことに多くの学者や研究者が処方箋を書いてはいても、それがそのまま受け入れられ、現実に問題を抱え苦しんでいる家庭を救うには至っていない。

本来的な家庭を追及して家庭理想の実現を目指した家庭連合であったが、その理念や活動は広く社会に受け入れられているとは言い難い現実がある。

今後FPAがその課題を解決するべく取り組んでいったとしても、実際に家庭の崩壊や問題に直面する多くの人たちの現実と遊離しては本当に役立つ運動とはなりえないだろう。

おそらく、FPAに所属する家庭自体が、様々な課題を今でも抱えているのではとも思う。解決の鍵はみ言であり、原理だが、その原理やみ言をどう生かすのか?それは現実にあるそれぞれの家庭自身の課題である。膨大なみ言を、生かしたものが現実に有用なものとなって行く。

本来の訓導家庭教会の在り方がそこにあるのでは!

本来それが、氏族メシアやホームチャーチの課題とするものではなかったのか!

我々は日々の訓読生活で、ただみ言を訓読していればいいのではないだろう。み言の訓読を通して我々自身が、宇宙の根本や、本来的な家庭や社会の在り方を実感し、我々自身の生活や思考を改善して行ってこそ、み言が有効なものとなり、多くの人々を救済する価値あるみ言となって行く。

それこそが本来的な訓読家庭教会ではないかと思う。

本来はグループ活動で、み言を通して発見した物事のとらえ方や生活の在り方の生の情報を交換して行くこそが、本当に価値ある生き方を提供して行く氏族メシア活動になるのではと思う。

そうしてこそ、社会全般に広く普及して行く運動足りえるのではないかと思わされた。

 普通の会員、普通の家庭がその力を発揮して行く

「生活クラブ」の商品開発に携わった主婦たちはみんなどこにでもいるような普通の主婦たちだった。その人たちがそれぞれの個性を発揮して行く喜びの中に発展の道があった。

我々も、氏族メシアをになるそれぞれの祝福家庭はみんな普通の家庭である。特別ずば抜けた能力や感性があるわけでもない。それでも、日々の生活の中でみ言を生活化して行く努力の積み重ねの中で、み言の実体化が可能なのだと思う。他力本願ではない。自ら喜びと希望の家庭を作り上げて行く努力が、最終的には多くの人々をも巻き込んで幸せな家庭づくり運動として結実し発展して行くのではなかろうか!

必要なことは、現実の我々自身がいま必要として行くものを自ら見出していくことでにあるのではと思う。


家庭崩壊の最初の原因は妻の浮気

2018-03-13 02:31:06 | 新しい希望に向けて!

 家庭崩壊の最初の原因は妻の浮気

  

本来愛を育てる役割を担った家庭が、その役割を放棄して、崩壊してしまう現象が多々あります。

今日繰り返される様々な犯罪行為の背後にはこういった家庭の崩壊がその原因となっている場合がほとんどです。

殺人事件を犯して死刑囚となった人物の話を聞くと、そういう犯罪者の心理の原因は、生まれ育った家庭にあったことが窺われます。

 

人類史上最初で最大の犯罪行為はカインによるアベルの殺害でした。同じ血を分けた兄弟同士が争うと言うことは多々あることですが、そういった原因のほとんどがその良心の不和からもたらされていることは歴然としています。

アダムの家庭では、結局母親のエバの堕落と、その後のアダムの堕落がその根本原因です。

 

今の世の中の家庭崩壊の原因はそのほとんどが夫または妻の不倫、すなわち浮気に起因しています。妻が夫以外の男性と深い情的な関係を結ぶ。そうすることで夫は妻を疑うようになり、また夫自身も妻以外の女性との関係に走ってしまいやすくなるものです。

アダム家庭で起った「霊的堕落」は、実際に肉体的関係を持たなくても、情的に夫以外の男性との関係が、夫婦間の葛藤を招き、夫婦喧嘩や家庭内別居さらには夫の別の女性との浮気を誘発する大きな原因になっています。

また妻が浮気して別の男性と情的な関係を結ぶようになると、自分の子どもを愛せなくなり、いわゆる育児放棄(ネグレクト)という現象を引き起こすのです。そうすると子供は非行に走りやすくなり、様々な犯罪に引き込まれて行きやすくなってしまうのです。

ですから、統一原理の堕落論で取り上げられたアダムとエバの堕落の話は、そのまま現代社会において同様の現象の起こっている内容であり。また、歴史的に繰り返されてきた事実でもあるのです。

 

 

最近も様々な芸能界で有名なタレントの家庭などが崩壊し、有名人の二世が道を外したなどという芸能ニュースがよくつたえられているが、大概はこういったケースがほとんどです。 

妻が浮気に走る原因となると、夫が仕事に夢中になり、妻や子供たちを省みなくなることが原因となることが多いし、夫が仕事に熱中して帰りが遅かったり、家族サービスを忘れて仕事に熱中していると、女性はその寂しさにいたたまれなくなり、別の男性や、あるいは自分のことを気遣ってくれる存在に自身を委ねるようになってしまうのです。

復帰摂理上の様々な出来事は現実に置き換えてみると実によくわかります。そのようにすることで、私たち自身の周辺に興ってくる様々な問題や課題をどう解決して行けばいいのかという、問題解決の糸口も見えてくるものではなかろうかと思うのです。

<このテーマ続きます~>

 

 


神への信頼と深い家族の愛の交わりがイスラエル民族の歴史を出発させた

2018-03-07 06:38:14 | 新しい希望に向けて!

堕落の要因は!

アダムとエバが男性と女性としての究極的な愛の関係を神様の祝福の中で迎えて出発していたならば、そのまま理想的愛の関係を結ぶようになり・・・喜びにあふれた家庭が完成する。

ところが堕落は、その人間の成長期間に、偽りの愛が侵入した。偽りの愛の侵害者が天使長ルーシェルだった。ルーシェルは堕落してサタンとなった。

サタン中心の愛は偽りの愛である。方向性の異なった愛が家庭を崩壊させる。夫婦間のみならず、生まれた子供たちとの間にも葛藤や矛盾が生じるようになって行った。



真の家庭が目指したものは真の愛の家庭だった。しかしながら、サタンが侵害することによってそこに偽りの愛が支配するようになってしまったのである。



堕落した家庭をどのように本然の家庭として復帰して行くのか!

ヤコブの路程やヨセフの歩みを紹介しいたが、これらを見ると、復帰摂理を担当してその使命を果たしていく人は、神様からの祝福は勿論であるが、人間としての努力が必要であり。神様が願い求めるその路程を勝利するために涙ぐましい努力の積み重ねがあることがわかる。

ヤコブは神様の祝福を得たが、ハランにある21年間を血のにじむような努力の積み重ねで度重なる叔父ラバンの裏切りや、様々な労苦を経て妻子を得、財を得て故郷に向かう基盤を作り上げたのであった。

「故郷に帰る」という勿論、神様からの命であったが、その歩みを神が守ったとはいえ、最後に故郷の境までたどり着いて待ち構えていたのは、いまだ怒りを抑えきれないでいる兄エソウの姿だった。しかし、ここでヤコブは折れなかった。極めて多くの贈り物と妻子を先立て、地にひれ伏し、平身低頭の姿で兄のもとに向かうのは、何が何でも兄エソウと再び一つにならなければというその一心の願いを果たすために行ったヤコブの努力の結果だった。

神様からの祝福があっても、何もしないでいたならば、叔父ラバンを納得させることもできなければ、家族を伴うこともできなければ・・・そう、ヤコブが叔父のもとを去ろうとした時に。その妻たちは自らの実の親の元にあることよりは夫ヤコブとともに何が待ち構えているかわからないカナンの地に行くことを選択し、夫に協力したのである。ラケルは父の大切にしていた偶像まで持ち出したのです。



愛する努力を怠らなかったヤコブ

これらはひとえに、ヤコブの愛する努力の賜物でした。ラケルの姉のレアや彼女たちの側女達も互いにヤコブから愛されることを競いはしたけれども、ともに一つ家族として歩んだのはヤコブの愛する務めの故でした。

エソウがヤコブを憎んだように、ヤコブの子どもたちの中でもヤコブからひときわ愛されたラケルの子ヨセフはその兄弟たちから妬まれて殺されそうになったところをユダの機転で守られイシマエル人の商人に売られてエジプトに売られて行くことになった。そういう状況の中にあっても、ヨセフは自分の身の上を嘆くことはせず、そののちエジプト人の主人の妻の妬みや仕打ちにも耐えて神が祝福した自らの立場を守り抜いた。それはヨセフの人柄にもよるだろう。ヨセフは父母が年老いての子だったのでひときわ愛されて育ったというのもあるでしょう。また、兄弟たちからは妬まれもしたけれども、ユダのように守ってくれる兄弟もいたのです。そして、故郷から兄弟たちが訪ねて来た時も、過去の恨みを一言も語ることなく、すべての兄弟たちを受け入れ抱擁して迎えたのです。



ヨセフも心情豊かに育っていた

それはヨセフが父母の愛のもとで心情豊かに育った結果でもあったに違いありません。

その心の豊かさは、兄弟たちの仕打ちを兄弟への恨みや憎しみではなく、より大きな神様の祝福だと受け止める愛の心情の豊かさにあったのではと思います。

アブラハム、イサク、ヤコブと続いたイスラエルの始祖の家庭は、一部に多少の偏りはあったかのことはあっても、その根本において神への深い愛と信頼の絆があり、家族の深い愛の交わりがあればこそ、その後の子孫たちも、多少の諍いはあっても、イスラエルの民族として12部族が共存し、助け合って民族を形成して行ったのだと思います。

ヤコブ路程の勝利の秘訣は深い家族愛がその基盤になっていた。


 



 


夫婦愛の世界

2018-03-06 18:29:20 | 新しい希望に向けて!

 夫婦愛の世界

文鮮明先生は「宇宙の根本」はまさしく男性と女性が一つになる位置。男女が愛して一つになる位置だと教えられた。愛とは主体的男性と対象的女性が一つになる原動力でもある。

本来愛とはきわめて自然なものである。

創造の初めから、男女は自然な形で結ばれて、愛によって一つになり、そこから新しい生命が誕生する。そうして愛は結実し、子女の誕生をもって横的だった男女の関係は子女を得て縦的な関係が所持ることを通して、愛の関係は縦横十字の関係となり、さらに子女が産み増えることにより兄弟姉妹の前後の関係が加わることにより、まさにそこには、創造原理によれば「球形運動」と表現された立体的な愛の関係が生じるようになる。まさしくそれが家庭である。そのように本来の男女の愛の関係から始まる家庭の完成こそが、まさしく宇宙を創造された神様の永遠の理想であり、目的であったことが理解されるようになる。


家庭完成こそが宇宙創造の核心

統一原理、中でも創造原理で最も強調されるのが、神様の第二祝福であった家庭的四位基台。そう、家庭の完成こそが宇宙創造の中でも最も核心的なものであると言うことであった。

続く堕落論では・・・

本来人類始祖のアダムとエバが結婚して夫婦になる位置は極めて自然のものであり、その成長期間を神様が「とって食べてはならない」と言われたように、アダムとエバが男性と女性としての究極的な愛の関係を神様の祝福の中で迎えて出発していたならば、そのまま理想的愛の関係を結ぶようになり・・・

<以下続く>






善主権と悪主権

2018-03-05 10:20:11 | 新しい希望に向けて!

 

復帰摂理には神を中心とした善の主権とサタンを中心とした悪の主権が登場する。

善悪闘争史が復帰摂理の現実である。そしてそれは今の今も続いている。



善主権と悪主権

民を虐待し、搾取し、その人権を奪って権力を維持し続ける悪の主権と、民の幸福を願い、平和と繁栄を実現する善の主権が対立闘争を繰り広げられてきた。悪の主権はその暴力的手段で民を支配し、その主権を奪おうとする者に対しては常に暴力的手段で弾圧や圧殺や殺戮を繰り広げて来た。

何故神はそのような悪の主権を見過ごしてこられたのだろうか?それは、この地上に悪の歴史の始まった経緯が、人間自身の責任分担の不履行に起因しているからである。

だから悪主権の歴史を終焉させて、善主権の歴史を全面的に実現するためには人間自身の責任分担が不可欠なのである。

その復帰の原則を教えて来たのが、復帰摂理歴史である。

エソウとヤコブの対立と復帰の歩みは、「ヤコブ路程」として、サタン屈服の典型路程であると復帰原理は教えている。

 

サタン屈服の道

サタンは如何に屈服して行くのか!

サタン屈服の最大の武器はやはり「愛」である。神を中心とした「愛」が決定的な統一の手段伊なって行く。

神側の戦いとサタン側の戦いにおいては決定的な違いがある。サタン側の戦いはその戦いの相手を徹底的に否定し、抹殺して行こうとする。それに対して神側の戦いは戦った相手をも最終的には赦し愛し、共に生きる家族として行こうとする。

 

ヤコブ路程の最後は兄弟の和解であった。かつて二人は決裂し、エソウはヤコブを殺そうとした。しかし、最後の戦いはヤコブがエソウを徹底しして愛することを通して、和解し、ともに兄弟としての契りを取り戻して行くのである。

 

どこでその心を身に着けたのか?

ここでテーマはヤコブは自らを殺そうとさえした兄エソウを、どのように愛し抱擁することのできる「心」を持つに至ったのかということである。ヤコブは単に義務や使命でその路程を歩んだわけではない。心に深く決するところがあり、何よりもヤコブは目に見えない神との深い交流の日々があった。ヤコブは故郷のカナンからハランに旅立つときも、逆にハランからカナンに帰る時も、神との深い交わりと約束があった。神への深い信頼と交わりを通しての約束が彼の心をより強固なものにし深い心情とともに、兄エソウを深い愛で抱擁する心情を育てて行ったのである。

 

ヤコブの息子ヨセフも、その歩みの中で神との交わりと信頼の関係があった。どんな困難が襲ってきても、神への信頼は揺るぐことが無く、その信頼にこたえる如く、結果として、ヨセフは様々な知恵とこれから起こりうる未来への展望まで持つことのできる能力を身に着けて行った。さらに彼は自らを捨てて商人に売り渡した、本来憎むべき兄弟たちをも許すことのできる大きな心まで身につkて行ったのである。

 

善主権の世界を実現する主人公

神中心の善主権の世界を実現する主人公とは、実にそのような人々だった。

聖書にしるされた全ての人物の歩んだ物語は、神を父として、親子の契りを結んで生きた人々の勝利の歩みが記されているのである。

だからイエスは「私は父のすることを見てするしかない」と言われながら、神を父として親子の心情関係を結んで歩んだ人々の歩んだ道とその心をそのごとく歩んだのである。

 

再臨主として歩まれたその方も全く同じであろう。そしてこれからも、神の全の主権を打ち立てるために歩むすべての神の子たちは同様の歩みを継承して行くに違いない。