CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

根井三郎が発給した「命のビザ」新たに発見 宮崎市が発表 on 2020-6-2

2020年06月12日 04時22分15秒 | Weblog

2020年6月8日の神戸新聞夕刊にユダヤ難民救済、杉原千畝の他にも「命のビザ」

新たに発見という見出しで旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理だった宮崎市

出身の外交官、根井三郎(1902-1992)が発給したビザの写真を掲載した記事を

見つけました。

そこで、今回の宮崎市が公開した内容をレビューすると共に根井三郎の功績に

ついて調べた結果を簡単に記していきます。

早速ですが、上の写真が根井三郎が発給した「命のビザ」です。

毎日新聞は2020年5月27日の電子版で掲載されています。

リンク先はhttps://mainichi.jp/articles/20200527/k00/00m/040/210000c

また、西日本新聞2020年6月3日の電子版でも掲載されています。

リンク先はhttps://www.nishinippon.co.jp/item/n/613628/

宮崎日日新聞による報道

 https://news.yahoo.co.jp/articles/35ad9313940816239650a2574ad1602918f7c13d

上記記事を要約すると

第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ系難民の亡命を手助けした外交官、
根井三郎(1902~92)によって発給された日本通過ビザ(査証)が米国で初めて見つかった。
根井三郎の生誕地、宮崎市が2020年6月2日、発表した。

後に「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝(ちうね)(1900~86)が駐リトアニア領事代理
として発給した通称「命のビザ」を携え、シベリア鉄道で現地に逃れてきたユダヤ難民らに対応。
敦賀港(福井県)行きの連絡船の乗船許可を与え、ビザを持たない者には独断でビザを発給した
とする記録がソ連側に残っていた。
これまで杉原が発給したビザに、根井が署名し、日本通過を認める検印をしたビザは
見つかっていたが、根井が単独で発給したビザは確認されていなかった。

今回、ユダヤ人難民に関する著書がある東京在住のフリーライター、北出明さん(76)の調査で、
ユダヤ系ポーランド人の故シモン・コエンタイエルさんが妻、娘と3人で根井のビザを使って
日本を通過し、中国・上海経由で米国サンフランシスコに亡命していたことを確認。
米国在住の孫からビザの画像データの提供を受けた。
ビザには、1941年2月28日の日付と根井の署名がある。
外務省はこの年、杉原が発給した通過ビザを再検閲し、要件を満たさない者は
日本行きの船に乗せないように、と根井に命令した。
これに対し、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と拒絶した電文が外交史料館に残る。

命のビザに関する背景を理解するために

日本に来たユダヤ難民に関するWikipediaの解説を引用させていただきます。

根井三郎に関する部分を赤字で示した。


リトアニアから国外脱出を目指したユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストックに
到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、
「本邦在外官憲カ欧州避難民ニ与ヘタル通過査証ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ
再検討ノ上行先國ノ入國手続ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ検印ヲ施ス事」
【現代語訳=日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、
あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを
証明する書類を提出させてから、船に乗るの許可を与えること】を、
ウラジオストックの総領事館に重ねて厳命した。

しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であったウラジオストック総領事代理・根井三郎は、
難民たちの窮状に同情し、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、
官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。

本省とのやり取りは五回にも及び[75]、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている
根井三郎は本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給し、難民の救済にあたった。

一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた難民たちの命は二人のハルビン学院卒業生の
勇気ある行為によって救われた。
後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」[76]は、「人のお世話にならぬよう、
人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」[脚注 35]というものであった。

こうした根井三郎の人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、敦賀港や舞鶴港へ続々上陸。
その内のユダヤ系難民たちは、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び、
当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である「神戸猶太協會」(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。

難民の内1,000人ほどがアメリカ合衆国やパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。
松岡洋右外務大臣は、外相という公的な立場上は、カウナスの杉原に対してビザ発給条件を
守るよう再三訓命した張本人であり、また同時にドイツとの同盟の立役者でもあるが、
個人的にはユダヤ人に対して民族的偏見を持っていなかった。
難民たちの対応に奔走していたユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)が、
満鉄時代の縁を頼りに難民たちの窮状を訴えると、松岡は小辻にある便法を教えた。
すなわち、避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、
滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている、と教えたのである。
そこで、小辻は管轄の地方官吏たちを懐柔し、敦賀港に1940年10月9日に上陸時に利用されたゴム印には
「通過許可・昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣」となっていたが、
「杉原ビザ」を持ってバルハフティクらが来港した時には、
それが「入國特許・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日・福井縣」に変わっていた[77]。

日本にやって来たユダヤ難民たち、とりわけ黒ずくめでもみあげを伸ばした神学生などのは、
当時の日本人に強烈な印象を残し、安井仲治による写真集「流氓ユダヤ」シリーズにその様子が収録された[78]。
安井の撮影には、若き日の手塚治虫が随行し、その時の体験が、漫画『アドルフに告ぐ』(1986)に結実した。
グラフィックデザイナーの妹尾河童の自伝『少年H(1997)も当時の難民たちに言及しており、
また野坂昭如による直木賞受賞作品『火垂の墓』(1967)においても、「みな若いのに鬚を生やし、
午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て」[79]いたという記述が見られる。
日本滞在後難民たちが向かった上海の租界には、戦前よりスファラディ中心の大きなユダヤ人のコミュニティがあり、
ユダヤ人たちはそこで日本が降伏する1945年(昭和20年)まで過ごすことになる。

 

上の写真は宮崎市出身の外交官、根井三郎(根井三郎を顕彰する会提供)

根井三郎の生誕地は宮崎県廣瀬村(現在の宮崎県宮崎市佐土原町)

根井三郎の略歴についてWikipediaより引用させていただきます。

概要

1902年(明治35年)、宮崎県宮崎郡広瀬村福島(現在の宮崎市佐土原)出身[2]。
広瀬尋常高等小学校尋常科(現在の宮崎市立広瀬小学校)を卒業する[3]。
長崎県立大村中学校(旧制)(現在の長崎県立大村高等学校)を卒業後、
外務省留学生として外務省へ入省する[1]。1924年(大正13年)3月に日露協会学校を修了する[4]。
なお、根井は日露協会学校において杉原千畝の二年後輩にあたる[2]


「命のビザ」への対応
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきたユダヤ人難民たちは、
日本への通過を求めてリトアニアの在カウナス領事館の領事代理だった杉原千畝にビザ発給を要求し、
杉原は外務省の訓令に反して1940年7月から9月にかけて約2千通以上の日本通過ビザを発給した。
ユダヤ人難民の大半はシベリア鉄道で移動し、日本への航路があったソ連のウラジオストクへ向かった。 
当時、在ウラジオストク総領事館の総領事代理だった根井に対して、
外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。
だが、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、
ビザを持つユダヤ人難民を福井県にある敦賀港行きの船に乗せ、
ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書や通過ビザを発給した。
1941年3月に根井と外務省が交わした電報は外交史料館に残っている。 
なお、従来では杉原が発給したビザに根井が追認して署名したものが存在することは確認されていたが、
根井自身が発給したビザはソ連の記録上にはあるものの、そのビザの実物は確認されていなかった[5][6]。
しかし、2020年(令和2年)5月に著述家の北出明による調査によって、
アメリカへ亡命したユダヤ人の子孫が根井発給のビザを持っていることが判明した[5][6]。
そのビザには「昭和16年2月28日 通過査証」「敦賀横浜経由『アメリカ』行」と記されていた[6]。 

戦後
根井は戦後、1946年(昭和21年)3月30日に外務省を退職。
1950年(昭和25年)6月10日付けで大蔵事務官として横浜税関での勤務を命ぜられる[7]。
そして翌年には、入国管理庁への出向を命ぜられ1951年(昭和26年)11月1日付けで入国審査官に任命される[8]。
以降は法務省に移り名古屋入国管理事務所(現在の名古屋出入国在留管理局)所長を最後に引退する。
1992年に90歳にて他界する。
根井は難民を助けた理由を語ろうとしなかったため、故郷でも功績は知られてはいなかった[1]。 


死後及び顕彰活動

福井県敦賀市の人道の港調査研究所代表であり、一般社団法人杉原千畝記念財団の理事でもある古江孝治は、
2015年(平成27年)9月3日~8日まで福岡市アジア美術館で開催された
「戦後70年記念事業 人道の外交官杉原千畝と命のビザを繋いだ日本人たち」展で根井三郎を紹介した。
翌年には宮崎市で根井三郎顕彰会が発足したことに合わせて、9月24日に「根井三郎と命のビザ」の講演会が開催された。
2019年(平成31年)3月2日には、佐土原総合文化センターで根井三郎顕彰講演会とトークセッションが開催された[9]。
また、同年6月18日に行われた宮崎県議会6月定例会において、横田照夫県議より根井三郎の功績に対する評価を
どう考えているのか問われた河野俊嗣知事は以下のように答弁している[1


宮崎市佐土原町の御出身、根井三郎氏におかれましては、外交官であった氏の行動によりまして、
多くのとうとい人命が救われたことなど、今御紹介がありましたように、近年、

その功績が徐々に明らかになってきております。
根井三郎氏は、国際的に知られる杉原千畝氏の「命のビザ」をバトンのようにつなぐために、
外務省の命令に「おもしろからず」と異を唱え、ユダヤ系避難民の日本行きを認める決断をされ、多くの命を救われたわけであります。
この決断は、戦時中の極限的な場面において、大変な困難を伴うものであったと思われますが、
人道的な行為として高く評価されるべきものと感じております。 
河野俊嗣知事、宮崎県議会会議録 令和元年6月定例会 6月18日-06号、252頁

これまでに書いた関連ブログにリンクして筆を置きます

 日本のシンドラー 杉原千畝

 NHK教育TV ETV特集 シンドラーとユダヤ人 ホロコーストの時代とその後を視聴して

 杉原千畝物語ー命のビザをありがとうー を読んで

 神戸シナゴーグ on 2013-11-20


 敦賀散策記 その16 敦賀ムゼウム

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする