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乃木将軍と神戸 -神戸に来た史上の人々ーより

2020年06月15日 05時37分42秒 | 神戸情報

現在、兵庫県立図書館より神戸市立南蛮美術館長 荒尾親成の著書「神戸に来た

史上の人々」昭和40年(1965)7月10日発行 著作権失効を借りています。

この本の中から乃木将軍(仁木希典)に関する記述を纏めてみました。

上の写真は上述の本の表紙です。

乃木将軍が神戸に来た記録では明治34年(1901)6月7日、8日の2日間神戸、有馬泊

明治41年(1908)6月3日、及び明治44年11月12日の3回がハッキリと文献にある。

 

この3回の神戸訪問について

明治34年(1901)6月7日、8日

明治34年6月7日付けの乃木将軍の神戸に関する手紙には「拝啓多度津御分袖後益々

御健勝大賀々々出立の節は種々御懇情多謝の至に御座候。小生義も海陸無事姫路に

立ち寄り同夜神戸に達し、自由亭ホテルに入り、久々にて神戸の夜景を弄し、翌朝

微行にて福知山衛戌を探検、外出の兵士と応接、至極面白く、去らんとしての

まぎわ山内憲兵司令官、宇佐川団長に見付けられ大失敗。同夜は、有馬温泉に浴泊

同地、月光のよき六甲山の北面より見たる味いは格別に存候」云々(後略)

乃木将軍の神戸での宿泊場所は生田区海岸通りの西村旅館(栄町3丁目)と上述の

自由亭ホテル(三越南貯金局の処)であった。

 

明治41年(1908)6月3日

明治41年6月2日付の乃木将軍の自筆日記には「6月2日夕、東京発、車中に松方

幸次郎氏、高田氏と大いに話す。6月3日朝、米原駅に大阪新聞記者数名来る。

神戸に下車滝川氏(滝川辨三)、大河平、その他と逢う。手帖、水筒を買い楠公社

を拝し」云々とあって須磨の滝川氏や松方コレクションで有名な川崎造船社長、

神戸新聞社社長の松方幸次郎氏と車中雑談、清談を交え乍ら神戸に来て居る。

乃木将軍は旅順に出来た露国戦死者の建碑除幕式に参列のため神戸に下車し海路

旅順に向かわれたのであった。

 

明治44年(1911)11月12日

第4、第16両師団の摂津、河内平野の大演習には伊丹の服部氏宅(服部一三)

を宿舎とされ、次のような歌も残されています。

朝まだき武庫の河原は霧こめて 駒のひづめの音のみぞする

 

本のPage98-Page101

上の2枚の写真はPage98、乃木将軍より妻の乃木静子(1859-1912)宛の手紙

著者(荒尾親成)蔵

上の3枚の写真はPage99-Page101の本文

 

乃木将軍筆 「楠公父子訣別之所」

上の写真はPage256

上の4枚の写真はPage257-Page260の本文

 

関連ブログ:

楠公父子桜井の別れ図絵馬(復元模写)in 湊川神社 on 2019-3-3

 

乃木将軍については誰もが知る人物なので詳述はしないがWikipediaより年譜を添付

嘉永2年11月11日(1849年12月25日)- 誕生
安政5年(1858年)- 長府に帰郷。
慶応元年(1865年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊と合流して幕府軍と戦う。
明治4年(1871年) - 陸軍少佐に任官。名を希典と改める。
明治10年(1877年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。

                                     この際、軍旗を西郷軍に奪われた。
明治19年(1886年) - 川上操六らとともにドイツに留学。
明治25年(1892年) - 歩兵第5旅団長を辞任して2月に休職となる。

                                       12月に復職し歩兵第1旅団長に就任。
明治27年(1894年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。

                                        旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。
明治28年(1895年) - 第2師団長(陸軍中将)に親補され、台湾出兵に参加。
明治29年(1896年) - 台湾総督に親補される。母の壽子も台湾に来るが、

                                        すぐマラリアに罹患し、病没。
明治31年(1898年) - 台湾総督を辞職。
明治32年(1899年) - 第11師団の初代師団長に親補される。
明治37年(1904年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、
   第3軍司令官(大将)に親補されて旅順攻囲戦を指揮し、また奉天会戦に参加する。
    長男の乃木勝典が金州南山で、次男の乃木保典が203高地で夫々戦死。
明治39年(1906年) - 1月、終戦・内地への凱旋にともない第3軍司令官を退任し、
      軍事参議官に親補される。以後、死去まで、乃木の本官は軍事参議官。
明治40年(1907年) - 学習院長を兼ね、皇族および華族子弟の教育に従事。
明治44年(1911年) - 7月1日に大英帝国のハイドパークで英国少年軍(ボーイスカウト)を閲兵。
ベーデン・パウエルと会見。
大正元年(1912年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻・静子とともに自刃。

                                    享年62歳。墓所は港区青山霊園。
大正5年(1916年) - 裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼に際して、正二位を追贈される。

 

神戸に於いて村野山人や濱田篤三郎は熱烈な乃木将軍の崇拝者であり、明治天皇の

桃山御陵の近くにある乃木神社の境内には村野山人が寄付をした記念館(旅順の

戦いの時に約1年間、寝起きした中国人の住居を移築)が残っています。

また、山口県下関市の長府の実家の復原についても上記のお二人が尽力された

ようです。

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