姫路 船場城西・城南地区の散策シリーズの第15回として2022年5月18日に
訪問した景福寺の写真を紹介します。
訪問した景福寺の写真を紹介します。
第3回 船場川船繋ぎ岩
第4回 炭屋橋(船入川之跡)
第5回 材木町 歳徳寺
第6回 千姫像と船場八景③梅雨松夜雨
第7回 高瀬舟碑
第9回 西国街道碑
第10回 高田神社
第11回 車門跡
第12回 埋門跡
第13回 白鷺橋と2号線の拡幅記念碑
第14回 吉本一郎氏の彫刻作品「やすらぎ」
景福寺関連の訪問記については既に 次に挙げる4つのブログを作成しています。
本ブログでは上記ブログの中から景福寺の境内全般について再掲します。
景福寺の基本情報
住所:姫路市景福寺前7-1 TEL:079-292-4807
宗派:曹洞宗 山号:瑞松山 御本尊:釈迦牟尼
創建:応安2年(1369)一径永就和尚により兵庫県猪名川町に草創。開山は永就の師で総持寺5世通幻寂霊禅師
中興:慶長5年(1600)池田輝政から姫路の坂田町に寺地を与えられ池田家の家老「荒尾隆重が景福寺の建立に関与した。
現在地への移転は宝暦4年(1754)
猪名川町、姫路市、岡山市、鳥取市にある4箇所の景福寺を合わせて曹洞宗四景福寺と呼ばれています。
山門と仁王像
上の写真は瑞松山 景福寺の山門 景福寺を代表する建物ということで本堂より先にもってきました。
景福寺は姫路藩主の菩提寺があった寺で、現在では曹洞宗の禅寺です。
姫路藩主であった酒井忠恭は菩提寺としました。
姫路藩酒井家の歴代藩主は以下のとおりです。
1代:忠恭 、2代:忠以、 3代:忠道、 4代:忠実、 5代:忠学
6代:忠宝 、7代:忠顕、 8代:忠績 、9代:忠惇、 10代:忠邦
6代:忠宝 、7代:忠顕、 8代:忠績 、9代:忠惇、 10代:忠邦
山門は享保17年(1732)の建立と考えられています。仁王像は鎌倉時代の作。
本堂
上の写真は本堂。本堂は姫路城大手門などの設計を行い近代和風建築者として著名な
藤原義一氏が昭和37年(1962)に設計したものだそうです。
現地説明板
上の写真は景福寺を紹介した現地説明板
所在地のGoo地図は下記のとおりです。
座禅堂
地蔵尊
鐘楼
上の写真は酒井家墓所の背後にある鐘楼です。
庫裡
手水舎
鐘
上の写真は鐘楼の鐘を真下から撮ったもの 撮影:2022-10-3
景福寺前
現在の住所表示となっている景福寺前の名前の由来や昔の町名などに関する説明書き
船場八景
下の写真は景福寺の入口付近に掲示の船場八景に関する説明板です。
姫路船場八景は天保10年(1839)頃、船場庶民の作った和歌から酔月亭鷺雪が選出したと言われる。
①男山秋月 ⑤景福寺晩鐘
②愛宕晴嵐 ⑥福中橋夕照
③梅雨松夜雨 ⑦鹿川帰帆
④薬師暮雪(説明版不明なし)⑧水車落雁(説明版不明なし)
①~⑧の場所が下の地図の上に記されています
上の写真は景福寺晩鐘の和歌と絵
上の2枚の写真は①男山秋月 の説明板 撮影:2019-10-8
船場八景については下記サイトが詳しい。
旧制姫路中学校跡
明治11年(1862)には、境内の一角に旧制姫路中学校(現在の姫路西高等学校)の全身である六郡立姫路中学校が開校。
現在もその地に景福保育園・瑞松学院が建っています。
ドイツ人捕虜収容所跡
第一次世界大戦中、日本軍は日英同盟に基づいて中国の青島にあったドイツ軍の要塞を攻略しました。その際に出た約4,600名のドイツ軍捕虜は、日本各地に12箇所つくられた収容所に送られたのですが、その内の一つが景福寺でした。
景福寺には150名の捕虜が収容されていました。
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