夢中人

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関係性

2011年09月07日 | Weblog
しばらく間があいてしまいました。。。キリスト教のことを考えていたんですけど、自分の中でまとまらないというか、これというものがでてこないんです。
ま、2000年程の歴史のあるものを1週間や2週間そこらでわかるはずないでしょうね。

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「ヨハネの福音書」をDVDで観てみました。感じたのは「愛」そして「感謝」でした。いろんな宗教があるかと思いますが、それは共通してあるものではないでしょうか。

お話の中で「パン」という言葉が出てきます。「神のパン」「命のパン」。キリストはこう言われてました。
まことに私は言う。
あなた方が私を捜すのはパンで満たされたからだ。しるしを見たからではない。
なくなる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。
それこそ人の子が与える食べ物だ。父なる神が認めたからだ。

また、キリストは言われてました。

私がその命のパンだ。私のもとに来た者は決して飢えず、私を信じるものは決して渇かない。

心の栄養なんですね。生きるためには食べていかなければならない。体にももちろん栄養をあたえていかなければならないけど心にも栄養が必要ということですね。
それを噛みしめていただき、ちゃんと自分の肉にしなければなんですね。
キリストは「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われています。他の箇所でも、「私の御父はいつも働いておられる。だから私も働くのだ」と言われていました。
ここで浮かんだのが、「国富論」の アダム・スミスが言った「労働こそが富の源泉である」という言葉。
アダム・スミスの言葉と、キリストの言葉の意味は違うと言われる方もいらっしゃるかと思いますが、「働く」ということは物質的にも、内面的にも大事なことなんですね。
働いて食べるんですね。ヨハネの福音書の中で、キリストと弟子達はよく食べられてるんですよね。食卓の場面が多いような気もします。
生きている動物であれば「食べる」ということは必要であって、現在・過去・未来同じで、その「食べる」という行動に説明を付けたのかなと思った。
もしかしたら「食べる」というのが、別の深い意味があるのかもしれないけど、今の所そう感じました。


この「ヨハネの福音書」のお話自体はよかったと思います。役者さん達もすごくよかった。
キリスト役の方はステキな方だったし、お弟子さん達は絵を見ているような感じだったし、セリフをしゃべらなくて少ししかでてこられない役者さんも、すごい存在感がありました。すごく作品自体はよかったと思います。でも、お話を観ていて疑問に思うこともありました。
それは、お話を観ていてスピリチュアル的なものを感じないんですよ。第6感的なものが動かないといいましょうか、神の国を感じないんです。
キリストが十字架に貼り付けられる経緯を知った時に、「オイディプス王」を思い出したんですよ。
「オイディプス王」は観てる途中から、このオイディプス王は神の国から人として生まれ、この国の象徴となり、自分が不幸になることにより
マイナス面を自分が抱えて国を守ったんだなと感じました。目の前に広がる「見える世界」だけではなくて「見えない世界」も感じたのです。
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この「見えない世界」を感じるきっかけになるのは「なぜ生まれてきたのだろう」という疑問じゃないかな。
オイディプス王も観ていて、なぜこの人はこんなに不幸なんだろうに始まり、なぜ人は生まれてくるんだろうという疑問に移ったんです。
そこから「みえない世界」を感じ始めた。オイディプス自身も「なぜだ」という疑問がある。
でもですよ、キリストの場合、疑問がないですよね。なんの疑問もないんです。オイディプスは、王ではあるけれど人であって、キリストは普通の人に見えるけど三位一体。
しかも超越的な力がある。あの超越的な力ってですよ、「見えない世界」からの力ですよね。
私は思ったんですけど、いわゆる「あの世」の力が「この世」であんな風に発揮されていいものなのかなぁって。。。なんか違わなくないです?
それまでの人々の努力はどうなっちゃうの?って感じもしなくもないけどなぁ。
まぁ、それだけ人々の中に「神」という存在が半信半疑なところもあったのかもしれないし、「しるし」という形で「見えない世界」というのがあって、
神という存在があるんだよというのを証明したかったのかなと思ったワケです。
あと超越的な力というのは「夢」であって、キリストは人の部分もあるワケで、人にはこんなことが出来るんだよという預言の一種かなとも感じた。
水をワインに変えるのはわからないけど、目や足を治すのは医学の発達があるし、お魚だってレーダーという機械でわかるんですよね?
超越的な力を手にしてきているんですよ。それは「見えない世界」からの力ではなくて、「見える世界」での人がこつこつと地道にやってきたことですよね。
私は、あのキリストの超越的な力は、ドラえもんの「♪あんなこといいな♪できたらいいな♪あんな夢こんな夢いっぱいあるけどぉ~♪」的な物じゃないかと思いました。
でもやっぱり、疑問のないキリストに私は疑問を持ちました。 


ここしばらくいろいろ考えていたんですけど、宗教自体だけで考えるってなんかね、なんかねしっくりいかないんですよ。
宗教って「この世」の存在するんだけど「あの世」のことを考えているワケでしょう?でもやっぱり人というのは「この世」で存在しているワケであって、
「あの世」の存在が強すぎてもいけないと思うんですよ。
「あの世」と「この世」は繋がっていると聞くけど、それはそうかなと感じるところもあるけど、でも「この世」で存在しているワケだし、
「この世」主体というか、日常の生活とか仕事とかそんな中で、フッと感じることがいいのではないのかなぁと思うワケです。

私は、時代というのは「物質」や「自由度」ではないかと書きました。また新たに加わりました。それは「神という存在との距離感」。これもあるのではないでしょうか。
最近本屋へ行くと宗教に関する本がちらほら見かけられます。今読んでいる、佐藤 優さんの本にも、[なぜわれわれは、いまさら宗教を論じなければならないのか。
なぜ、屋上屋を架すように宗教とか神学について考えなくてはならないのかというと、「見える世界」と「見えない世界」の回路をつなぎ直さないといけないからです。]とありました。
[きっとそれは、おそらく近代という時代のシステムが、いま、終わろうとしているからなのです。]ということでしょうね。
新しい時代に入っていくということで、「神との関係性」も変わってくるということなのだなと思いました。
佐藤 優さんの本の目次をみていても「宗教と政治」「キリスト教と国家」というように、長い歴史の中で宗教は、この世でいろんなものに関わっているんですね。
それを知っていかなければならないんですね。
コメント
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