SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

距離と葛藤

2019-06-25 07:16:00 | Essay-コラム

June 25, 2019


最近音楽への距離の取り方が随分と下手になってきたなぁと、、、逆に言えば、前まで音楽と自分の距離ってものの実感や葛藤さえなかったなぁと思う。

 

ペー ターさんたちのブルガリア音楽洗礼、その後自分から出てきたそのまんまの音楽を作曲編曲して、それを全力投球で聴衆も巻き込んでインプロ演奏するという 「スパイラルメロディ」経験のそのすぐ後、ロシア人でかつかなりインテリなデニソフの音楽を演奏したことで、それは明らかになってしまった。

 

ここまで自分の内側と外側なものを演奏したらそりゃあ当然か?!

インプロヴィゼーションと純粋な楽曲解釈、という決定的な違いもあるし。

 

 方「なんか、急に音楽との距離が明確になってきたね。こないだ自分のライブでは中に入り過ぎじゃないかって言ったけど、その逆。まあでもデニソフの音楽で 中に入り込むのって、気狂いじゃないと無理さ。それにそう言うのが音に出ると言うことはあんたが音楽に対して正直な態度を持っているということさ」

(例によって褒めてんのか貶してんのかまったく理解不能な分析)

 

とにかく一生分もうデニソフは演奏しましたって感じ。私をよく知ってる人には「合ってないね」って言われました。そうだねー、だって真面目だもん。でもフルートとピアノのソナタは実は割と好きだったよ。

聴きにきた人に人気があったのは、ずーっと後に書かれたフルートソロ、、、ずっとコンテンポラリーなブーレーズ風に書かれている、、、だったけど、私はこれぞロシアじゃ!!ていう古臭いロシアンルーツ丸出しの初期のソナタの方が好きだなあ。とは言え私の軽量級の音ではこういう重々しい表現は難しいし、デニソフの言いたいことが表現できてない感じがしてひどい欲求不満に陥いったけど。

 

 ンプロ、と言えばソロ曲を演奏する前にデニソフの娘さん(二人いるうちの一人)が「この曲は色々な奏法を使って書かれており、インプロヴィゼーションのよ うに聞こえます」と説明して、演奏の直前だったので「どっひゃー!そりゃえらいこっちゃ!」と思いっきり調子が狂っちゃって、ほんまに音違うのばっかり吹 いておかしなインプロになっちゃったじゃないかっ!やったことない人が「インプロみたいに」とか軽々しく言うのやめて頂きたい、、、相方曰く「インプロ ヴィゼーションと作曲は全く違った音楽創造の過程あって、混同してはいけない。どちらも最高のレベルに達したときのみ比較できる余地はあるかもしれない が、安易にそれっぽく聴こえるだの聴こえたいだの言うのはたわ言だ」と。

 

まーったく同感!

 

時には相方ええこと言うやん!!

 

でもまあ、どっちかしかやったことのない人にとっては、混同するのも仕方ないか。これは外人なんか見たこともないばーちゃんが私が上京するとき「最近ようけガイジンが東京におるでなぁ、気いつけよ!」って言っていたのと同じぐらい罪がないのだろうか。

 

 のインプロビゼーションのこと。音楽院は今学年末なので来年度の企画に入っているのだが、学長先生より「これこれの生徒は来年度はインプロのアトリエだけ やっていてもダメだ。オケも両方やらなければならない」というお達しがあった。えーっと、、アンサンブルの授業って、ひとつのみ選択で良かったはずですよ ねー?これが逆だったら「君はオケだけやっていていいと思っているのか。インプロもやりなさい」とはならないだろうから、デレック・ベイリーさんの言う通 り、インプロさんはやはり誤解されてオプション扱いにされ、被害を被っている。(デレクさんのインプロヴィゼーションという本、また読み返してるけど、ほ んと最高!今度はフランス語版を買ってぜひ読破したいと思っている。)

 

 ういう時は「いやー、この子は「才能が」ありますからねー、両方やるの理想ですよねぇ」なーんて言うと、彼の顔が苦虫を嚙み潰した系になってきて楽しい。 なんでこれがイヤミなのか? それはなんと「才能」という言葉は「音楽院の民主化」「格差平等」を謳うシステム側に大変嫌われる言葉だからである。「才能」とは、システムにとっては脅 威なのだ。この間も私の生徒の中で一番才能のある子供が、中学の音楽科に「才能がありすぎる」という理由で落とされたばかりだ。私はもちろんそんな馬鹿馬 鹿しい組織に1センチでも加担したく無いので、速攻で5年間歴任してきた音楽科辞任。さぁ、これからは本当の才能を育てようじゃないか。

 

 れと最近、パリ国立高等音楽院の卒業試験でも聴いたし、パリ管の人たちがやるのも聴いたのだけれど、民族音楽を、いかにも和気あいあい風に、それっぽく演 奏するのが流行らしい。彼ら彼女らは完璧な楽器技術を持っているし、なんでも暗譜出来るから、そんなの簡単に出来る。その上に音楽の希薄さをカバーするよ うなコンテンポラリーダンス、映像などとの安易で表面的なコラボなんかやれば、もっと流行最先端だ。そこには葛藤もなけれ泥臭さもない、キレイに無菌化さ れている。インプロの奥深さも文化解釈の難しさも無かったことにされたように、それはまるで観光に行った時に買う美しいポストカードを見ているようだ。

 

そんな色々を見聞きしていると、苦しくても、まだ葛藤してて良かった、と思う。



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