スキーで軽くこけた際に腰を痛めた。年末山行からずっと腰が重かったが、どうやらぎっくり腰をやってしまったらしい。病院で神経ブロックの注射をしてもらい、なんとか仕事は休まずに済んだが、今度はノロウィルスにやられ1週間も水便王子。結局10日くらいヘロヘロ状態で、すっかり体が弱ってしまった。
日曜は尾白川下流域の刃渡り沢アイスクライミング。会山行なので7人の大所帯だ。日向山登山口あたりのスペースに車を止め、ひたすら林道歩き。なまった体にはひじょーに応えた。林道終点から沢に降りるのだが、ここが結構急で、トラロープが張ってあるがアイゼンなしだとちょと怖い。
ドサッ!自分の後から降りてきていた深○さんが上から降ってきた。気を使いながら下って行くという手間は省けたが、かなり痛そう。骨折してもおかしくない勢いだったが、どうやら打撲で済んだらしい。骨じゃなくて良かったね。
前日まで寒気が入っていたため期待していたのだが、氷の発達は今ひとつ。双翼の滝は次回の課題とし、その下のナメ滝で遊んだ。最初雪で埋まっていたが、懸垂しながら雪掃除をするとちゃんと凍った滝が出てきた。傾斜がゆるくて気合いが入らなかったが、病み上がりにはちょうど良かったかも。この辺りには初めてきたのだが、何本もルートがあるし、横浜からも近いし、楽しいエリアだ。これから先、何度か足を運ぶことになりそう。
シュラフにもぐってすぐに、大きな雪崩の音。「ドッドッーン!!」。思わず起き上る。こんな時にすぐに眠りにつけるような大胆な人間ではない。むしろ頭は冴えわたり色々な事を考え続ける。当たり前だ。目の前で4人もの人が雪崩で犠牲になったのだから。
朝方になって少しうとうとし始めたが、救助作業で大汗をかいたせいで体が濡れていたようだ。冷えてしまって眠りに入れない。結局そのまま朝が来てしまった。元旦。比較的小降りになった雪の中、撤収作業を始めた。準備を終えみんなで写真を撮り悪夢の槍平を後にする。
歩き始めてすぐ昨夜の現場の前に来ると、助かった徳島岳人クラブの二人が雪の中に立っている。帰る人達みんなに挨拶するためのようだ。涙ぐむ女性の顔を見ただけでこみ上げてきてしまい、「頑張ってください」と声を掛けるのが精一杯だった。二人はこの先、どんな山との付き合い方をしていくのだろう・・・
先行していた若者二人の付けたトレースで楽に歩けたのは、ほんの20分ほど。感傷に浸っている場合ではない。ここから命がけの下山が始まったのだ。先頭はザックを置いてラッセルをする。スピードが遅くなったため、気がつくと下山者十数人が列になっている。「ドッドッドーンッ!!」。後方で大きな雪崩。雪煙で一時谷の上方全体がガスったように真っ白になる。昨夜の事を思えばどこでくらってもおかしくない。交代した先行パーティーの一人がGPSを持っているようだ。
「山側にあがり過ぎてます。もっと下の方へ!」
「谷の方に行けるわけないだろ!。行きたい人は勝手に行けばいい!」
「でも少しずれ過ぎてると思います」
「山では丁寧語で話す必要なはいっ!」・・・?
もうみんな必死なのだ。自分のパーティーには初心者がいたために落ち着いて指示してあげなくてはいけない。そういう気持ちが働いていたためか、比較的冷静でいられたと思うが、それでも必死なのはかわらない。また前方で大きな雪崩が起きた。いつの間にか下山者の人数が20人前後に増えている。人が増え群集心理が働いたためか、ルンゼ内でワカンの紐を結び直している大バカがいる。誰かがどなりつけているが声が届かないようだ。自分達は樹林帯や太い木の下で待機しては、タイミングをみて早足で危険地帯を通過することを繰り返していた。早足といっても深い雪の中、ルンゼ通過には10分や20分は掛かってしまう。間隔を開けた他パーティーに救助される可能性が高いとはいえ、本当に生きた心地がしなかった。また前方に雪崩だ。おそらく滝谷付近だろう。滝谷手前のルンゼでは氷化した雪面の通過に苦労して時間が掛かる。シリセードで一段下まで滑り降りて通過した。もう少し頑張れば滝谷避難小屋というところで、前方から登ってくる人達がみえた。7・8人くらいだろうか。救助隊だ!「救助隊ですか?」「はい、お疲れ様です」。こんなところで出会うととても心強く感じる。やがて避難小屋につき、とりあえず一息ついた。なんとか危険地帯を無事に通過できた。
白出沢を渡ったところでワカンを外し、行動食を口にして、本当に助かったと思えた。新穂高ではテレビカメラを向けられたり、数人の記者から質問をされたりしたが、何も答える気になれなかった。
GWに剣の源次から下山して薬師の湯で暖まっていた時、同行メンバーの知り合いが入ってきたので挨拶だけ交わした。かなりのベテランクライマーらしい。見た目も精悍な感じでいかにも登れそうな雰囲気だ。この人はこの5ヶ月後、ダウラギリにチャレンジしているすごい人。救助している時は全く気がつかなかったが、亡くなった4人の中にいたらしい。会ってから8ヶ月後に彼の遺体を小屋に引き上げる事になるなんて・・・
-今回の山行では、あってはならない大変な事故が起こってしまいました。今でも夢の中の出来事のように感じますが、間違いなく現実です。尊い4名の方の命と引きかえに、現場に居合わせた我々はものすごく貴重な体験をしました。山を続ける人間として彼等の死を無駄にしないように、二度とこのような事が起きないように、それぞれの立場で出来るだけの行動をしていかなくてはいけないと感じています。この事故が自分の中で風化しないように、ブログには自分が目にし感じた事をそのまま記しました。 お亡くなりなった4名の方のご冥福を心よりお祈ります-
朝起きて外を確認した時点で予想通り停滞を決定。起きてても寒いので、お茶を飲んでまたシュラフにくるまった。
ずっと寝ているわけにもいかないので、食事を摂ったあと雪洞を掘って遊ぶことにした。軽量化したスコップはとても使いやすい。強度的にも問題ないようだ。雪洞でお茶を飲んだあとはビーコンで遊ぶ。オルトボックス旧タイプ(会長のもの)が一番使いにくいため、これを埋没させて捜索ゲーム。やはりトラッカーがダントツに発見しやすい。ピープスの高いのがとても優れているらしいが、まだ使ったことがない。自分の持っているオルトボックスx1よりもトラッカーの方が使いやすいと思った。とにかく慣れる必要がない。初めて使った人でも確実に使いこなせるところはすばらしいと思う。
夕方リーダーが天気図を取り、強い冬型に変わりがないため翌日撤退を決定。年越しそばを食べたりして、のんびりした大晦日を過ごした。軽くお酒を飲んで、山の話題に盛り上がり、8時くらいにシュラフにもぐり込む。
テントではやはり眠りが浅い。外の声にすぐ目覚める。
「おーい・・・・、おーい・・・・・」
誰かが人を呼ぶ声がする。時計を確認すると0時6分。何事だろうと耳を澄ませていた。
「おーい・・・助けてって声が聞こえたんだよなぁー。おーい・・・」
「そうか?・・・・・・おっ、聞こえた!おーい!!」
「おーい!・・・・・おーい!・・・・・」
その声に緊張感が走ったtが、雪洞で人が埋まったのかなぁなんて考えていた。
「雪崩だっ!埋まっているぞっ!」
飛び起きた!急いでアウターを着込み、靴を履く。インナーの手袋の片方が見つからない。1枚を借りて急いで準備をする。
「すいませーん、出来たら救助活動に手を貸してくださーい!」
外から声がした。
「今すぐ行きまーす!」と声を掛けて、テントを飛び出す。まだ外は吹雪いている。
二次遭難に備えビーコンを身につけ(持っただけでスイッチを入れるのを忘れる)スコップを手に救助の現場へと向かう。自分達のテン場から20mほど離れた、新館の南側だ。すでに十数人の人間がスコップを振り回し、救助活動を初めていた。こんな場所で雪崩に埋まるなんてっ!と信じられない気持ちだったが、自分は南側のテントの救助に向かった。約1.2mくらい掘られ、一人の年輩の人が顔を出していた。となりにもう一人いるようで、必死に雪を掘る。
半分くらい体が見えるほど掘って、3人で引っ張り出そうとしても抜けない。8割方掘ってやっと引っ張りだせた。平らなところへ引き上げ、心肺蘇生を始める。人工呼吸用の補助具は持っていたが、テントに戻ることなど考えられる状態ではない。一刻を争っているのだ(ニュースによると雪崩発生は23時30分頃だったらしい。この時すでに40分~50分ほど経過しており、すでに難しい状態だった)。最初に人工呼吸を始めた人はすぐに気分が悪くなって続けられなくなり、変わって自分が行う。酒の臭いか胃酸が逆流しているからか、かなり臭う。自分も吐き気を抑え、必死に息を送り込んだ。20分くらい続けただろうか、誰かが声を掛けてきた。「もう1時です。救助活動から1時間以上経過しており、2時遭難の危険もありますから・・・・・・」。ここで残念ながら諦める事にした。
この時は夢中で気が付かなかったのだが、埋まった人は7人で、そのうち3人の人(1人は自力脱出)が助かったらしい。それだけが救いだった。意識のない4人を避難小屋まで運びあげ、装備を確認し、それぞれのテントへ戻った。
中崎尾根から槍ヶ岳に登る計画で、31日朝から槍平小屋へ向かって新穂高の駐車場を出発した。天気予報でも盛んに寒気が来ることを知らせ、山は大荒れになるからと注意を呼びかけていた。予想天気図でもほぼ荒天になることは間違いないと思われた。
99%稜線へ上がることは出来ないだろうと想像していたが、リーダーも中止にしなかったのと、とりあえず槍平までは行ってみたいという気持ちで歩き始めた。歩き出してすぐ岐阜新聞の若い女性記者から、越年山行についての取材を受ける。この取材は記事にはならなかったが(紙面には載らなかったが、WEB新聞の方では記事になっていた。一番後ろを歩いているのが私。)、翌日の深夜の出来事がテレビ・新聞で大きく報道されることになろうとは、当然のことながら想像出来るはずもなく槍平へ向かった。
前の会にいた時は雪山に入る際、会のビーコンを借りていた。個人でビーコンを持っていなかったこととアタックルートが尾根だったということで、当初ビーコンは装備から外されていた。しかし直前の例会で会長から持って行くようにとリーダーへの説得があり、私もビーコンを購入することにした。これからもずっとお世話になるものだから、いずれは買わなければいけないものだ。大きな出費だったが仕方がない。結果的にビーコンを所持していたことで、精神的にかなり救われる事になった。
入山前日のニュースでは、この時期にしては珍しく上高地で雨が降っている。かなり気温が上がったのだ。その後の強い寒気で表面は硬くしまり、さらに大きな気圧の谷で降雪が続いている。どこで雪崩が発生してもおかしくない状況だった。槍平へ向かうまでの谷を通過する際は、上方を確認しがら恐る恐る通過した。途中から積雪量も多くなりワカンを装着して歩く。数パーティーが入山しており先頭はラッセルになっていたため、20人以上の行列になった。パーティーごとにラッセルを交代しながら、槍平小屋まで6時間ほど掛かって到着した。冬期避難小屋と新館の間の樹林帯にテン場を決め、4時からリーダーが天気図を取るために急いで整地をしてテントを張った。
天気図は強い冬型で、予想通り降雪が続くことを知らせている。停滞はほぼ確実であったが、とりあえず翌日の様子を見てから最終判断をする事にした。