SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

キース・ジャレットの内なる世界と、子供の感性

2022-06-27 08:54:00 | Essay-コラム

私の生徒の小学生が書いた「音楽メソッド」。なんとレッスン1は「喜びの音楽」で、「喜びのメロディーを即興しなさい。あまりの美しい音に、喉が震えてオウムの歌になりなす」って書いてある。何という想像力!


最近、キース・ジャレット著の「インナー・ヴューズ」を読み直していて、いくつか最近の現実と対応し響く点があったので備忘録を書いておきたい。以下キース・ジャレット=K.J


K.J 「もしもきみが覚醒した状態を続けようとするのなら、自分自身とその対象の間にイメージを置いてはいけない。イメージがなければ、そこにはただ、きみとその現実があるだけだ。」


音楽と身体の感覚の間にいかにイメージを置かないか。


それは私がずっと追求してきたことでもあり、生徒の小学生たちが、先日のコンサートで披露した、全く迷いのない美しいブルガリアのダンスの演奏を聴くと、それが結果となって現れていた。


この動画を見た周りの人たちも、こんなのが小学生に出来るのはミラクルだと言っていた。


K.J 「僕はものごとを名付けるために言葉を使う、ということをしないんだ。「ペンタトニック(五音音階)という言葉でさえ、恐ろしい (名前を付けたことによって、何か分かった気になることが怖い)。恐ろしい、と言うのは、僕たちが「ペンタトニック」と呼んでいるものは、本当は「ペンタトニック」ではないのかも知れない。それはきっと「音楽」だよ(鳥たちは自分がどんなスケール(音階)で歌っているかなんて考えない。だから、とても上手く歌う。


先程のブルガリアの曲の話。これをもし「この曲は9拍子という名前で、これまでやっていたリズムとは違って複雑ですよ」


とか子供がやる前に説明をしたとしたら、感覚を警戒させて、簡単には出来なくなってしまうだろう。


言葉やイメージを使わずに、音楽という現実のみを伝えると、ミラクル的に、(というか多くの人はミラクルだと言うが、それはみんなが楽譜を仲介して子供に理解させようとして、子供の感性を信じていないから出来ないだけだと思う)、フランスの子供たちは、普通西洋で難しい、複雑だ、と思われているブルガリアの舞踊のリズムが最初からできる。


ソルフェージュなんかやったこともない、小学校の生徒たちが?!とみんな驚くけれど、それは逆で、「ソルフェージュ」という言葉から作られる隔絶されたイメージから入ってないから、耳から耳へ直接、イメージを介さずに音楽をやるからこそ、それは出来るんだ。


「そんなの難しい」、大人側にそういう固定観念があると、それは子供にも難しくなるだろう。


もしかして、そういう固定観念のせいで出来ないだけなのに、この子はリズムが出来ない、と言われ続けて萎縮し、「私はリズムが苦手だから」と言う子供たちがいる。私はそれを聞くたび本当に悲しくなる。では私たちは本当に、その子のリズムを最初から引き出す教育をしてきたのだろうか?


私の経験では、最初にコンプレックスさえ埋め込まなければ、もちろん才能に差は多大にあれ、少なくともその子の自然なリズム感覚を自分に認めさせ、尊重させることは可能だと思う。


今年はときどき小学校1年生向け音楽教育プロジェクトの同僚の代行をしたのだけれど、


よく音楽をやる前にイメージを見せたりとか、イメージを説明したりとか、

挙句に果てには音楽の後

「このフレーズは何の楽器を想像させますか?」と言って、自分が思っている答えに辿り着くまで子供を尋問して導いたりとかやっている。


まるでイメージがないと、子供だから音楽は分からないだろうとでも言わんばかりで、だいたい、そのイメージはあなたのものでしょうが。人に押し付けてどうする?などとはあんまりみんな思わないみたいだ。


K.J 「重要な音楽には、心臓の鼓動以上の速さでは追いつけない。」


また最近、音楽院の隣のフルートのクラスの代行をしたのだけれど、音の間違いをいくら指摘しても、生徒たちがそのままダーッと止まらないのでびっくりして、


「何で止まらないの? 間違った音でも、そのままでいいの?」と聞いたら


「でも、音が違うからって止まったら、音楽が止まってしまうから、止まらずに最後まで吹き切るように言われてるんです」だって。


まあ、試験やコンサートなんかで、途中で止まるのは困るからそういう風に教えられているのだろう、とは何となく想像できる。


でもねぇ。これでは、耳を閉じて音楽を聴かず、感覚を閉ざして、試験に通るため、周りによく見られるためにロボットに成り下がっている。


私はどんなにテンポを落とそうと、どんなに進みが遅かろうと、その個人の理解する範囲よりも早いテンポで楽譜を機械的に読むのは意味がないと思う。


そういうやり方に慣れると、数年後2回目、3回目に同じ曲をやっても、やはり同じところでミスをする。感覚を閉じて、何故そこにその音があるのか理解せず、ただ言われたからその楽譜を読む。間違えても気にしない。(ではその作曲家は何故わざわざその音を書いたのだろうかそういうやり方は、音楽を台無しにしつつ、自分の感覚をも台無しにしているので、(このふたつは同義であるしかもそれを「音楽をやっている」という名の下に行うのは、あまりにも酷いと思うのだけれど。おかげでこの数日間、疲れと怒りが収まらなかった。


K.J 「ひとつの感覚(例えば聴覚)を閉ざして、残る他の感覚を正常な状態に保つなんてことはできない。...それは意識的に自分を眠った状態にしたということで、身体のどこか他の部分も眠った状態になっている、ということになる。...君がもし覚醒した状態なら、もうそんなことは出来ない。きみは何処にいようと犠牲者になる。きみは全てに敏感になり、もう「ノー」とは言えない。」


何処にいようと犠牲者になることを厭わなくていい、感覚を全開にし、覚醒しているからこそ。それこそ芸術家のあるべき姿だし、教えるべきことなんだ。


では、彼のいつも言うところの「覚醒する」ために必要なことは?次のパラドックスに溢れた2点は芸術家の一生の課題かもしれない。


K.J「自分の秘められた潜在的な可能性を引き出すにはそれは生まれながらの習慣、機械的な習慣から抜け出すように努めることだ。」


「きみにできることは、きみ自身の「扉」を開いたままにしておくということだけだ。...

きみの存在自体が教師になるために必要なのは、ただきみがあるがままでいることだ」







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