Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

花という現象。

2007-10-16 | 徒然雑記
 花瓶に挿した花が日々萎れてゆくさまをみている。

時どき、飾った花がそのかたちを留めなくなるまで見続けていたいと思うことがある。
それは花という固定化された概念ではなく、花というひとつの現象となる。

 華やかに、あるいは可愛らしく咲く花が花弁の色を茶に変えながら首を垂れてゆくさま、葉がくしゃっと縮れて花瓶の水が濁ってゆくさまをみている。その姿は、人の希望が打ち砕かれてゆくようすに例えることも、誰か大切な人への情愛が徐々に薄れて心離れてゆくようすに例えることもできるような気がする。そういう変化や現象を包括した「花」という単語の意味を忘れたくないと願うためだ。 

 人は、美しく咲いた花を愛で、心を寄せる。そして萎れた花を汚いといってその首を掴んで廃棄する。その背景にあるのは心弱さと表裏一体の残酷さ。開花を頂点とした時系列のピラミッドを作れば、萎れることは「零落」と定義できる。萎れた花は花が本来あるべき姿ではないと断定することによって不安を排除することができる。
 そこを敢えて見続けようという不思議な意思を表す顕著な例が「不浄観」であろう。それが宗教的な修行の一環として行われていたことは、すなわち現象を見ることにはリスクが少なからず存在するということの裏付けに他ならない。だから、人は経験によってその耐性を身に着ける。

 他の国民と比べて「現象」を見ることが好きなはずの日本人においても、少しずつだが確実に「表象」を見ることのほうに移行しているのかもしれないと感じる。「キャラ」や「アイコン」という言葉の隆盛に、象徴という引き出しで合理的に整然と整理された現象の骸が透けて見える。そのことに良し悪しは多分ないけれど、なんとなく淋しい気分がするのは何故だろう。

 
 昨夜帰宅したら、挿さっていた花瓶の位置もそのままに、枯れた花は新しく生き生きとした花へと姿を変えていた。
恐らく今年の見納めになるかと思われる群青色の竜胆に、冬がもう遠くないことを示す小さな姫りんごが並んでいた。初秋から初冬までの移り変わりという現象をひとつの花瓶に活けることもまた、人間が人間の目線で造形した身勝手な表象に過ぎない。