Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

腕を組むこと。

2007-10-01 | 徒然雑記
 「あなたはあの人と腕組んだことある?」
俄かにその文脈やら意図やらを図りかねる不思議なメールが届いた。
 久々に睡眠まで余裕を持った時間に帰宅し、今日こそは覚醒時の自由時間を保持するぞと思って淹れたフレーバーティを口に運ぼうとしたときのことだ。
「たぶん、ありません」とYES OR NOで答えてしまうのが最も簡単なのだが、質問の意図があまりにも判りかねるせいで、そのような単純回答が果たして相手の望む回答なのかどうか、自信がなかった。仕方なく、「わたしは腕を組む派ではなく、どちらかというと手を繋ぐ派なので、たぶんないと思います」と答えた。

 記憶を遡ってみても、上述のような自分の慣習からみても過去に腕を組んだという可能性はかなり低い。とはいえ、あまりにも男だ女だなどという特別な意識をしなさすぎる友人に対して自分がとった行動なんて、いちいち正確に覚えては居ない。だから私にとってその人と腕を組もうが組むまいがどうでもよく、どうでもよいことというのは往々にして記憶の淵に忘れ去られていたりもするものだ。添えられた「たぶん」は、不正確を避けるため、そしてその行為がわたしにとって重要度がとても低いという事実を明示する非常に明瞭なグレーゾーンだ。

 もし、そのメールが「あなたは、誰かと腕を組むのがすき?」という質問だったとしたら、わたしは想像力を膨らませ、嬉々としてその問題について議論を展開しはじめてしまっただろう。そうなったら、気に入りの紅茶を味わうどころではない。

 メールの返信が一段落さえしたら、続くのはわたしの勝手な遊戯だ。まず、質問の主は、「腕を組む」という表象からどのような真実を見出したかったのだろうか、と考える。「人の心は掌にある」という比喩を好んで使うわたしにとって、腕を組むという行為は誰かと接触していることで何らかの利便性を高めるためか(人混みではぐれないとか、歩行のリズムを合わせるとか)、接触という事実を手軽に仕立て上げるためのツールであるかのどちらかだ。そこにこころの有無を求めることはない。あくまで、わたしにとって、だけれど。


 日本語はとても品よく上手に人を惑わすようにできている、とよく思う。腕を「組む」と云えば聞こえはよいが、愛想なく云えば受動者の腕を能動者の掌が掴んでいる状態にすぎない。だったら、誰にも気付かれずにこっそりと掴まれている腕を地下鉄の手すりに置き換えてしまうことだって可能じゃないの、と思ってしまう。そう思ってしまう限り、腕を組むという行為はわたしにとってきっと自らをこれっぽっちも充たさない接触としてカテゴライズされているようだ。

 かたや、繋がれている掌の片方を受動的な何かにもし変換できるとしたら、土手で摘んだすすきの穂やエノコログサのように、歩くリズムに合わせてそれを振り回したら愉しい気分になりそうななにか。握られて振り回されているだけの受動的なそのなにかからも何らかのメッセージ(この場合は季節のそれ)の発信を、うっかりこちらが期待してしまいたくなるもの。
だから、それは決してスーパーの買物袋であってはならないと思うわけなのだ。
 




最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
察知する手と腰が好き (マ‐シャルア‐ティスト)
2007-10-01 23:42:10
手を繋いだ状態から,手首を掴まれた状態から,上腕を掴まれた状態から,上袖を掴まれた状態から...手(腕)はとにかく忙しい。やっぱり足(脚)より器用だから。とにかく、力を抜いてアンテナである手(腕)から相手の微細な身体と心の動きを察知し、絶妙なタイミングで,相手に分からないように「ふぅ」っと抜いてやる。すると、相手はわけも分からずに大きくバランスを崩すはずだ。手(腕)を掴んだ瞬間からいくばくかこちらに頼っているのだから。この感覚をさらに研ぎ澄ませれば,衣服を掴まれた上からでも同じことができるはず...って「腕を組む? 手を繋ぐ」...ん~やっぱり俺は「腰を抱く」かな密着度No.1や!
返信する
調査したことあります (高口太郎)
2007-10-01 23:49:00
前職の頃、とある面白い担当者が真面目に
調べて欲しいと言ってきたことが、
「カップルが腕を組んだり、手をつないだりするのは
男性が右側が多いのか、左側が多いのか」
ということでした。

意外と面白い結果でした。
返信する
腕を組む、手を繋ぐ (洋右)
2007-10-01 23:56:23
わちはそのどちらも好まない。
手を繋ぐという行為はとても快楽があり好きなのだが、それによる緊張(興奮?)により発汗し、気持ち悪さが勝ってしまう。
腕を組むという行為は、自身の歩幅が広く、テンポも早い為、不協なリズムを醸し出す為不快である。
故に、ベストなのは、遊びのある「腕に掴まって貰うw」だ。
勿論、相手に合わせて歩行速度は変えてはいるが、個々のリズムというのは、そう簡単に変わらないし、無理に合わせても、どちらかに破綻が生じる。
それよりも、月日をかけて、自然に合わさる方が大事じゃないかなと思う。
返信する
Unknown (saorr)
2007-10-04 02:15:07
腕を組むのは離れたくないから。

手をつなぐよりもはるかに強く、相手を感じられるように思えるから。

相手の手は忙しい。カメラを持ったり本を手に取ったり。
つないだ手を振りほどかれるのが怖くってさびしい。

彼の隣は自分のものだと思いたい。
だれにもその特別なところにいてほしくない気がする。

だから余所見したときに、腕に力をこめてくれたり、つないだ手に力を籠められると、言いようもない幸福感が生まれる。

ただそれだけさ。


返信する
利き手の立場 (マユ)
2007-10-05 11:57:47
>マ‐シャルア‐ティスト さま

「腰を抱く」は自らと相手の身長差や体格差が相当シビアに関係してきますから、私にとって「手を繋ぐ」と同列に扱うのはとても難しいですね。
大概は、病人が介護されてるみたいな恰好になってしまいますから(笑

モノとモノが接触しているとき、そこにたとえ自重がなくとも、それぞれの物体の間には物理的な依存関係が出来上がります。「地球がモノを引っ張っているとき、モノが地球を引っ張っている」というアレですね。合気道の論理は決してそれとイコールではないですが、妙に気になります。


>高口太郎 さま

その「面白い結果」は案の定教えてくれないのですね(笑
右側・左側という立ち位置は、自分の利き手をどうしたいかという一点に絞られますよね。相手との接触に利き手を使う場合、「腕を組む」のほうが利き手の便利さが一定程度残されているような気がします。

最近は、女性が右側にいる率が増えてきているように感じるのですが、気のせいでしょうか。

返信する
呼吸 (マユ)
2007-10-05 12:10:52
>洋右

相変わらず硬派な文章で好ましいです。
やっぱり「腕を掴む」は、掴まれている側にしても、かなりアソビが残されているものなのですね。
確かに、方向転換とか急ぎたい場合も、掴まれている場所を支点にして引っ張れるので結構便利そうな気がします。

「自然に合わさる」がほんとうに理想です。
体格や身長によって、普通ならなかなか呼吸が合いにくそうな人々がそうなっているのを見ると、微笑ましい気分になるわけです。


>saorr

「ただそれだけ」の中に、とてもいっぱいの想いが込められているような気がしつつ拝読しました。

私の場合、思い返してみれば、定期券を鞄から取り出すとき、レジに並ぶとき、カメラを構えるとき・・それらの「今やらねばならん」各案件に対応する度に、ぽいぽいと繋いだ手をほかしているような気がします。それらタスクを消化するための必要行為と隣にいる誰かの存在とは同列に存在するものではないけれど、私が「ぽいっ」とすることでもしかしたら誰かが若干なりしょんぼりするかもしれないわけなのですね。むずかしい。
返信する