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湊川神社 楠木正成公戦没地 on 2019-3-3

2019年03月05日 06時27分53秒 | 神戸情報
湊川神社境内の北西隅に楠木正成公戦歿の地と伝えられる所があります。
2019年3月3日に見学をさせて頂きましたので写真紹介します。

古来楠木正成の墓として伝わり、由緒ある遺跡として昭和26年(1951)6月9日
国の史跡として指定されています。





上の2枚の写真は湊川神社拝殿西側奥の楠木正成公戦没地入口と現地説明板

説明書に記載のように延元元年(1336)5月25日、楠木正成公(大楠公)は
一族16騎、郎党60余人と共にこの地で「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を唱え
自刃せられました。

大楠公の戦没地は諸説あり確定されていないがその1部を紹介します。
(1)橋本家文書では広厳寺子坊の無為庵に火を放って 一族13人 兵士73人と
   ともに自刃したと伝わっています。


(2)太平記には、「湊河の北にあたりて在家の一村あるけるなかに走り入りて腹を切らん」
   とあります。

(3)明治44年(1911) 仲彦三郎「西摂大観」では、その場所を奥平野字楠に比定。
 関連サイト:楠正成終焉伝承の地 楠谷勝負が池跡

楠木正成公の墳墓

上の写真は楠木正成公の墳墓とされる場所で
小高くなっており注連縄で囲まれた場所です。

住友友親(ともちか)奉納の銅燈籠



上の写真は上記写真の前方にある対の銅製の燈籠です。
明治6年(1873)住友家12代当主の住友友親(ともちか)が奉納した銅燈籠
住友家が経営の別子銅山から産出の銅が使用されているとのこと。
火袋部分には住友家の家紋である井桁の透かし模様が入っています。

住友家は代々楠木正成公への敬愛心が強く第13代 住友吉左衛門友忠(ともただ)は
明治33年(1900)別子銅山開掘200年を記念して楠木正成公の銅像を宮内省に献納
現在も皇居前に鎮座しています。

住友家第16代の住友吉左衛門友成(ともなり)は昭和13年(1938)千早神社に
1万円を奉納しています。

伊藤博文が奉納の石燈籠



上の2枚の写真は公爵 伊藤博文が寄進した燈籠と燈籠の基礎石台の側面に大正4年(1915)
5月に神田兵右衛門によって書かれた説明文

伊藤博文が寄進した石燈籠は明治2年(1869)9月に献納されました。
大蔵少輔従五位兼民部少輔 越智宿禰博文と刻まれています。


上の写真は明治37年(1904)10月22日除幕から翌年9月7日までの1年足らず
湊川神社に設置された伊藤博文公の銅像
この銅像建設の発端は明治35年(1902)伊藤の別荘である神奈川県大磯町「滄浪閣」で
開催された伊藤の還暦祝賀会で桂太郎らが伊藤に銅像を贈呈しようとしたが伊藤が固辞
した為、銅像の改鋳して伊藤と家族の満足を得て明治37年(1904)2月に竣工し、同年
10月22日当初の滄浪閣ではなく湊川神社拝殿前右手に設置除幕された。
銅像製作の請負業者は杉田幸五郎
出典:神戸佳族 Vol.54(2016年5・6)Page13
   明治35年10月26日付け 東京朝日新聞

大隈重信寄進の燈籠

上の写真は大隈重信寄進の石燈籠(一対)
参議 正四位大隈重信と刻印されています。

大木喬任寄進の燈籠



上の2枚の写真は大木喬任寄進の石燈籠

大木 喬任についてWikipediaより引用紹介します。
大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日(天保3年3月23日)– 1899年(明治32年)
6月26日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家。通称を幡六、民平。
栄典は正二位勲一等伯爵。
1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、
徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。
江戸を東京とすること(東京奠都)に尽力した。
1871年(明治4年)に民部卿、文部卿として学制を制定。1872年(明治5年)に教部卿を兼任。
1873年(明治6年)、参議兼司法卿。
1876年(明治9年)の神風連の乱と萩の乱の事後処理に当たった。
戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として
戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。
民法編纂総裁として法典編纂に関わる。のち元老院議長、参議などの要職を歴任した。
1884年(明治17年)、華族令施行によって伯爵に叙せられた。12月14日学習院講堂で
開かれた大日本教育会の常集会で森有礼とともに演説を行った。
1888年(明治21年)に枢密顧問官、1892年(明治25年)に枢密院議長再任。
1899年(明治32年)に死去、享年67。


江藤新平寄進の燈籠

上の写真は江藤新平寄進の石燈籠(一対)

江藤新平(1834-1874)は天保5年2月9日(1834年3月18日)佐賀市生の政治家。
16才の時に佐賀藩の藩校「弘道館」で学びさらに弘道館教授で儒学・国学者であった
枝吉神陽の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響される。
嘉永3年(1850年)に枝吉神陽が「義祭同盟」を結成すると、大隈重信・副島種臣・
大木喬任・島義勇らとともに参加した。
文久2年(1862)6月27日、藩主鍋島直正の佐幕政策に納得できず長州藩の桂小五郎を頼り脱藩。
桂小五郎から学び見識を広めた。しかし京都の公家の攘夷論に失望し佐賀に帰藩します。
江藤が提出した「京都見聞」が藩主に評価されたため脱藩による死罪を免れ永蟄居となる。
罪が許され表舞台で活躍するのは慶応3年(1867)12月、藩の郡目付として復帰する以降です。
薩摩藩と長州藩は公家の岩倉具視と結び、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の
大号令を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し新平は副島種臣とともに京都に派遣される。
法制関係の官職を歴任。司法卿となり、司法権の独立・警察制度の統一をはかり、
改定律例を制定。のち参議となり征韓論を主張するが、受け入れられず辞職。
佐賀の乱(1874)の首領となるが、政府に逮捕された。明治7年(1874)歿、41才。

楠木正成公戦没之地の説明石碑

昭和11年5月、楠木正成公没後700年を記念して神戸市連合青年会により建立されたもの。
楠木正成公戦没之地(本殿の西北)に一本松があったこと、
楠木正成が奮戦した「湊川の戦い」の説明や大正5年4月4日に昭和天皇の皇太子時代に
湊川神社に行幸されたことなどが記載されています。

陣幕久五郎通高奉納の鳥居

上の写真は陣幕久五郎通高謹建と書かれた鳥居
裏(正面)には明治四年辛未十月角觝三日と書かれています。
第十二代横綱陣幕久五郎通高が明治4年10月に3日間奉納相撲を行ったことが判ります。

自伝に次のような記述があります。
「港川に楠公神社を創立せらるゝに当り地固のため自費を以て三日間相撲を寄附し衆人に
縦覧せしめ其神殿竣功に及びて石の注連柱高さ三間半なるを神前に奉納す」


正面の左側の鳥居には下記のように書かれています。
以鎮祠基因献石柱聊表寸誠、 明治五年壬申春正月 (背面)
明治5年(1872)正月、湊川神社の創建時に建立奉納されたものである。






上の3枚の写真は12代横綱 陣幕久五郎通高に関連する絵図です。
出典:野口勝一 編著 陣幕久五郎通高事跡 明28年(1895)4月(国会図書館デジタルコレクション)

陣幕久五郎通高の略年譜
文政12年(1829)5月3日、出雲国意宇(おう)郡意東村(現東出雲町下意東)に、
貧しい農家の三男として生まれた。19歳の時、相撲の道に入り、入幕から引退までの
勝率は94.6%、終生一度もまったなしの輝かしい記録を持つ。江戸時代最後の横綱である。
明治36年(1903)10月21日没
墓は東京都品川区の光取寺と、広島県尾道市の光明寺にある。


16代住友吉左衛門友成が寄進の燈籠

上の写真は16代住友吉左衛門友成が寄進の石燈籠(土台のみ現存)

Wikipediaより引用紹介します。
住友 友成(すみとも ともなり、明治42年(1909年)2月20日 - 平成5年(1993年)6月14日)
は住友家16代当主。アララギ派の歌人でもあり、斎藤茂吉、
川田順(住友本社の重役でもあった)とも交流があった。
友成の歌人としての名は「泉幸吉」である。歌集に『樅木立』(私家版、1973)がある。


住友家奉納銅製燈籠の土台?

「桜井の別れ」などの事蹟が刻まれています。

奉納玉垣













有名人の名前がずらりと並んでいます。


ユーカリの木

明治の初期(オリーブの植栽と同時期か?)に植栽されたユーカリの木
真ん中の斜めになっている木
日本で最古のユーカリの木か?

徳川光圀公の墓碑建立(1692)


大楠公のお墓は、長い間ひっそりとまつられて居たのですが、豊臣秀吉の時代に
発見されました。 その後、尼崎藩主青山吉利により守られていましたが、
元禄五年(1692年)地元の人々の熱意を受けられた徳川光圀公が、約半年をかけて、
立派なお墓を建立されました。「嗚呼忠臣楠子の墓」の碑文は、大楠公を大変尊敬
されました光圀公が、自らお書きになったものです。


上の写真は湊川神社の大楠公の墓 撮影:2018-5-26




上の2枚の写真は湊川神社の掲示の「嗚呼忠臣楠子の墓」の碑文の拓本 表面と裏面

1862年に墓に参った20歳の安中藩藩士の若き新島襄も楠正成の生きかたに共鳴し
自宅にその拓本が保管されていました。
吉田松陰、伊藤博文、久坂玄瑞、高杉晋作などの幕末の尊王派の志士達こぞって
楠公の墓に参っていたことは有名な話で今も語り継がれています。

明治維新の志士たちの参拝
お墓が建てられてから大楠公のご精神は大いに世に広まり、特に幕末における勤王思想に
大きな影響を与えました。 吉田松陰・真木保臣・坂本竜馬など多くの志士たちが、
このお墓にお参りし、明治の新しい国づくりに大きく貢献しました。
明治五年(1872年)明治天皇のお思し召しにより、湊川神社が創建され、
いよいよ大楠公のご精神は、国中に輝きわたりました。


江戸期の大楠公の墓所と廣厳寺(楠寺)


上の写真は若林秀岳著の神戸覧古(明治34年(1901)作)で開港前の様子を
作者が書きとめたもので江戸時代後期の廣厳寺(楠寺)の姿が想像できる。


上の写真は浮世絵師の長谷川小信によって描かれた錦絵の神戸古版画集で描かれた
楠正成公の墓碑の図です。江戸の後期には名所となっていた様子が判ります。
上記のように整備される前の姿は延宝8年(1680) 衣斐蓋子によって描かれた
海瀕舟行図がありこの中に楠公の塚があり横に梅の大木も描かれています。


上の写真はNHK Eテレ高校講座 日本史で解説されていたもので楠正成が
延元元年(1336)5月25日の湊川の戦いより以前に後醍醐天皇に対して
新田義貞を討って、足利尊氏とは和議を結ぶべきと献策していたが却下
されてしまったことを梅松論の文章から拾ったものです。
建武3年(1336)1月29日に楠、新田、北畠の連合軍が足利尊氏軍を京から
駆逐したものの足利尊氏が必ずや盛り返してくると楠正成は読んでいたので
このような言葉となったのである。



関連ブログ:
 大楠公一代記 in 湊川神社

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