ある産婦人科医のひとりごと

産婦人科医療のあれこれ。日記など。

地域の産婦人科医療を継続していくためには今後どうしたらいいのか?

2011年01月23日 | 地域周産期医療

私が当院に赴任した当時(22年前)、地域内に産婦人科を標榜する施設が十数施設あり、どの施設も勤務する産婦人科医は一人だけでした。当科も最初は一人医長体制で、少ないスタッフが連日病院に泊まり込み、昼夜かまわず、がむしゃらに働き通しの日々でした。労働基準法など全く無視で、かなり劣悪な労働環境でしたが、当時は、地方の産婦人科施設はみんな似たりよったりの労働環境で、みんなそれほど疑問に感じませんでした。

医療の在り方の昔の常識は今では全く通用しません。同様に、今みんなが当たり前と思っている医療の在り方の常識も、後から振り返ってみれば、とんでもなく常識はずれの部分がまだまだいっぱいあると思います。おかしいところはおかしいと早くみんなで気が付いて、どんどん軌道修正していく必要があります。

分娩は昼夜を問わないですし、母体や胎児の異常はいつ発症するのか予測困難です。産科病棟は、いつでも30分以内に緊急帝王切開を実施できるように十分な人員を配置しておく必要があります。いざ帝王切開を実施するということになれば、夜中であっても、産婦人科医、小児科医、麻酔科医、助産師、手術室看護師など大勢のスタッフが必要となります。

産科業務は、忙しい日と暇な日の業務量の差が激しく、業務量を一定にコントロールするのが難しいのが特徴です。暇な日は人員が少なくても済みますが、忙しい日は猫の手も借りたいような状況となり、小人数のスタッフではとても回せません。病院の産科業務を継続していくためには、いくら暇な日が続いても、いざという時に備えて大勢のスタッフを常に確保しておく必要があり、その人達に正当な報酬を支払っていく必要があります。大勢の人を雇ったのはいいけれど、暇な日ばかりが続いたんでは、人件費ばかりがかさんで病院の経営が成り立ちません。莫大な人件費に見合うだけの適正な患者数が必要となります。労働基準法を遵守し、かつ、病院の経営も健全に維持していくためには、スタッフの数を十分に増やし、それに見合うだけの十分な患者数を確保していく必要があります。

地域内の産婦人科を標榜する施設の数が多ければ、それだけ一施設あたりのスタッフ数も患者数も少なくなってしまい、どの施設の労働環境も劣悪となり、どの施設の経営も行き詰まり、地域の産婦人科医療が崩壊してしまいます。地域の産婦人科医療を今後も継続していくためには、一施設あたりの産婦人科医数を増やし、将来的には交代勤務制を導入して時間外勤務をなるべく少なくし、労働環境を他の診療科並みに改善する必要があります。産婦人科医や助産師の総数は急には増えないので、当面は病院集約化をさらに推進していく必要があると思われます。


吉野ヶ里遺跡

2011年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

佐賀市のどんぐり村で開催された日本周産期・新生児医学会学術集会(第29回周産期学シンポジウム)に参加し、昨日、日本版新生児蘇生法ガイドライン2010のアップデート講習会を受講しました。

昨日は、どんぐり村の学会会場までたどり着くのに、自家用車で長野県の自宅を出発してからほぼノンストップで約15時間もかかりました。全国的に大雪となり始めているようですが、佐賀市でも雪が降り始めました。明日は1日がかりで自宅まで帰る予定ですが、大雪の中で明日のうちに自宅まで帰り着けるかどうか心配です。

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本日夕方、長年の夢がかなって吉野ヶ里(よしのがり)歴史公園を初めて訪問することができました。今の中学生達が学んでいる歴史教科書には、吉野ヶ里遺跡は弥生時代の代表的な遺跡として必ず記載されてますが、私が中学生の頃の歴史教科書には載ってませんでした。ですから、吉野ヶ里遺跡は、今の若い人達にとっては誰でも知ってる常識語ですが、中高年世代だと知らない人の方が圧倒的に多いのではないかと思われます。私が吉野ヶ里遺跡のことを初めて知ったのは、2002年(平成14年)1月15日に放映されたNHKの特集番組:「プロジェクトX ― 挑戦者たち ―王が眠る神秘の遺跡 ― 父と息子・執念の吉野ヶ里」を見た時でした。

参考:吉野ヶ里遺跡―復元された弥生大集落、七田忠昭著

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1986年(昭和61年)、吉野ヶ里で巨大工業団地建設計画に伴う「開発調査」が開始された。開発調査とは、建設区域に遺跡があるかどうか調査することを、文化財保護法によって義務付けたものであり、調査は工事をする側の責任において行う必要がある。佐賀県庁文化課では吉野ヶ里発掘プロジェクトを立ち上げ、リーダーを含めて6名のメンバーで調査を開始した。

吉野ヶ里は、昔から畑を耕せば土器がでてくるというような土地であった。しかし、そこが古代の王国跡だとは誰も思ってはいなかった。そうした中でただ一人、七田忠志(地元高校の歴史教師)だけは違っていた。生涯をかけて(1981年、昭和56年没)独力で発掘調査を続けた。彼の没後、その息子・七田忠昭が佐賀県庁文化課の吉野ヶ里発掘プロジェクトのリーダーとなった。

発掘は順調に進んだ。忠昭は父の夢みた王国が具体的な姿を現してくるのを素直に喜んだ。ただし、この発掘の目的は「開発調査」であり、発掘が終わり次第遺跡は壊されてしまい、二度と再び人々の目に触れることはない筈だった。発掘現場周辺ではブルドーザーが準備活動を始めていた。調査を終了した地点から、順次工業団地建設に向けて整地するためである。

発掘を進めるうちに忠昭は確信した。この遺跡は絶対に壊してはならない。そこで、あらゆる手立てを尽くして遺跡を破壊から守ろうとした。そして、最終的に吉野ヶ里遺跡が永久保存されるきっかけとなったのは、佐賀県知事・香月熊雄の判断であった。

吉野ヶ里遺跡は、1991年(平成3年)5月28日に国の特別史跡に指定された。さらに、1992年(平成4年)10月27日の閣議決定により、国営公園(吉野ヶ里歴史公園、面積54ヘクタール)として国土交通省によって整備されることになった。また、本公園の周囲は、国営公園と一体となった遺跡の環境保全、及び歴史公園としての機能の充実をはかるため、県営公園(約63ヘクタール)として佐賀県によって整備が進められている。すなわち、吉野ヶ里遺跡は、その周囲も含めて総面積約117ヘクタールの区域が、一体的な都市公園として整備されている。

吉野ヶ里遺跡は、弥生大集落を復元した全国最大規模の遺跡として知られている。弥生時代を通して存在しており、ムラからクニへの変遷の跡をたどることができる非常に貴重な遺跡である。

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雪が降り始めた吉野ヶ里歴史公園(2011年1月15日、日暮れ)

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臍帯結紮のタイミングについて

2011年01月13日 | 周産期医学

国際蘇生連絡委員会(ILCOR)のコンセンサス2010では、蘇生を必要としない新生児では、少なくとも1分以上、臍帯結紮を遅らせること(臍帯遅延結紮)を推奨しています。

欧米人を対象にした正期産児での報告では、臍帯遅延結紮によって乳児期早期まで鉄貯蔵が改善するが、新生児期の黄疸に対する光線療法の頻度が高いことが判明してます。

わが国では人種的に新生児期のビリルビン値が高く、臍帯遅延結紮を導入した場合、光線療法の頻度の増加とそれに伴う児の入院期間の延長が危惧されます。わが国で臍帯遅延結紮を導入するかどうかは、質の高い臨床研究の結果を待って判断する必要があるので、それまではわが国での採用は保留することになりました。

参照:日本版救急蘇生ガイドライン2010に基づく新生児蘇生法テキスト、98ページ

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夫による臍帯切断の様子

(患者さんからブログへの写真掲載の承諾を得ました)


風越山

2011年01月07日 | 登山・トレッキング

朝の散歩途中に風越山を撮影しました。雲一つない晴天でした。

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2010年1月7日早朝

飯田市の西側に位置する風越山は標高1535.1mで、飯田市のシンボル的な山として市民から最も親しまれている山です。「風越山」の元来の正しい読み方は「かざこしやま」ですが、現在、地元での日常会話では「ふうえつざん」あるいは「ふうえつさん」と呼ばれることが多いです。