Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

救世主。

2007-10-25 | 徒然雑記
 終電を降りて、ああ、今日も中途からタクシー帰りか、と人通りもまばらになった暗い駅前で嘆息した。駅のロータリーには凡そ5台分のタクシーのヘッドライトが見えた。この駅前からは午前2時前後までタクシーがなくなることはない。僕のような人は、多分少なくないのだ。
 ここまできて慌てて帰るのも馬鹿馬鹿しくて、僕は珈琲を一杯飲むためにファミレスに入ることにした。

「阿呆みたいに忙しいくせに、給料があがらないどころか、残業代も、タクシー代すら出ないんだもんなぁ・・・」
珈琲を待ちながら、僕は誰にともなく呟いた。
「忙しいのが厭なの?で、お金も足りないんでしょ?」
「はっ?」と僕はうっかり深夜のファミレスに相応しからぬ頓狂な声を上げた。僕の呟きを聞かれた恥ずかしさもさりながら、テーブルの向かいの席に20代も半ばと思しき若い女がいつのまにか座っていたことに気付かなかったことへの驚きだ。
「ああ、まあ、そうなんだけど・・・」と完全なる弱腰で、僕はその女に同調した。幾分か気を落ち着けようと煙草を取り出し火を点けると、「ごめんね、わたしにも一本頂戴。」と女が白い指を伸べてきた。もうどうでもいいや、と僕は煙草を差し出した。

 落ち着きを取り戻した僕は、「で、何かしてくれるわけ?」と女に訊いた。女はにっこり笑って、「順番としては、お金がいっぱいあれば、忙しく仕事に追われなくて済むわけでしょ?時間は難しいけど、お金ならあげられる。」と事も無げに云った。僕はその自信が可笑しくもあり不可解でもあり、「僕に?どこの誰かも判らない僕にお金をくれるっていうの?」と重ねて訊いた。「アナタ次第であげてもいいわよ。だけど、アナタひとりを優遇してお金をあげたりしたら不公平じゃない?同じくらいか、もっと忙しかったりもっとお金がない人だっているでしょう。だから、もしそうなったら世界のみんなに同じだけあげるのよ。」女はにやりと笑った。

「毎日毎日ね、銀行口座に100万円ずつ振込まれるわ。世界のみんなにね。口座を持ってない人には、箪笥とか引き出しとか、そういうところに入れておけばいいの。最初はみんな慌てるでしょうね。借金してた人はこれで返せるって喜ぶだろうし、取立て屋さんだって同じだけお金が入ってきたら、今までみたいに怖い取立てする気もなくなるでしょう。あと、これまで頑張ってきたお金持ちとか株とか為替とかやってる人はみんなに追いつかれるって戦々恐々とするわ。でも、それも1年もしたらオシマイね。きっとみんな諦める。だって、みんなの財布には殆ど同じだけのお金が入っているんだから。物価だって据え置いちゃうから、みんな手持ちのお金で山だって飛行機だって買えちゃうようになるのよ。そんな環境になれば、アナタをはじめ、みんな馬鹿馬鹿しくて仕事もしなくなるわよね。ほら、これで一丁上がり。」女はそこで、面白そうに煙草の煙をすぅと吐き出して、息を継いだ。

「仕事しない人が増えるから、食材とか工業製品とかは徐々に市場から減っていく。お金はあるけど土地がないから、そのうち買える不動産もなくなってく。買ったって維持するために頑張って働いてくれる人がいないわけだし。そうしたら、みんなお金が有り余るくらいあって、仕事だってしないで生きていける。もし誰かが食べ物を頑張って作ってくれるとしたら、だけどね。」

 何かに呑まれるように話を聞いていた僕の脳裡には、高層ビルに囲まれた殺風景な大都会に、人がひとりも歩いていない風景が浮かんだ。
「君、ちょっと待て。」
僕は慌ててその話を止めようとした。

顔を上げた僕の目の前には誰もおらず、いつの間に置かれたのか、珈琲の湯気が立ちのぼっていた。
うたた寝でもしてしまったかな、と僕はほっと安堵した。
灰皿に転がる口紅のついた煙草の吸い差しに視線を凍りつかせる前の、ほんの一瞬だけ。