「マユさん、そろそろ人間飽きたでしょう?」
「あぁ、わかる?」
端から見たら、おかしな話だ。話が通じていることすらおかしい。
人間に飽きるもなにも、私は対人拒否している訳でもないし、新しい思索や哲学を開花させる気も毛頭ない。
しかしながら、なんとなく、本当に「なんとなく」としか云いようのない感触を持って、かねてから「私は今回で人間が終わりだろうな」という意識があった。かといって、コレでおしまい、ということではない。ケモノでもなく冷たい物質でもない、何かちょっとだけ高い位置から俯瞰して見るような感触がぼんやりと伴っている。だけど、それが何なのかは判らないし、何であるか知りたいとも思っていなかった。
「云ってもいいですか。マユさんの次になるもの。」
「いいよ。」
「マユさんは、木になります。」
「木ぃ?」
・・軽くショック。
だって、木に対する憧れなんて持っていないし、木に対する偏愛もない。それなのに、なっちゃうんだ。木に。
「でもね、芽とか苗から始めるんじゃないところがマユさんらしいんです。御神木に飽きた木がどこかにいて、別のものになろうとして抜けたところにスポッと収まるんです。そこがね、ほんとに、『らしい』の。」
そう云って彼女は笑った。
確かに、らしいと云えばそうかもしれない。私も笑った。
胡散臭い話であることは判っている。馬鹿げた茶番かもしれないことも。
だけど、「明日は雨が降るみたいだよ。」というのと「次は木になるみたいだよ。」というのでは、その胡散臭さに左程の違いがあろうか?雨は降らないかもしれないし、次に木になることはないかもしれない。だけど、結果の違いはその時点での自分自身を大きく左右するような出来事であろうか?
つまりは、同じだけの確かさ。不安定で、ふわふわしていて、そのくせこちらの気をふぃと引こうとするだけの魅力を持つ「予報」というものはすべからく。それを信じるとか信じないとかいう陳腐な言葉は、どちらに転ぶか判らない結果を受け止める際の自分の心構えを事前に行うための儀式として生まれた言葉にすぎない。だから私は信じるとも信じないとも云えない。何故ならどう転んでも当たり前で、心構えが不要であるから。
私は次に木になるかもしれない。ならないかもしれない。
もし私が次に木になるとしたならば、暖かい土地がいい。できるならば、薪能や神事がきちんと行われるところがいい。
「もしそうだったら、特等席ですよ。素敵ですね。」
確かに、そうだ。
「あぁ、わかる?」
端から見たら、おかしな話だ。話が通じていることすらおかしい。
人間に飽きるもなにも、私は対人拒否している訳でもないし、新しい思索や哲学を開花させる気も毛頭ない。
しかしながら、なんとなく、本当に「なんとなく」としか云いようのない感触を持って、かねてから「私は今回で人間が終わりだろうな」という意識があった。かといって、コレでおしまい、ということではない。ケモノでもなく冷たい物質でもない、何かちょっとだけ高い位置から俯瞰して見るような感触がぼんやりと伴っている。だけど、それが何なのかは判らないし、何であるか知りたいとも思っていなかった。
「云ってもいいですか。マユさんの次になるもの。」
「いいよ。」
「マユさんは、木になります。」
「木ぃ?」
・・軽くショック。
だって、木に対する憧れなんて持っていないし、木に対する偏愛もない。それなのに、なっちゃうんだ。木に。
「でもね、芽とか苗から始めるんじゃないところがマユさんらしいんです。御神木に飽きた木がどこかにいて、別のものになろうとして抜けたところにスポッと収まるんです。そこがね、ほんとに、『らしい』の。」
そう云って彼女は笑った。
確かに、らしいと云えばそうかもしれない。私も笑った。
胡散臭い話であることは判っている。馬鹿げた茶番かもしれないことも。
だけど、「明日は雨が降るみたいだよ。」というのと「次は木になるみたいだよ。」というのでは、その胡散臭さに左程の違いがあろうか?雨は降らないかもしれないし、次に木になることはないかもしれない。だけど、結果の違いはその時点での自分自身を大きく左右するような出来事であろうか?
つまりは、同じだけの確かさ。不安定で、ふわふわしていて、そのくせこちらの気をふぃと引こうとするだけの魅力を持つ「予報」というものはすべからく。それを信じるとか信じないとかいう陳腐な言葉は、どちらに転ぶか判らない結果を受け止める際の自分の心構えを事前に行うための儀式として生まれた言葉にすぎない。だから私は信じるとも信じないとも云えない。何故ならどう転んでも当たり前で、心構えが不要であるから。
私は次に木になるかもしれない。ならないかもしれない。
もし私が次に木になるとしたならば、暖かい土地がいい。できるならば、薪能や神事がきちんと行われるところがいい。
「もしそうだったら、特等席ですよ。素敵ですね。」
確かに、そうだ。
どうも、わちは飽きっぽい。特に人に対して。
どんなに凄い人であろうと、底というか、器が見えてしまうと、途端に興味が冷めてしまう。
偉そうな事を言っているが、むろん自分の器は小さいので棚上げした上である。
さて、そんな話は置いといて、
今回の文で、また、本を思い出した。
それもまた、新井素子である。
どうも洗脳されている様だ。
タイトルは「グリーンレクイエム」
宇宙人が地球に飛来する。
その宇宙人は、植物から進化した人間で、
その事によって…といった内容のSFである。
内容は本文とはかけ離れているが考えさせられる内容だったなぁ
その知り合いは以前は岩高なんだか鉱物だttって言われたらしいけどね。
なんなんだろうね。
また高度な知性を持ち人間より上位存在の植物は、SFなどに出てくることもあります。
でも、ご神木に生まれ変わって、薪能や神事を特等席から見物する、凄い発想ですね。大変愉しく読ませていただきました。
え。飽きっぽいの?
・・もしかして、もう私にも飽きてたりとかしないよね?
もし飽きたら、遠慮なく云ってね(笑)
今回は2名とも同じ(厳密には違うけど)本を連想されたようですね。相変わらず私の知らない本だけど。案外本を読んでいないことがもうバレバレね。
論文が終わったら・・・と云って溜めている本がなんと多いことか!
>seedsbook さま
やはり、いるんですねぇ。
今回の話は、珍しく実話を元に書きました。
実話のほうが凄かったのでマイルドにしてみました(笑)
残念ながら、今の人生以前のことについては言及されませんでしたが、そっちもかなり気になります。
>lapis さま
子供の頃に病院の待合室で読んだ漫画は、ポピーの花に知性があって、それがとても怖くて、そのせいで今でもポピーの花が好きになれません。内容なんて忘れてしまっているのにも拘わらず。
愉しんで頂けてなによりです。「友達にこんなことを言われたよ」と云っても、「こいつ論文疲れで壊れた?」と思われるのがオチなのであまり公にはできない話だったので、まるでフィクションのようにして作ってみた次第です(笑)
りっぱな神社のご神木・・。いいなあ。
って思っているのに。
逆に見切られて、さよならされそうで怖いわぁ…(汗)
次は木になりたいのですね。
木の魅力はなんなのでしょう。私もこれからじっくり考えてみますが、やっぱり枯死したり病気になると痛いのかな。夏は暑いのかな。鳥がいっぱい集まったら、姦しかったりむず痒かったりしないのかな、などと今から要らぬ心配をしてしまいそうです。
>洋右
あぁよかった。まだなのね。
だまし鏡になっていて、浅い底が底なしに見えているだけかもよ?だけどタネ明かしはもう少し先延ばししましょ。
あたしからさよならですって?
先の見えなくなった恋人でもあるまいし、そんな気紛れは似合わないよ、私には(笑)
(樹がいっぱいある場所だったので・・・)
「次、樹だったらどうかなぁ~」
「う~ん、人よりは長生きだよな。とりあえず。」
(その時、視線の先に切り株が・・・)
「・・・。そうとは限らんなぁ・・・。」
「・・・。何の樹になるかって重要だよ。割り箸って何の樹?」
「わかんね。伐採されるにしても、割り箸はやだよなぁ・・・。」
なんて話をしながら、寺に辿りついて、
「寺の柱になるならアリかもね。」
って事になりました。
でも、あまり長いと樹も飽きそうだから、割り箸になるあたりが実は丁度いいかもね。
「色づく世界地図」のコメントで、「ロバに生まれ変わることもあるかもしれないから、優しくしておいたほうがいい」というのを何故か凄く覚えています。
とはいえ、次に木になる談義をしらふでするとは、さすがだね。
割り箸は、折れたバットの再利用先でもあったり、吉野杉の間伐材を使って作ることもあります。ほんと、それぞれ。
私には、奈良のある寺でいつも寄り掛かる一本の柱があります。だっこしたくなるくらい、なんだか暖かい柱です。
次に木になるとはいえ、柱になるわけじゃないんだろうけど、あの柱には心があってもおかしくないな、と思いました。
マユさんは、木になりますかぁ。ぃいなぁ。
あたしは、たまに好みの木に出くわし、しばらく眺める事があります。そして、必ず「ほふぅ」と一息吐き出します。なんとも、心地好いです。・・・少しあぶない顔をしているであろうことは、周囲の人間の反応で承知しております。
ぃやぁ、マユさんは、木になりますかぁ。ぃぃなぁ。
でも、自身が木になると、木を見上げて「ほふぅ」ができなくなりますねぇ。
先日、出雲大社に詣でた時は、大きな松やら、素敵に艶めかしい枝っぷりの木やらと「ほふぅ」の木が多く、御社に辿り着くまでにえらく時間がかかりました。