日本の歴史上の人物で忠臣と言えば文句なしに楠木正成だろう。
真のお父様をして「日本には楠木正成がいただろう!」と言わしめた人物である。
何故楠木正成は日本を代表する忠臣として歴史に刻まれているのだろうか?その生涯を南朝側に立った軍記もの「太平記」の記述やいくつかのネット上の情報をもとにまとめてみました。
楠木正成はその前半生については河内の土豪説、得宗被官・御家人説、非御家人説など、諸説ある。
楠木正成が登場する代表的な軍記ものが「太平記」である。太平記は後醍醐天皇の即位から建武の新政、南北朝とその後の動乱期までを描く長編の軍記物語である。作者は複数あるようだが、その代表的執筆者は小島法師とされている。
小島法師と言うと、後醍醐天皇の隠岐の島配流に際して美作の院庄(現岡山県津山市)にて忠誠の詩を桜の幹に刻んだという逸話が残る児島高徳(和田備後三郎高徳)ではないかとも言われている。
後醍醐天皇が隠岐の島に配流される時船坂峠(現在の兵庫岡山県境)での天皇奪還に失敗した児島高徳は、隠岐の島に流される途上、院庄に宿していた館の庭に忍び込み、「天句践を冗(いたず)らにすること莫(な)かれ 時に范蠡(はんれい)無きに非ず」(「史記」に記された中国春秋時代、呉越の戦いにおいて、越王句践に忠誠を尽くし、劣勢でその命も危うかった越王句践を助け尽くした名家臣范蠡の故事を引用した詩。ちなみに「太平記」ではこの史記に記された故事を克明に引用している。)
その詩は、中国の故事にちなみ天皇を支える忠臣が必ずあるに違いないという意味を記した詩であった。警護の兵士たちは幹に刻まれた詩に驚いたがその意味は分からなかった。しかし、中国の古典にも通じていた後醍醐天皇にはその意味を理解できたであろう。
児島高徳については明治の一時期、児島高徳不在説(児島高徳は太平記にしか登場しない人物なので実在しなかったのではとの説)が唱えられたことがあった。今は様々な事象から高徳の不在を言うものはない。
さて、本論の楠木正成であるが、河内国千早赤坂村に生まれたとされ、家は金剛山一帯を本拠とする御家人であったとする説が有力である。
時は元寇の役から半世紀、鎌倉幕府は元寇の役後与える恩賞もなく権威が失墜、北条高時は遊興三昧、民は重税に苦しみ世の秩序は乱れていた。元徳三年(1331)幕府打倒を目指して後醍醐天皇は京都で挙兵した。この時挙兵に応じた武将は数少なかったがその中の一人が楠木正成であった。
後醍醐天皇に謁見した正成は「武芸で優る関東武士に正攻法では勝ち目はないでしょうが智謀を尽くして戦えば勝機もあるでしょう」と答えた。
正成は郷里の赤坂に築いた山城赤坂城を拠点に挙兵した。挙兵したといってもその時の手勢はわずかに500、寄せる幕府軍は数万の規模、とてもまともに相手にできる戦いではなかったはずである。しかし、正成軍は城に仕組んだ二重塀からの投石や藁人形、熱湯をかける等々の奇手でもって籠城、幕府軍をてこずらせた。この間京都では後醍醐天皇が捕らえられ、天皇は隠岐の島に流されることとなった。この天皇配流の途上に先に小島法師ではなかとされる児島高徳の忠誠の詩の物語があったのである。
翌正慶元年(1332)末になると大和で戦う護良親王と呼応しながら河内・和泉の各地で守護を攻略、摂津の天王子を占拠、これに対して大軍を派遣した幕府軍に対峙した正成は謎の撤退、逆に天王寺に入場した幕府軍に対して夜な夜な数万のかがり火で城を包囲、心理作戦に持ち込み幕府軍の撤退をもたらし一滴の血も流さず勝利するという最上の軍略で勝利する。
このように智謀を働かせて幕府軍を翻弄させる正成に対して幕府軍は山城千早城にわずか千人の手勢で籠城した正成に対して幕府は8万の大軍を派遣する。ところが、またしても正成の策にのり、兵糧攻めにするはずの幕府軍が逆に兵糧の欠乏で自滅するという事態となり、幕府軍は総崩れになって行くのである。
このように万の大軍の幕府軍にたった千人の手勢で勝利したという噂は諸国に伝わり、各地の土豪が天皇方に付き決起するようになっていったのである。この時幕府側から天皇方に反旗を翻した代表的な武将が、新田義貞や足利尊氏であった。
尊氏は京都を攻め、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を打ち取り、140年続いた鎌倉幕府は滅亡していったのである。
正成は隠岐の島に天皇を迎えにあがり、その後京の都に凱旋するのである。
建武元年(1334)後醍醐天皇は朝廷政治を復活、建武の新政がスタートした。後醍醐天皇は太平の世を築くべく新政をスタートしたが、公家を中心とした強権政治に走り、新政誕生に貢献した武士への恩賞より公家への恩賞を篤くしたことや、財政基盤を強化するためにとなした民への増税は鎌倉幕府のそれよりも重いものとなり民を苦しめ、武士や民の間に不満が大きくなっていった。
建武の新政の性急な施行はそのように諸国の武士の反発を招き、ついに建武二年(1335)足利尊氏が武家政治の復活を謳って鎌倉で決起するのである。
この時尊氏軍は京に攻め上ります。しかし、この時は楠木正成に、新田義貞、北畠顕家らが迎え討ち尊氏軍は大敗を喫し一旦九州に敗走していくのである。
ところが、この敗走する尊氏の後を追いこれまで天皇方についていた武士たちが尊氏の後を追っていく事態が生じてきたのである。天皇方に付いていた武士たちの間にも、尊氏の挙兵に共鳴するもの達がどんどん拡大していく状況となって行ったのである。このような事態を見て、正成は時の天皇に尊氏との和睦を勧めるのである。それは一時勝利した天皇方であるが、現下の状況は、諸国の武士や民が親政の在り方に疑問を抱き、尊氏の側にその理があることを見て取ったからであろう。しかし、この提言は天皇ご自身や側近の公家たちには受け入れられなかったのである。
翌建武三年(1336)九州で多くの武士や民の支持を得た尊氏が再び北上してくる。これに対し天皇は兵庫の湊川での尊氏軍対峙を命じた。その命に対し正成は、尊氏軍の勢いにもはや正攻法での戦いで勝つことは不可能である。京都にある朝廷の一時比叡山などへの疎開とその後の京に尊氏軍を引き入れて戦う策を提言するが、朝廷の権威を重んじる公家たちの意見によって子の策も聞き入れられなかった。これまで正成に従ってきた武士たちも正成のもとを去って行った。最後は一族も地侍たちも去って行く状況の中、民心から遊離てしまった天皇に現実を見据えて、あり方を改めてくれることを願いを託した最後の書状を認めて、残ったわずか700の手勢で湊川の戦に向かっていくのである。
・・・続く
今日は、ここまでとします。実はこの項全文をほぼ書き終えたところでPCがフリーズ、それまで書いたすべてが失われ(涙)、再度書き始めました。正成最後の戦い「湊川の戦い」、以降は次回に続きといたします。
何故かこの投稿、ダブって二つアップされていましたので片方はアップ止めました。