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姫路 船場城西・城南地区の散策 その13 白鷺橋と2号線の拡幅記念碑

2022年11月10日 04時52分09秒 | 姫路市
姫路 船場城西・城南地区の散策シリーズの第13回として2022年10月3日
訪問した白鷺橋と2号線の拡幅記念碑の写真を紹介します。

シリーズこれまでの記録

 第1回 境橋碑(世界一短い橋)

 第2回 初井家住宅

 第3回 船場川船繋ぎ岩 




 第7回 高瀬舟碑


 第9回 西国街道碑

 第10回 高田神社

 第11回 車門跡

 第12回 埋門

上の写真は船場川に架かる白鷺橋の北側、欄干部などの遠景


上の2枚の写真は白鷺橋と白鷺橋拡幅記念碑
説明書きが読み取り不能であるのでそのまま記載しておきます。
白鷺橋拡幅記念碑
大正初期から、姫路市の商工振興策の一環として、公共用地を確保するため、
姫路城の中濠の埋め立て作業が急ピッチで進められた。
昭和7年には、城南部の幅約20メートルの中濠が埋め立てられ、翌8年、
船場川に架けられたこの白鷺橋の竣工をまって、国道2号が開通した。
橋名の由来は19世紀頃より姫路城の推称とされた白鷺城によるものである。
その後、第2次世界大戦で、当市もまた米軍の空襲を受け、特に昭和20年7月
3日夜の第2次空襲で、この周辺は火の海となり焦土と化した。今もこの橋に
残る黒い焦げ跡が当時の状況を物語っている。
戦後の目覚ましい経済復興と交通量の増大に対応して、昭和49年より国道の
拡幅事業に着手したが地元住民の強い願望もあり、この橋は原型のまま拡幅
することとし、平成3年に竣工した。
ここに、白鷺橋の拡幅を記念して、その由緒を記するものである。
  平成3年3月記          兵庫県

姫路への空襲は、昭和20年(1945)6月22日と7月3日深夜から7月4日未明にかけての2度ありました。
1回目の姫路空襲は川西航空機姫路製作所を標的としたもので、2回目は姫路城も含めた市街地への
空襲であった。姫路城には空襲の標的を避けるために黒い網がかけられました。その他の対策が
功を奏して姫路城は奇跡的に焼失を避けることができました。
戦後、復興の段階には姫路城は市民の心の支えとなりました。

2回目の空襲(1975年7月3日&4日)についてWikipediaより引用
マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの3島4基地から、徳島・高松・高知、そして姫路への爆撃のため501機のB-29が出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。同日深夜から翌未明にかけての約2時間、姫路市街地全域に焼夷弾が降り注いだ。火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと拡大、町は火の海と化し、総戸数の40%が焼失。飾磨でも一部が被災した。
死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人。
姫路城は天守に命中した焼夷弾が発火せずに焼失を免れ、その姿に勇気づけられた被災者もいたようである。



上の2枚の写真は国道線竣工記念の碑の表面と裏面
裏面に緒元として下記事項が記載されています。
事業名:中播都市計画道路事業
路線名:街路 国道線
事業期間:自 昭和49年(1974)2月 至 平成3年(1991)3月
事業区間:姫路市綿町~姫路市上片町 899m
幅員: 27m~30m
施行者:兵庫県
題字: 姫路市長 戸谷松司

尚、白鷺橋を含む国道2号が竣工開通したのは昭和8年 (1933年) である。


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