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志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に8回目の出演 on 2020-6-3 及び朝ドラ「エール」 第10週 「響きあう夢」

2020年06月04日 07時02分48秒 | Weblog

新型コロナウイルス感染症で亡くなられた志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」
で8回目の出演をされていましたので写真紹介します。(6月3日に放送)

1回目~7回目の出演に関する記事にリンクしておきます。


 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に出演 on 2020-5-1


 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に2回目の出演 on 2020-5-6


   志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に3回目の出演 on   2020-5-14


 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に4回目の出演 on 2020-5-15


   志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に5回目の出演 on 2020-5-19


 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に6回目の出演 on 2020-5-20

 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に7回目の出演 on 2020-5-22

上の3枚の写真は志村けんの出場場面

双浦環(柴咲コウ)「船頭可愛いや」の青レーベルでのレコードの発売について

小山田(志村けん)を説得している場面です。

 

6月1日から第10週「響きあう夢」に入っています。

ある日、古山家に鉄男(中村蒼)が訪れる。古山裕一(窪田正孝)と一緒に、
「福島行進曲」をつくった鉄男は作詞家になる夢をかなえるために、思い切って
新聞社の仕事を辞めて福島から上京してきたのだ。

ヒット曲に恵まれない裕一(窪田正孝)のために、木枯(野田洋次郎)が自身の

ヒット曲「酒は涙か溜息か」を作詞した高梨一太郎(ノゾエ征爾)を
裕一(窪田正孝)に紹介するために連れてくる。

高梨は裕一の「福島行進曲」を聞いて、自分の詞の「船頭可愛いや」に曲を

つけて欲しいと頼みに来たのだ。

高梨に見込まれ裕一が作曲した「船頭可愛いや」は芸者で歌手の藤丸(井上希美)

歌でレコード化されることに。
しかし、廿日市(古田新太)や裕一の期待もむなしく全く売れない。

裕一(窪田正孝)は契約解除の危機を迎える。 

コロンブスレコードに入社出来なかった鉄男(中村蒼)は出店の飲み屋を始める。

随所に裕一(窪田正孝)と鉄男(中村蒼)、久志(山崎育三郎)の福島三羽ガラス
が登場します。そして、音(二階堂ふみ)もオペラの舞台に向けて練習スタート!
オペラの歌の稽古がうまくいかない音(二階堂ふみ)は環(柴咲コウ)の指導を受ける

双浦環(柴咲コウ)から自分に足りない技術を死ぬ気で磨くようにと激励される。

一方、裕一のレコードがまったく売れないが一度でいいからレコードを聴いて欲しい

と音(二階堂ふみ)にお願いされて曲を聞いた環(柴咲コウ)は、とてもいい曲

なので世間の人達に広く知ってもらうために、自分に歌わせてもらえないかと提案する。


レコード化に向けて、コロンブスレコードでは廿日市(古田新太)は大賛成だったが、
彼女(双浦環)が歌うとなると青レーブルでの発売となるので会社の幹部が

青レーブルの重鎮の小山田(志村けん)に知らせたところ小山田が大反対した。

反対を押し切り双浦環(柴咲コウ)が歌う「船頭可愛いや」の曲は発売される。

青レーベルの双浦環の曲は最初から評判で大ヒット。

赤レーベルの藤丸のレコードもこれに伴い大ヒットとなった。

音(二階堂フミ)はオペラの記念公演「椿姫」の練習に励んでいたが妊娠が判明。

 

ここで6月3日は終了します。ここからは以降の展開予測です。(実話から推定)

葛藤の末、帝国音楽学校を退学し主婦の道を選択、6か月後に出産する。

上の3枚の写真は6月3日放送のハイライト場面

 

ここからは実話の紹介です

昭和6年(1931)古関祐而22歳

    初のレコード「福島行進曲」「福島夜曲」

    早稲田大学応援歌「紺碧の空」を作曲

    古関金子(19歳)4月 帝国音楽学校入学、声楽を学ぶ

    「日米野球行進曲」を作曲

 

昭和7年(1932) 古関祐而23歳

    ミヤタ・ハーモニカ・バンドで指揮を担当

    古関金子(20歳) 長女、雅子を出産

    「我等の満州」、「肉弾三勇士の歌」を作曲

 

昭和9年(1934) 古関祐而25歳

    「利根の舟歌」を作曲

    古関金子(21歳) 次女 紀子を出産

 

昭和10年(1935) 古関祐而26歳

    「船頭可愛や」が大ヒット

 

昭和9年春、古関祐而と作詞家の高橋掬太郎は「どこか取材旅行をしてヒットソングを

作ろう」と土浦から船に乗り、霞が浦を渡る風に吹かれながら湖岸の風物を眺め

潮来の町で船を降りた。潮来で船を借り、女船頭の竿さばきで、出島、十二橋と

水郷地帯をくまなく訪ねた。帰京後、高橋から渡された詩に古関祐而は一気に

完成させた。その「利根の舟歌」が古関祐而の最初のヒット曲となった。

昭和10年、祐而と高橋のコンビで続いて「船頭可愛や」が作られ大ヒットとなった。

「船頭可愛や」の大ヒットにより社長からも大変喜ばれコロンビアレコード入社

以来の赤字は全部棒引きにして「船頭可愛や」の印税を最初の一枚から古関祐而

のものとなった。これには祐而自身も大変、感激したそうである。

以降、売れる曲づくりのコツを覚えた祐而はヒット曲の量産に動き出す。

朝ドラ「エール」 双浦環・柴咲コウのモデル三浦環「蝶々夫人」で世界的なオペラ歌手に駆け上がる人生を紹介

船頭可愛いや  音丸

利根の舟唄・・・松平 晃

 

 

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