最近、ジャズのソロで自分の琴線に触れるマイルスやカークの音の使い方、音程の取り方をすごくじっくりと聴いていると、その音程の境界線みたいなのを実に繊細に出入りしてバランスをとっていることが分かった。
幼稚園のとき、(大きい組だったと思うが)、よく幼児雑誌の付録に切り取って貼って立体の動物やおもちゃを作るようなのがあったが、その切り取り線が太すぎて、いったいこの切り取り線の内側と外側のどっちを切れと言うんだろう?と悩んだことを思い出した。
それは今考えると、bonne question!だったらしい。
話を音楽に戻すと、逆に切り取り線の真ん中をなんにも考えずに切り取っているように(音程を自分で作らず、なぞっているだけ)の演奏者のソロになると、どんなにすごいテクを披露していても、論理的には同じことをやっていたとしても、途端に音楽は凡庸に聴こえてくる。
音程とはヴァイブレーションなんだ。
どこでどのように空気を震わせられるのか。
「どこで」、とは目をつぶっても歩けるように完璧にリズムを知っていることであり、「どのように」、というのはどの音高をその音楽がその瞬間欲しているのか、完璧に察知できることである。
子供がいる夏休みは毎日一時間しか練習に許された時間がないのだけど、その一時間をじっくり即興演奏に向かうようにしている。
今思うのは、ここのインプロで自分に何が出来るのか?という腰の引けた、一見謙虚に見えて自己中心な考えでなく、ただこの美しい音楽をより美しいムードにするにはどうすれば良いのか?
このようにのみ考えて演奏できるようにならなければならない、ということ。
これが出来るようになるには、大幅にこれまでクセだけでやっていた練習を減らさなければならない。
一時間しかないけど、1分たりとも無駄にしないよう、その後子供を公園で遊ばせながらとにかく音楽を聴き、考え、聴き、考える。
で、出てきたアイデアを速攻この一時間で試してみる。
時にcontrainte(拘束)とは自分を見直すのに必要である。
次回12月はホンモノのローランドカーク好きな人に「カークへのオマージュ」をリクエストされたので、いかにカークの夢の世界と、私自身が現在パリで見ている夢を融合できるのか。
一つの作品として2回目の挑戦したいと思っている。
カークの本を読んでいて、周囲の人間がが色々証言しているのだけど、「盲目の彼にとっては、騒音、お喋り、サイレン、車や汽車の音、おもちゃや機械など何でも身の回りの音は全て音楽だった」そうだ。
The case of 3 sided dream in audio color
というアルバムがあって、いろんな雑音のコラージュと楽曲が交互に出てくる。このナイーヴな音楽が何故かものすごく心に刺さるのは、彼がそういうものを、どこでどうやってヴァイブレーションに変え音楽に出来るのか心得ている天才だからだ。
ローランドカークの音楽は、あまりに力強く、独創的で時に悪趣味で、まるでピカソの絵をずーっと連続して見ているときのように疲れるし、嫌になることもある。
しかし、その過剰な体臭でさえ愛おしい。
カークは全ての黒人音楽、「ブラッククラシカルミュージック」(マイルスもカークも、「ジャズ」という言葉は白人が勝手に付けたものとして忌み嫌っている)を愛し、過去の作品も現在の作品も、自分の作品もなんの区別もなく、その深い愛をただただ怒涛のように表現した。
彼は誰に何と批判されようと、盲目であることと黒人であること、これまで誰もしなかったことを実現した為に差別されようと、ただその「ブラッククラシカルミュージック」という大きな木のなかに生息していただけなのだ。
その枝はその文化の根っこから栄養を吸収し、何処までも何処までも際限なく伸びることができた!
A love supremeー至上の愛。
あー、Sちゃん、やっぱり音楽って愛だと、私は思うよ。届いているかなあ?
じゃあ愛って何なんですか、って言われそうだけど。
まあ私も分からん。私たちはそれを知るために地球にいるのかもね。
ブルガリアのペーターさんも言っていたなあ、私たちは、みんな大きな木から分かれた枝なんだよって。ああ、もうすぐ8月に会えて一緒に演奏出来るなんて!
以上今回のは単なる今感じていることの覚え書きでした。
かなり個人的なことなので、意味不明なら聞き流してください。