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HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

忠孝あれこれ・・・③日本の代表的忠臣・・・「楠木正成」

2017-02-19 01:14:23 | 忠孝

日本の歴史上の人物で忠臣と言えば文句なしに楠木正成だろう。

真のお父様をして「日本には楠木正成がいただろう!」と言わしめた人物である。

何故楠木正成は日本を代表する忠臣として歴史に刻まれているのだろうか?その生涯を南朝側に立った軍記もの「太平記」の記述やいくつかのネット上の情報をもとにまとめてみました。



楠木正成はその前半生については河内の土豪説、得宗被官・御家人説、非御家人説など、諸説ある。

楠木正成が登場する代表的な軍記ものが「太平記」である。太平記は後醍醐天皇の即位から建武の新政、南北朝とその後の動乱期までを描く長編の軍記物語である。作者は複数あるようだが、その代表的執筆者は小島法師とされている。

小島法師と言うと、後醍醐天皇の隠岐の島配流に際して美作の院庄(現岡山県津山市)にて忠誠の詩を桜の幹に刻んだという逸話が残る児島高徳(和田備後三郎高徳)ではないかとも言われている。

後醍醐天皇が隠岐の島に配流される時船坂峠(現在の兵庫岡山県境)での天皇奪還に失敗した児島高徳は、隠岐の島に流される途上、院庄に宿していた館の庭に忍び込み、「天句践を冗(いたず)らにすること莫(な)かれ  時に范蠡(はんれい)無きに非ず」(「史記」に記された中国春秋時代、呉越の戦いにおいて、越王句践に忠誠を尽くし、劣勢でその命も危うかった越王句践を助け尽くした名家臣范蠡の故事を引用した詩。ちなみに「太平記」ではこの史記に記された故事を克明に引用している。)

その詩は、中国の故事にちなみ天皇を支える忠臣が必ずあるに違いないという意味を記した詩であった。警護の兵士たちは幹に刻まれた詩に驚いたがその意味は分からなかった。しかし、中国の古典にも通じていた後醍醐天皇にはその意味を理解できたであろう。

児島高徳については明治の一時期、児島高徳不在説(児島高徳は太平記にしか登場しない人物なので実在しなかったのではとの説)が唱えられたことがあった。今は様々な事象から高徳の不在を言うものはない。

さて、本論の楠木正成であるが、河内国千早赤坂村に生まれたとされ、家は金剛山一帯を本拠とする御家人であったとする説が有力である。

時は元寇の役から半世紀、鎌倉幕府は元寇の役後与える恩賞もなく権威が失墜、北条高時は遊興三昧、民は重税に苦しみ世の秩序は乱れていた。元徳三年(1331)幕府打倒を目指して後醍醐天皇は京都で挙兵した。この時挙兵に応じた武将は数少なかったがその中の一人が楠木正成であった。

後醍醐天皇に謁見した正成は「武芸で優る関東武士に正攻法では勝ち目はないでしょうが智謀を尽くして戦えば勝機もあるでしょう」と答えた。

正成は郷里の赤坂に築いた山城赤坂城を拠点に挙兵した。挙兵したといってもその時の手勢はわずかに500、寄せる幕府軍は数万の規模、とてもまともに相手にできる戦いではなかったはずである。しかし、正成軍は城に仕組んだ二重塀からの投石や藁人形、熱湯をかける等々の奇手でもって籠城、幕府軍をてこずらせた。この間京都では後醍醐天皇が捕らえられ、天皇は隠岐の島に流されることとなった。この天皇配流の途上に先に小島法師ではなかとされる児島高徳の忠誠の詩の物語があったのである。

翌正慶元年(1332)末になると大和で戦う護良親王と呼応しながら河内・和泉の各地で守護を攻略、摂津の天王子を占拠、これに対して大軍を派遣した幕府軍に対峙した正成は謎の撤退、逆に天王寺に入場した幕府軍に対して夜な夜な数万のかがり火で城を包囲、心理作戦に持ち込み幕府軍の撤退をもたらし一滴の血も流さず勝利するという最上の軍略で勝利する。

このように智謀を働かせて幕府軍を翻弄させる正成に対して幕府軍は山城千早城にわずか千人の手勢で籠城した正成に対して幕府は8万の大軍を派遣する。ところが、またしても正成の策にのり、兵糧攻めにするはずの幕府軍が逆に兵糧の欠乏で自滅するという事態となり、幕府軍は総崩れになって行くのである。

このように万の大軍の幕府軍にたった千人の手勢で勝利したという噂は諸国に伝わり、各地の土豪が天皇方に付き決起するようになっていったのである。この時幕府側から天皇方に反旗を翻した代表的な武将が、新田義貞や足利尊氏であった。

尊氏は京都を攻め、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を打ち取り、140年続いた鎌倉幕府は滅亡していったのである。

正成は隠岐の島に天皇を迎えにあがり、その後京の都に凱旋するのである。

建武元年(1334)後醍醐天皇は朝廷政治を復活、建武の新政がスタートした。後醍醐天皇は太平の世を築くべく新政をスタートしたが、公家を中心とした強権政治に走り、新政誕生に貢献した武士への恩賞より公家への恩賞を篤くしたことや、財政基盤を強化するためにとなした民への増税は鎌倉幕府のそれよりも重いものとなり民を苦しめ、武士や民の間に不満が大きくなっていった。

建武の新政の性急な施行はそのように諸国の武士の反発を招き、ついに建武二年(1335)足利尊氏が武家政治の復活を謳って鎌倉で決起するのである。

この時尊氏軍は京に攻め上ります。しかし、この時は楠木正成に、新田義貞、北畠顕家らが迎え討ち尊氏軍は大敗を喫し一旦九州に敗走していくのである。

ところが、この敗走する尊氏の後を追いこれまで天皇方についていた武士たちが尊氏の後を追っていく事態が生じてきたのである。天皇方に付いていた武士たちの間にも、尊氏の挙兵に共鳴するもの達がどんどん拡大していく状況となって行ったのである。このような事態を見て、正成は時の天皇に尊氏との和睦を勧めるのである。それは一時勝利した天皇方であるが、現下の状況は、諸国の武士や民が親政の在り方に疑問を抱き、尊氏の側にその理があることを見て取ったからであろう。しかし、この提言は天皇ご自身や側近の公家たちには受け入れられなかったのである。

翌建武三年(1336)九州で多くの武士や民の支持を得た尊氏が再び北上してくる。これに対し天皇は兵庫の湊川での尊氏軍対峙を命じた。その命に対し正成は、尊氏軍の勢いにもはや正攻法での戦いで勝つことは不可能である。京都にある朝廷の一時比叡山などへの疎開とその後の京に尊氏軍を引き入れて戦う策を提言するが、朝廷の権威を重んじる公家たちの意見によって子の策も聞き入れられなかった。これまで正成に従ってきた武士たちも正成のもとを去って行った。最後は一族も地侍たちも去って行く状況の中、民心から遊離てしまった天皇に現実を見据えて、あり方を改めてくれることを願いを託した最後の書状を認めて、残ったわずか700の手勢で湊川の戦に向かっていくのである。

・・・続く



今日は、ここまでとします。実はこの項全文をほぼ書き終えたところでPCがフリーズ、それまで書いたすべてが失われ(涙)、再度書き始めました。正成最後の戦い「湊川の戦い」、以降は次回に続きといたします。


何故かこの投稿、ダブって二つアップされていましたので片方はアップ止めました。






「忠孝」あれこれ・・・②原理講論には

2017-02-15 19:19:39 | 忠孝

原理講論を見ると創造原理の第4節の「愛と美」の項目の中に、「忠 孝 烈」についての記述がある。

「目上の人の愛に対して目下の人がささげる美を忠と言い、父母の愛に対して子女がささげる美を孝と言い、また夫の愛に対してささげる妻の美を烈と言う。」

「愛と美」については

「主体が対象に授ける情的な力を愛と言い、対象が主体に与える情的な力を美と言う。」

「愛の刺激は動的であり。美の刺激は静的である。」

とある。

「愛と美の目的は、神から実体として分立された両性が、愛と美を授受することによって合性一体化して、神の第三対象となることによって、四位基台を造成して創造目的を達成するところにある。」

これらのみ言をみれば、愛と美は密接な関係を持っていること、「忠、孝、烈」などもそれ単独であるのではなく、それぞれ主人や親、夫と言った主体者の愛があって対照的な美があることがわかる。

「主体と対象が合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。」とあるが、これは、主体と対象が合性一体化されていった結果の中で表れて来るものであり、一体化過程はいかに愛と美が健全に授受されていくかが問題となる。

「忠孝」と言うと、ことさらに対象者の道義として強調されることがままあることがある。

日本でも戦前までは「忠孝」が、学校教育の中でもかなり強調されて教育されてきた時代もあった。「天皇陛下万歳」と叫びながら「戦をどどめたい」という陛下の大御心は無視された時代もあった。

韓国でも国民教育において「忠孝」が強調されて教えられてた時代があったことと思う。「忠孝」は特に儒学の中で重要な道義として取り上げられて教育されてきた。特に朱子学の教育では殊更に強調されてきた帰来がある。

時には「忠孝」が強制的に教えられてきた時代もある。朝鮮朱子学では「親の喪に3年服さなかった」といって、民がこん棒で叩かれる罰を受けたという話もある。「忠孝」を殊更に強調して民を力で強制しては、これはこれは本来あるべき「忠孝」の姿とは真逆な行為である。(別項の「朝鮮朱子学の弊害」で書いた)

「愛」があっての「忠孝烈」であろう。本来、「忠」や「孝」や「烈」は教育する必要のないものであろう。主体者である主人や親や夫に愛があれば自ずと生じるのが「忠」であり、「孝」であり、「烈」であると思うのである。

だから、原理では「愛」と「美」は同列であり、相対的なものであり、「愛」が主体で「美」が対象として説かれていいるのである。そのようにHOPE子は受け取った。如何であろうか。

 

 


「忠孝」あれこれ・・・①「日本之情 忠孝之源」

2017-02-14 22:09:44 | 忠孝

「日本之情 忠孝之源」

1968年2月22日430双の祝福式が挙行された。日本からは久保木修己会長夫妻と大山君子さんが参加した。祝福式が終わって韓国から帰国する2日前に真のお父様は久保木会長に揮毫をくださった。それが「日本之情 忠孝之源」であった。(参照「日本統一運動史」)

この前年、1967年の6月17日から本部教会において「原理大修練会」が開催された。これは1957年に出版された原理解説の土台の上に出版された「原理講論」にもとづく最初の修練会として開催されたものである。この時は真のお父様が主管してくださりながら劉孝元会長が講義をされた。この原理大修練会が終了した翌日の7月1日、御父母様のご提案により、東京都西多摩郡五日市の「城山」に登ることになり、総勢150人が2台のバスに分乗して出発した。到着後一行は真のお父様を先頭に一気に登り、山上で歌を歌ったり、参加した地区長たちに決意を述べるように促したり和動に興じた。

さてこの数日前に五日市に住む菅沼志づさんという婦人のもとに、もしかしたら大先生(真のお父様)一行150人が行くかもしれないという連絡が教会から入った。この時の経費は教会と菅沼さんで負担するという話だったが、菅沼さんは教会に電話をして、経費のすべてを自分が負担する旨を告げました。そして150人分のカレーライスやスイカなどを準備するため、保険を解約し、借金をして準備をしました。そして手元に1500円のお金が残ったのですが、孝進様(当時4歳)遊んで服を汚したので着替えを準備するためにその1500円を渡したのでした。そのことを知った真のお父様は「最高の言葉をあげるよ」と言われ揮毫されました。それが「精誠」と「誠心誠意 忠孝之源」というみ言でした。(「日本統一運動史」参照)

 

真のお父様は日本人の心情の奥に「忠孝の情」の流れていることをよくご存じで、そのことに関するみ言葉も多く語っておられる。

「日本には楠木正成などと言う人物もいたよね」と語られたこともあると聞く。

楠木正成と言えば後醍醐天皇に忠誠を尽くしたことで有名な代表的な忠義の人であった。このことが多く取り上げられているのが「太平記」である。太平記には後醍醐天皇などご皇室に忠誠をつくした人物が多く取り上げられている。「太平記」の作者ともいわれる児島高徳などもその人物である。江戸の初期に「太平記読み」と言われる人たちがいた。「太平記読み」とは、諸国の大名などお殿様の前で太平記をもととして講義をするのである。「太平記」から、人としての生き方や国を治める統治者としての知恵を学んでいったのである。太平記には楠木正成がいかに徳政の人だったかが述べられている。江戸の名君と言われる藩主や領主は、ここから治世の在り方を学んでいったのである。

孝の世界では近江聖人と言われた中江藤樹先生が親孝行の代表人物のようにも言われてきた。母親に孝養を尽くすため仕官を辞めても故郷に帰り孝を尽くしたと言われている。中江藤樹と言うと日本の陽明学の祖とされる人物である。この先生のことについては項をあらためて書いてみたいことがある。

 

「忠」や「孝」の心情はどのように醸成されていくのだろうか?また、本当の忠孝とはどのようなものなのだろうか?ちょっと・・・?な忠孝があるのでは・・・そのあたりを考えて行ってみていきたいと思う。(以下 続く)