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HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

主人や親の言うことにただ従順に従うことがほんとうの忠孝ですか?

2017-02-26 22:04:36 | 忠孝

儒学では親の言いつけに100%従順に従うことが親孝行になる。逆に言えば親の言いつけに従わない子は親不孝になる。

日本でも儒学の教えの熱心な地方では、そういうことが言われてきた。「親の言うことはそのまま聞いて行いなさい」そのように教えられてきた。

しかし、小さい子供のころはともかく、単純に親の言いつけをそのまま聞けば親孝行とは言えない事例があまりに多くある。

この、「親の言いつけを守ることが親孝行」というのは、儒学の中でも主に朱子学の教えである。朱子学は忠と言うことも、主君への絶対従順を教える。儒学でも、陽明学はかなり自由である。陽明がくからすれば親が喜ぶことをする。親を幸せすることが本当の孝行と言うことになる。「忠」の場合も、単純に主君の言いつけを守るのではなく、主君を立派な主君、世から尊敬される主君にすることが本当の忠臣と言うことになる。

HOPEで様々に「忠孝あれこれ・・・」と取り上げているが、皆さんに注目していただきたいのは「本当の忠孝とは何か?」と言うことである。

創造原理には明白に書かれている。「愛と美は四位基台を完成するためにある」と。忠孝烈は主体である主人、親、夫の愛に応える家臣、子供、妻が一つになることのためにある。

ところが朱子学的な「忠孝烈」は極めて一方的で、主体の愛はともかく対象の従順さのみが強調される。

権力が権力を正しい者と規定して、下の者は単純に従順にしたげうことだと教える教えは支配階級には都合がいいかもしれないが、それでは主体と対象の一体化は出来ない。朱子学全盛の朝鮮時代や、日本でも朱子学が尊重された時代は権力者と民の遊離が甚だしく、社会の発展は阻害され、世の中の健全な発展はもたらされなかった。

忠孝あれこれで「中江藤樹」を取りあげているが、「代表的日本人」の著作の中で内村鑑三は「中江藤樹が陽明学を取り入れ、それを弟子の熊沢蕃山が学び、主君の池田光政が取り入れることによって日本の世の中は明るくなった。」と書いている。中江藤樹がもともと学んでいたのは朱子学であった。だから義務的にも親に孝行しなければと故郷に帰ったが、朱子の教えそのものでは本当の孝行の喜びが無いことを感じていた。そのころ王陽明全集を読んで、感銘したのである。ここにこそ孔子や孟子が教えたかった本当の教えがあると、本心で実感したのである。そしてそれを一番心の通じた弟子の熊沢蕃山にもおしえた、熊沢もこれまでの朱子学の教えに飽き足らないものを覚えていたのである。その疑問に王陽明は答えてくれた。熊沢蕃山は岡山の池田藩主池田光政に仕えて、その教えを実践した。それは「愛」の政治であった。藩主光政と蕃山は心を一つにしてひたすら民を幸せにする政治を行った。

「侍は愛である」という一文がある。「農民は農作物を作り、職人は道具を作る、女は料理や衣類を作って皆の役に立つ。しかし侍は何も作らない。だから愛の政治でみなを喜ばすことが侍の務めだ!」というわけである。

その後幕府の朱子学者林羅山に睨まれて、池田公も朱子学を受け入れざるを得なくなり、蕃山もその地位から追放されるが、その精神や考え方はその後の江戸の学者や政治家に大きな影響を与えた。江戸時代一の人気の学者は熊沢蕃山、名君は池田光政と言われた。それはひたすら民の幸せのための政治を行った愛に民も応えてきたからである。内村鑑三が取り上げた代表的日本人の一人上杉鷹山も同様の考えで政治を行った。民をひたすら愛したのである。鷹山は少し知恵遅れだった夫人をひたすら愛した。

江戸幕末になると、幕府の学者たちも表向きは朱子学を講じながら裏では陽明学を学んでいた。その代表例が江戸の昌平黌(徳川幕府の学問所)の総長佐藤一斎であった。その門下には吉田松陰の師、佐久間象山や幕末の藩政改革で有名な山田方谷などがいる。いずれも陽明学の影響を大きく受けた人物たちだった。西郷隆盛や勝海舟も熊沢蕃山の著作などを通し陽明学の影響を受けている。

日本の政治体制が、一部には階級差別的なものがないことはなかったが、概ね健全で明るい主従関係や為政者と民の関係が持たれたのも王陽明の教えが広く受け入れられたことが大きい。

翻って教会(家庭連合)の実態を見てみよう。個々人の主体性よりも、教会本部や役職上位者の指示や命令が尊重されて、従順に単純に従うことが求められてきた。親孝行についても、単純に親の言うことが善だといって、子女様が親の言うことを聞かなかったから親不孝だと決めつける。

王権や、メシアを神格化して、絶対従順を求めるのは朱子学の犯した過ちを繰り返しているようなものである。朱子学的忠孝心は真の幸福を主体者にも対象者にも与えない。結果は主君と家臣が分離し、親と子が分離し、夫婦が分離して行かざるを得なくなり、愛と統一とは真逆な結果に陥って来たのである。

王様に不従順だと言って家臣を拷問する。親に不従順な子だと言って王子まで殺す。夫に不従順だと言って妻を離縁させる。これでは意味ないだろう。孔子も孟子もそのようなことは教えていない。

原理もそのようには教えていないことは前述した。朝鮮朱子学の縛から解放され無ければ統一家に希望も未来も開かれないであろう。


忠孝あれこれ・・ ⑦孝について 近江聖人「中江藤樹」 熊沢氏の入門

2017-02-25 23:32:14 | 忠孝

そのようなときにある一人の若者が藤樹先生のもとに弟子入りしたいとやって来た。その若者と言うのがその後日本に王陽明の教え(いわゆる陽明学、このころは王学あるいは心学と呼ばれていた)を広く行きわたらせることに貢献した名学者熊沢蕃山であった。その若者、もとは備前岡山藩池田光政に仕えていたが、島原の乱には出兵を願ったが許されず、島原の乱ののち、島原の乱で負傷した父親とともに、祖母の郷里の近江の桐原に住まいしていた。

徳川の世になり、諸国が天下泰平の世になってくると、武芸よりも学問が重んじられる時代となり、熊沢青年は父のもとで兵法や、四書などを学んでいた。彼は学問を究めて再び出仕を志していたのである。

そこで父のもとでの学問に飽き足らず、さらに学問を究めるために、いずれかに優れた師ははいないだろうかと探していた。そのさなか、京のとある旅籠で逗留中、とても気になる話を耳にした。

それは越前前田藩から藩の金子を預かって京に届ける役目を預かった使者。、「実は実に正直な馬子に助けられた。自分は越前から京に前田家からの重要な金子200両を預かって旅していた。旅の途上馬を利用した。ところが宿について気が付いてみると御用金を収めた金子が見当たらない。途方に暮れてもうこれは切腹ものだと途方に暮れていたところに、先ほどの馬を引きの馬子がやって来た。『もしやこの金子をお忘れでは?』と宿まで持ってきてくれたのである。

もはや万事休すと思っていたところに、馬子が金子を持ってきてくれて命拾いである。そこで手持ちの金から金15両をお礼だと渡そうとすると『そんなお金は受け取れない』という。額を減らして『受け取ってくれ』と言っても『受け取れない』との押し問答。最後に『それじゃあ、200文だけいただきましょう。それくらいの手間賃はいただいてもいいかも。』と言ったので200文を渡すと、『いただいたそのお金そのまま帰るのもなんだから、一緒に酒でも飲みましょう』といって、皆も誘って酒盛りをした。それで『なんでそなたはかくも正直なのか?』と聞いてみると、『それは藤樹塾の先生に教えていただいたからだ。』との答えだった。『その先生は?』と聞くと、もとは伊予大洲藩に仕えた学者さんだが母親への孝養のために藩を辞し故郷に帰り、故郷の村人に徳のある生き方を教えてくれている。その先生に学んだ教えが、人は「明徳」をもって生きなければならないというもので、自分はその教えの通りにしただけだ。』との答えだったという。」

この話を聞いた熊沢青年、「これこそ私が求めて来た師ではなかろうか!是非ともこの先生に教えを請うて弟子としていただこう。」そのような経緯から小川村の藤樹先生のもとにやって来たというのである。



青年熊沢は藤樹先生の門をたたき、「是非とも弟子にしていただきたい。」と願い出た。しかし、藤樹先生は「いや私は村人を教えるだけのもの、門人を取るようなことは出来ない。」ときっぱり断った。しかし、まさにこの方こそわが師との思いを強くしたっ熊沢青年は、「先生に入門を許していただくまでは」と、二日二晩、塾の門前に座り込んだ。

そこで助け舟を出してくれたのが藤樹先生のお母さん、「お前、あのように熱心に入門させてほしいと願っている。弟子にするということではなく、ともに学ぶということで入門させてやったらどうか。」と。その母親の一言に藤樹先生も「それならば」と熊沢青年の入門を許可してくれたのである。

熊沢蕃山が中江藤樹先生のもとに入門をした経緯はこの通りである。

藤樹先生が大洲藩を辞して故郷に帰った経緯や、小川村に塾を開いて村人を教えた逸話、藤樹先生の教えの内容などは以下のページにわかり易く記述されている。参照されることをお勧めする。

 国柄探訪: 中江藤樹 ~ まごころを磨く学問

  馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、
 ひたひたと琵琶湖沿岸から広がっていった。
この藤樹先生と熊沢氏の出会いと入門が、その後の日本の思想史に重大な役割を果たすことになるのである。藤樹先生の門下生となった熊沢氏がその後どのような歩みをしていくのか、その活躍や藤樹先生との師弟関係のその後など引き続きみて行きたい。
このあたりの経緯は内村鑑三の「代表的日本人」にも詳しく述べられている。こちらもぜひお読みになることをお勧めする。
 
以下続く
 




忠孝あれこれ・・・⑥孝について考える・・・近江聖人「中江藤樹」の生き方 忠孝の在り方そして学問とは

2017-02-25 01:07:18 | 忠孝

忠孝あれこれ・・・

 

引き続いて「忠孝」のうち「孝」について考えて行きましょう。

「孝行」という概念は東洋ではかなり古くからあったようです。しかし、その概念も時代とともに変化してきているようで、国によってもその概念は違っています。

 真のお父様は韓国民族は「忠孝烈」を重んじると語られましたが、日本も負けることのない「忠孝」の民族です。「親孝行」は古来日本でも伝えられてきた美徳です。烈はあまり日本では言われないが言われない言葉だが、夫に尽くすという意味で代表的女性は「山内一豊の妻」であろうか?それはともかく、日本の歴史上の人物の中で「孝子」と言うのは多いが、その中でも代表的人物として挙げられるのは言えば近江聖人と言われた、中江藤樹先生であろうと私は思っている。

内村鑑三の書いた「代表的日本人」その中の中江藤樹の項の中に藤樹が母親に孝を尽くすために四国伊予国の大洲藩を脱藩して故郷に帰るという話がある。

中江藤樹先生と言えば日本陽明学の祖とされている。内村鑑三が海外に、日本の精神や文化を紹介した「代表的日本人」という著書がある。そこで挙げられた代表的日本人の五人の中で四番目に取り上げられているのが近江聖人と言われた中江藤樹である。

中江藤樹の一生

中江藤樹先生は慶長13年(1608年)37日の生まれ。小さい頃は物静かな子供だったそうだが、9歳の時に伯耆国米子藩の加藤家に仕えていた祖父、中江徳左衛門吉長の養子となり米子に赴いた。

その後加藤藩が伊予国大洲に国替えとなったので、祖父母とともに大洲に移り住んだ。藤樹先生10歳の時である。祖父は学者として藩に仕えていたが、その祖父から学問を学んだ。10歳の時には立志を決意、この年初めて大学を読んだと伝えられている。大洲では神童ぶりを発揮していたようである。その後、元和2年(1622)に祖父の死亡に伴い家督100石を相続した。17歳の時京から来た禅僧の話を一人最後まで聞いて、その折四書大全を購入した。20歳の時「聖学」を志したと、伝記にはある。

22歳の時一度郷里の母のもとを訪ね帰省。25歳の時仕えていた新谷藩が分封、加藤直泰に仕えていた藤樹先生も主家に従って名義上であるが分属したとある。

寛永11年(163427歳の時に母への孝養と健康上の理由から藩に辞職を申し出るが、認められず、思い余った藤樹先生は脱藩の禁を犯して京に滞留、易の講師などを務めたのち故郷の近江の国小川村(現滋賀県高島市)に帰った。

藤樹先生の脱藩の理由にはもう一つ事件があった。それは主君の加藤泰興が江戸から連れ帰った徳川家お抱えの朱子学者林羅山の若宮道四郎との対立があったとも伝えられている。このころ徳川では、侍はこれまでのように武道で務めるのではなく、学問で務めなければならないとして、徴用された儒学者が林羅山という朱子学者だった。徳川の大御所が学問を奨励していたので地方の小藩でもそれに倣って学問を行おうとして、藩主は林羅山の弟子だという若宮道四郎を江戸から連れ帰ったのである。その若宮道四郎に赤恥をかかせたのが中江藤樹だった。というのは、幼いころから学問に親しみ、周りからは神童とさえ呼

ばれた中江藤樹からしてみれば、立身出世のために学問をした若宮の学問は博識としても極めて上っ面なもので、自ら深い修養を目指した中江には簡単に論破されるようなものだったのである。この若宮道四郎に赤恥をかかせたということが中江藤樹をして脱藩せしめた実は本当の理由であったとも言われている。

故郷の小川村に帰ってのちは、わずかの元手をもとに酒の小売りと貸金で生計を営みながら村の庶民のための私塾を開くのである。これがのちの藤樹書院である。何故藤樹と言うかと言うならば、藤樹先生の家の庭に藤の巨木があり。いつのころからか村人たちから藤樹先生と言われるようになったとのことである。

藤樹先生30歳の時、亀山藩士高橋家女久子と結婚する。この時のエピソードがある。藤樹先生はすこぶる親孝行の方で、親の言いつけには逆らうことがなかった方であるが、妻の久子のことについては母親の言うことに従わなかったのである。と言うのは、久子はかなり不美人だったようで、母親は、このような不細工な女性は息子の嫁にふさわしくないと、離縁して里に帰すように息子に勧めたそうである。しかし藤樹先生は、「いかに母上の言葉といえども嫁してきた嫁を里に帰すようなことは人の道に非ず。」と母親の言葉には従わなかったとある。いかに尊敬し、大切に思う母の言葉とは言え道理に外れたことは断固として従わなかった道理を何より大切にする先生であったといことをうかがわせる逸話であろう。

藤樹先生は近江の小川村に帰ってからは、私塾を開き近隣の村人たちに儒学の教えをわかり易く説いて聞かせていたのであるが、その教えに感化された村人たちは、正直に、善良に生きることがどれほど価値があることかを深く学び、その教えを日々の生活の中で守り行うようになっていった。

そのようなときにある一人の若者が藤樹先生のもとに弟子入りしたいとやって来た。(以下続く)

 

本文がかなり長くなったので以下続きます。文章の推敲もまだ不十分ですが、とりあえず投稿させていただきます。お気づきの点があればご指摘ください。


忠孝あれこれ・・・・⑤文鮮明先生の語られた「忠孝烈」と韓国民族の忠臣 「忠孝」に関しての・・長所と欠点

2017-02-20 13:25:25 | 忠孝

韓国民族の忠孝

文鮮明先生のみ言

真のお父様が「忠孝烈」について語られたみ言です。

「神様の摂理から見た南北統一」p268~ 第5節韓国人の民族性  二 忠孝烈の国

神様の摂理から見た南北統一 - Page 268 - Google Books Result



真のお父様が韓国民族の「忠孝烈」について誇らしく語っておられます。そのお父様が誇られる韓国民族の「忠孝烈」はいまどうなっているのでしょうか?



真のお父様はこの韓国民族の「忠孝烈」を代表する物語や人物として、「忠」を代表する人物として鄭夢周、「孝」を代表する物語として「沈清」、「烈」を代表する物語として「春香」をあげておられます。



統一家の食口ならば誰もが知る人物や物語でしょう。 

「鄭夢周」と言えば、高麗帝に最後まで忠誠を尽くした人物。そう、「丹心歌」のテーマになった人物ですね。高麗朝の末期、李氏朝鮮を起こした李成桂が高麗の重臣であった鄭夢周に高麗王に仕えることを辞めて自らの側につくように勧めた時に、これまで忠誠を尽くした王を裏切ることは出来ないと、忠誠の詩を読んだ。それが「丹心歌」だというわけです。



高麗王朝の最後と鄭夢周そして丹心歌については次のブログが良く纏められています。出来れば読んでみてください。

高麗王朝最後の忠臣鄭夢周



韓国民族の忠臣と日本の忠臣比べてみると

鄭夢周のが生きたのは(13371392)、楠木正成が生きたのが(12941336)、年代を比べると楠木正成が湊川の戦いで最期を遂げた翌年に生まれたのが韓国民族を代表する忠臣鄭夢周だったことがわかります。少し時代がずれてはいますが、楠木正成が後醍醐天皇に忠誠を尽くした世界と鄭夢周が高麗王に尽くした中世には相通じる世界がありますね。

共に学んだ学問は儒学(当時は朱子学が主流)だったようです。朱子学が朝鮮に伝わったのは13世紀、その後李氏が朝鮮の主権を掌握すると高麗の仏教を排して朱子学を官学としてとういつします。

日本に朱子学が伝わったのは12世紀末ともされますが、本格的には1299年に元から来日した僧、一山一寧によって学理が完成したとされています。後醍醐天皇や楠木正成の行動原理には朱子学によるものと思われるところが多く見受けられ、両者が朱子学の熱心な信奉者であったともみなされています。(参照 WIKIPEDIA 朱子学



奇しくも日本と韓国いずれの民族を代表する忠臣も壮絶な最後を遂げて行きます。

楠木正成と鄭夢周に共通するのは両者とも高い見識をもって主君に尽くしたという点です。また彼らはともに軍略においても高い見識と実行力を備えていました。また主君が劣勢の時にも忠誠の心を変えなかったということです。そして、彼らは主君の誤った判断(政治や軍略上マイナスの結果をもたらすような主君の判断)には、勇気をもって諫言もしているということです。

しかし、最後は主君の判断が間違っていてもその主君を裏切ることなく死の瞬間まで忠誠を尽くしたということです。



朱子学の長所と欠点

ここで朱子学の持つ長所と欠点を見ておきたいと思います。

朱熹の説いた朱子学は上下の秩序を重んじることにおいてはとても優れた一面を持ちます。国を一定の秩序で統治するには恰好の教えであるということです。しかし、欠点もあります。ともすれば下位にある者に秩序を強制するという一面です。

朝鮮では3年の喪に服さなかったと官吏が民を棒で殴打したと言われます。日本の歴史でも朱子学の官学化で朱子学以外の学問が規制され、体制の硬直化が起こってしましまいました。

本来忠孝や烈の心は、主君や、親や夫の家臣や子供たちや妻から自然に生じる「美」であるはずのものが、殊更に下位の者の上位者への忠誠や従順を意味する言葉に置き換えられてしまう弊害です。



実際、日本を代表する忠臣であった楠木正成が悲惨な最期を遂げたのも、時の情勢や武士たちの立場、庶民の事情や心を無視した天皇の判断ミスに起因しています。天皇中心の権威と威信にこだわった公家たちの誤った進言が後醍醐天皇の政治や判断を誤らせてしまいました。朱子学の硬直した面の欠点が露呈したとも言えます。

高麗王朝に仕えた鄭夢周もよく似た道を歩んでいます。

高麗王朝を倒した李成桂ですが、李成桂が高麗王に反旗を翻した理由は足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した理由とよく似ています。足利尊氏は鎌倉幕府を滅ぼしましたが、それは元寇の役によって疲弊した武士団に対する北条政権の無策に起因しています。後醍醐天皇を立てての新政に期待ましたが、実際に行われた「建武の新政」は彼らの期待を裏切るものでした。報償は公家に篤く武士に薄く民への重圧は強化され民心の支持も失っていました。だから、九州に逃れた尊氏側に圧倒的多数の武士たちと民が味方したのです。

高麗王朝も同様でした。元寇の役は朝鮮半島の高麗にも多くの疲弊と矛盾をもたらしました。そのような中、親元派と親明派の対立の中、征明軍の指揮を任された李成桂が梅雨時に進軍の困難さから出兵に反対したにも関わらず王は進軍を命じました。鴨緑江の威化島に差し掛かった時折からの大雨で多くの兵が溺死、兵糧も尽き、脱走兵の相次ぐ中、回軍の許可を都に求めるも王と側近の反対でかなわず、李成桂は兵を返してクーデターを実行するのです。

背景には現実の実情を無視した王の判断と、権威や威信に依存した貴族的階級者の誤った進言がありました。



本当の忠孝とは?

それでも仕えた主君に忠誠を尽くして死に至る忠臣は凄いですが、少し残念な気もしますね。

それは原理もある、主体者の愛があって対象者の美があるという原理を少し外れているからではないでしょうか。

本当の意味で「忠孝烈」が重んじられ、尊重され、それが世界をリードする美点となるためには本当に賢明な主人、本当に賢明な親、本当に賢明な夫となる努力と対位にある「忠孝烈」となることではと思います。

主体者は主体者として、対象者は対象者として、共通の主体者としての神を大切にすること、共通の対象者である民や子供たちを愛することが大切です。

日本には「上下一心」という言葉があります。一の上下を超えて上下が一つ心になるということです。そのことで発展が生まれます。

原理で言えば、「主体と対象が合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。」(原理講論p72)と言うことでしょう。

そのようになれば、忠臣や孝子が死の道を行くという残念な結果ではなく、主君も家臣も、親も子も、夫も妻も、ともに喜ぶハッピーエンドの時代を迎えることが出来るのではないでしょうか。

親の目を治すために自ら死の道を行くというちょっと極端な美談より、ともに幸せを味わう親子関係がその先にあるような気がしてなりません。



長所と欠点

「忠孝について考える」・・・考えてみるいろんな思いが涌いてきます。

ここ数日はフィギアスケートの中継があって日本選手が活躍しています。どんな競技でもそうですが、自分の長所を伸ばし、自分の欠点を克服する。これが高得点の秘訣であり、勝利の秘訣です。

韓国人も、日本人もそれぞれの思想や文化の長所を伸ばし欠点を克服すれば発展は間違いないでしょう。

統一家も長所を伸ばし、欠点を克服することが大切です。

「忠孝」も殊更に強調しすぎると却ってマイナスが大きくなります。愛と美はともに授受して発展し一体化が目的です。これを強調して分裂では意味なしです。(悟れ!)

 


忠孝あれこれ・・・④日本の忠臣・・楠木正成(2)

2017-02-19 23:09:24 | 忠孝

 

「楠木正成」続きです。



湊川の戦

最後の進言を受け入れられなかった正成はわずか700の手勢を率いて湊川へ向かった。一方の尊氏軍は35千、問題にならない差である。最初尊氏は戦力を小出しにして、正成軍を圧倒しようとはしなかった。それは数年前にはともに鎌倉幕府と戦った間柄で、正成の人となりを知っていた尊氏であるから、何とか正成が降伏するのを待っていたのである。しかし、命がけの攻撃を仕掛けてくる正成軍に尊氏は総攻撃を命じた。6時間の戦いののち正成は生き残った72名とともに家屋に火をつけ自刃し、最後に正成は弟の正季(まさすえ)と刺し違えて絶命した。正成42歳であった。

その後正成の首は京の六条河原に晒されたが、その後故郷の一族のもとに送り届けられた。敵として戦った相手ではあるが、正成のあっぱれな姿に敵味方を超えて尊んだことがわかる。尊氏側に立って歴史を記した「梅松論」にも「誠に賢才武略の勇士とはこのような者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」とある。

その後後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開く。尊氏が開いた室町幕府のもと南朝に付いた尊氏は「逆族」としての扱いを受けたが、永禄2年(1559)正成の子孫と称する楠木正虎の申し出でにより正親町天皇の赦免を受けることとなった。



語り告げられた正成の忠義

北朝側から見れば「逆族」であった楠木正成であるが、その忠誠と武勇の姿は敵味方を超えて語り継がれ、それらの事績は「太平記」や「梅松論」に記されている。

特に40巻からなる戦記物の「太平記」語り告げられ、江戸の時代になると太平記に記された、楠木正成の武勇や治世に習おうとする武将や一般の町人も増えてくる。

すでに室町の時代から僧侶の中に「太平記」を読み聞かせるものが現れるようになり、江戸時代になると「太平記」の解説書である「太平記尽抄」などが発刊されるようになってきた。(越前前田藩や岡山池田藩などにその資料が残っている。)最初は武家の間で「太平記」に基づき兵学や治世学をを講釈するものが現れ、さらに江戸中期になると一般庶民の間にも広がって芸能化していった。この講釈師を「太平記読み」と言い、これが歌舞伎のもととなったとも言われている。



水戸光圀公による顕彰

黄門さんで知られる水戸光圀公は、楠木正成の墓が湊川の地で草に埋もれて荒廃している話を聞き、助さんこと、佐々木介三郎をして楠木正成公の供養塔を建たしめた。そして自ら「嗚呼 忠臣南子之墓」と銘を刻んだ。「逆族であろうと主君に忠誠を捧げた人の鑑であり、全ての武士は見習うべし」とした。この供養塔は大きな亀の台座に乗せられている。儒教式の墓である。この碑が神戸駅の近く湊川神社に鎮座している。皆様も一度楠公(楠木正成公)を偲んで一度訪ねられては如何だろうか。


「太平記」には正成について次のように記している。

「智・仁・勇の三徳を備え、命を懸けて善導を守る人は古より今に至るまで正成ほどのものはいまだいない」



<参考>

「太平記」(岩波文庫)兵頭裕已校注

Wikipedia 楠木正成

楠木正成の生涯  こちらがわかり易く楠木正成の生涯をと人となりを紹介しています。

「良将は戦わずして勝つ」【 あの人の人生を知ろう ~ 楠木 正成 】