くろにゃんこの読書日記

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エウリーピデース 「ヒケティデス」

2007年02月20日 | ギリシア悲劇とその周辺
「ヒケティデス」といえばアイスキュロスにも同名の悲劇がありますが、このタイトルの意味するものは「嘆願する女たち」であって、アイスキュロスとエウリーピデースでは取り上げる題材が異なっており、内容もまったく違います。
エウリーピデースはテーパイ伝説に題材をとっていて、
アイスキュロス「テーパイを攻める七人の将軍」に続くものと思ってください。
敗北した七将の埋葬禁止をめぐるもので、
それはソポクレース「アンティゴネー」と同じモチーフではあります。
「アンティゴネー」では、遺体の埋葬をめぐる問題は、人の掟を守るか、神の掟を守るかという義に訴えかけるものでしたが、エウリーピデース「ヒケティデス」では、戦争の愚かさ、虚しさを強く訴えるものであるといえるでしょう。
また、非常に政治的な色合いが濃く、当時のアテーナイの動向があまりよく分からないので、そのあたりのことは本書の解説を読んでいただくことにして、ここではエウリーピデースの悲劇では珍しい演出的な手法に注目していきたいと思います。

これまで、エウリーピデースの悲劇を7編読んだわけですが、
エウリーピデースの悲劇は詩がそのまま想像力に訴えるものなので、舞台の演出法をそれほど気にせずに小説と同じように読むことができます。
ですから、「ヒケティデス」の冒頭、アテーナイ西北郊外にあるエレウシースの
デーメテール神域で、アテーナイ王テーセウスの母を取り囲むようにして嘆願者が座っているという設定に正直驚きました。
この場面は、アイスキュロス「エウメニデス」でのコロスが演じるエリーニュエスの集団の登場と同じくらい印象的なところではないかと思います。
嘆願者として座り込むアドラーストス(アルゴスの王)と七将の母、その侍女たち、
七将の子供たちです。
願いは、アルゴス側の兵士の遺体の埋葬と七将の遺体の返還です。
この七将というのは、「テーパイを攻める七人の将軍」であり、そのうち1人はポリュネイケース(オイディプースの息子)で遺体はアンティゴネーによって埋葬され、予言者アムピアラーオスは地面が裂けて飲み込まれてしまっているわけですから、実質5名ということになります。
しかし、ここでは演劇的な象徴性でもってコロスは七将の母親7人とその侍女8人から成り、七将の子供も7人であるようです。
論理的にはおかしいと思うでしょうが、母の数や子の数は、それほど重要ではなく、舞台上での分かりやすさという点でも、私は7人であっておかしくないと思います。

さて、嘆願を受け入れ、テーセウスは正義の戦いを決意し、テーパイとの戦いに踏み切って、首尾よく兵士達の遺体の埋葬をし、七将の遺体を取り戻します。
七将のうち雷に打たれたカパネウスだけは神に捧げられたものとして別に火葬して聖別しなければならず、その火葬する場面で、カパネウスの妻エウアドネーが岩山に登場し、夫を失った悲しみのあまり、遺体が焼かれている火の中に飛び込んで自殺してしまいます。
悲劇では、舞台上で自殺や殺害が演じられるというのは極めて異例なことです。
他にはソポクレース「アイアース」がありますが、
観客の受けた衝撃は大変なものだったと推測します。
アイアースは剣に飛び込むというもので、剣の前に身を投げ出したのか、剣が縮むように出来ていたのか、人形ならどこで入れ替わるのか、演出上、興味のあるところです。
エウアドネーの場合は、炎の書き割りがあって、クッションなどで対応したか、
人形が飛び込んだか。
エウアドネーの死は、子を亡くした母、父を亡くした子、夫を亡くした妻の悲しみだけでなく、エウアドネーの父イーピス(エテオクロスの父でもある)をも悲しませる結果となり、ここで悲しみは最高潮に達し、虚しさへと変わっていきます。

ギリシア悲劇が演じられるのは野外であって、幕間はありえません。
私ごとですが、私の行っている人形劇というのも、舞台の関係上、幕間はなく、舞台設定を変えるときも、劇場が暗くなったりする暗転は望めません。
そうなってくると、観客が見ている前で舞台設定も変えなければならないのですが、観客は案外それでおかしいとは思わないものです。
観客は、舞台を観ながら、想像力も使っているのであり、
観たままを観ているわけではありません。
観客の想像力にどれだけ訴えることができるのか、これは舞台の設定の仕方や演出にかかってくるわけで、「ヒケティデス」は野外劇場の特徴や、観客の心理を熟知した悲劇であるのではないかと思います。

最後に、一口メモとして。
アイスキュロス、「テーパイを攻める七人の将軍」では、アルゴスの七将とテーパイの七将を比較して、アルゴス側よりもテーパイ側のほうが義にかなっているという長いくだりがあるのですが、「ヒケティデス」ではそれに対抗してアルゴスの七将を讃えるアドラーストスの言葉があります。
エウリーピデースはアイスキュロスに対する対抗心からこのくだりを書いたのかもしれませんが、正義対悪という図式をよしとしていない姿勢があらわれているのではないでしょうか。

エウリーピデース II ギリシア悲劇全集(6)




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