くろにゃんこの読書日記

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エウリーピデース 「ヘカペー」

2007年02月14日 | ギリシア悲劇とその周辺
「ヘカペー」も「アンドロマケー」同様トロイアー戦争後の物語ですが、ノストイ(帰国譚)としての筋立てあることから「ヘカペー」は直後の事件を扱っていることがわかります。
プロロゴスはトロイアーの王プリアモスと王妃ヘカペーの末の息子ポリュドーロスの亡霊によって語られ、自分が父の友の家で育てられていたこと、父の友であった男が黄金に目がくらみ、彼によって亡き者にされ、海に投げ捨てられたこと、姉ポリュクセネーが犠牲にささげらること、姉と一緒に葬って欲しいことを訴えます。
まだあどけなさが残る子供の役であることから、観客は痛ましさに涙したことでしょう。
ヘカペーらトロイアーの女は捕らえられ、かつて王族であったものも自由人であったものも等しくギリシア側の奴隷となっています。
「アンドロマケー」のアンドロマケーも同じ境遇でありましたし、
戦の報酬としてそれに相応しい奴隷を手に入れるのは慣習であって、戦死したアキレウスがそれ相当の要求をしても不思議ではありません。
亡霊となって墓の上にあらわれたアキレウスは慰霊の生贄として、
プリアモスとヘカペーの末の娘ポリュクセネーを要求します。
アガメムノーンはカッサンドラーを側女においていることから(カッサンドラーはポリュクセネーの姉)この生贄に反対し、犠牲をすべしという意見と犠牲は必要ないという意見でギリシア軍は2つに分かれますが、オデッセウスによって説き伏せられポリュクセネーの犠牲は決定します。
おやっと思うのは、犠牲をしなくてもよいという意見が出ることで、慣習と合理的精神とが拮抗しているのは、解説によれば当時のアテーナイの世相(ペロポンネーソス戦争による価値観の混乱)を反映してのことらしいです。
ヘカペーはポリュクセネーを連れに来たオデッセウスに取りすがり、娘を連れて行かないようかき口説きますが、ポリュクセネーは自由人のままに死を迎えたいと犠牲を承諾します。
「オデッセウスさま、見えております、
 右手を着物の袖にお隠しになるのが、
 またこの手がお髭に触れぬよう、お顔をあちらへとそむけられるのが」
ヘカペーが嘆願者としてすがろうとしているのを必死で拒んでいるオデッセウスを描写したポリュクセネーの言葉ですが、その一場面が目に浮かぶようですね。
自らの犠牲を甘んじて受けるというのは「ヘーラクレイダイ」のマカリアーの高貴なる死と同じですが、「ヘーラクレイダイ」と違うのはマカリアーの死を悲劇中で直接触れていないのに対して、「ヘカペー」ではポリュクセネーの死の状況を老伝令使タルテュビオスによって詳しく述べられ、この口上は悲劇中もっとも印象的な場面といえるでしょう。
ネオプトレモス(アキレウスの息子)によって、いざ犠牲をささげようとしていたとき、着ている服を臍のところまで引きちぎったポリュクセネー。
「さあ、ここを、あなた、胸を刺そうというつもりなら刺しなさい、
 頚がよいとおっしゃるなら
 さあ、この喉首がいつでもお待ちしております。」
彼女は喉を切り裂かれ、犠牲として死を迎えます。
ポリュクセネーがどんなに勇敢に死に立ち向かい、ギリシアびとから尊敬の念を抱かれようとも、彼女自身が高貴なる死を迎えようと願っても、彼女はアキレウスへの犠牲であって、アキレウスの奴隷として死ぬことに変わりはないのです。

娘が連れて行かれたことで地に倒れたままのヘカペーでしたが、老伝令使の伝える勇敢なる死の様子を聞いて、「いくらか心が晴れました」と気持ちを持ち直します。
ところが、ポリュクセネーの遺体を洗うために海へと水を汲みに行かせたその先で、
息子ポリュドーロスの死体が発見されます。
ヘカペーはことの真相を悟り、ポリュクセネーの埋葬のためにヘカペーを呼びに来たアガメムノーンにポリュドーロスを殺した男に制裁を加えることを嘆願します。
最初はノモス(掟)に背く行為と断罪し、立ち去りかけたアガメムノーンに娘カッサンドラーのことを持ち出して情に訴えかけます。
まさに
「人と人との絆も状況次第、
 この上なく憎い敵が味方となり、
 昨日の友が今日の敵になろうとは。」(コロス)
たとえヘカペーに同情し、罪ある男が罰を受けて当然だとしても、
その男ポリュメーストールはトラーキアーの領主であり、ギリシア側とは友好な関係を持っていますから、アガメムノーンも躊躇せざるおえません。
そんなアガメムノーンにヘカペーは、ポリュメーストールを呼んでくれればいいこと、子供たちもつれてくるように伝えてくれれば、後は私たちだけでやりましょう、もし、男が騒いだ場合、ギリシア側が味方してくれるのを止めてくださいと願い出ます。
それならばいいだろうとアガメムノーンは約束し、退場します。
なんとも弱々しい、勇猛とは正反対なアガメムノーンですね!
こういう人間らしい弱みを持つアガメムノーン像を出してくるところに
エウリーピデースの真髄を感じます。
さて、呼び出されたポリュメーストールをヘカペーは黄金をちらつかせて言葉巧みに天幕の中に誘い込み、トロイアーの女たちとともに女らしい油断のさせかたでもって、ポリュメーストールの子供2人を殺し、ポリューメーストールの両目を衣服を留めるブローチで刺し貫きます。
実際に手を下したのはヘカペーではなく、トロイアーの女たちであり、いくら王妃の息子のためとはいえ、子供を殺す行為を進んでやるとは、ちょっと常識的に考えられないことです。
しかし、先に触れたように、彼女たちは奴隷として連れて来られているのであり、
その心情は絶望に満ちているといえるでしょう。
トロイアー最後の頼みの綱であったポリュドーロスは殺され、
彼女たちの拠所は全てなくなってしまいました。
そんなときに、自分たちの鬱憤をはらす、復讐という行動が目的をもって目の前にあるとしたら、
彼女らに分別を求めることはできないでしょう。
ポリュメーストールとその子供の殺害は、
彼女らにとって狂乱の宴であったのではないでしょうか。
騒ぎを聞きつけたアガメムノーンが登場し、ポリュメーストールがことの次第を告げ、
自分がポリュドーロスを殺したのはアガメムノーンのため、敵が仇なす前に(ポリュドーロスが成長して敵となる前に)殺したと弁明します。
ヘカペーはポリュドーロス殺害の魂胆はポリュドーロスが持っていた黄金である、もしギリシアのためを考えるなら、その黄金をギリシア側に差し出しているはずだと訴えます。
この弁舌はヘカペーに軍配が上がり、アガメムノーンはヘカペーを援護し、激怒したポリュメーストールは、予言者のようにヘカペーが犬に変身して帆柱の上から海に落ちること、アガメムノーンとカッサンドラーの末路を語ります。
逆上したアガメムノーンは、ポリュメーストールを引っ立て、この激情の一幕は終わりをつげ、トロイアーの女たちも先程までのおとなしい奴隷の身に戻ります。

以前、どこかのサイトで(もう一回見つけようとしたけど発見できなかったので間違っているかもしれない)ソポクレースは人がいかに生きるかを、エウリーピデースはありのままを描いているというようなことを書いてありました。
ソポクレースの「エーレクトラー」は、まさにそのような悲劇であると思ったものですが、「ヘカペー」を読んで、たしかにありのままの姿をそのまま差し出していると感じました。
ヘカペーが犬に変身するというのはオウィディウス「変身物語」にも見られるということで、「変身物語」、是非読んでみたいです。

エウリーピデース II ギリシア悲劇全集(6)




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