高校教師の傍ら「水俣病を告発する会」代表としても活躍された本田啓吉先生が昨年4月81歳で亡くなられ、先日「本田啓吉先生 遺稿・追悼文集」が発行されました。
本田先生は私の高校のときの先生で、国語の授業を受けていました。
授業はとてもわかりやすく、いつも情熱を持って教えておられて、生徒からも人気がありました。
普段は穏やかで物静かな方なのですが、とても正義心の強い方で、ちょうど水俣病が問題になり、企業も政府もそれをなかなか認めなかったころで、水俣病の患者さんの苦境を知り、「義によって助太刀致す」と言って「水俣病を告発する会」の代表となり、先頭をきって水俣病患者支援に奮闘されていた時期でもありました。
でも学校でその話をされることはほとんどなく、私たちはテレビや新聞でその活動を知るくらいでした。
ある時、夕方のテレビニュースで、東京の厚生省前だったと思うのですが、猛然と抗議されている様子がアップで映し出され、その迫力にびっくりしたことがありました。翌日の1時間目、先生の授業がある予定だったのですが、きっと自習になるだろうと思って学校へ行くと、先生は何事もなかったように教室に現れ、普通に授業をされました。
その頃はいつも目の下にクマができていて、かなりお疲れの様子でしたが、授業を手抜きすることは一度もなく、すごい先生だなぁと思っていました。
本田先生が亡くなられたのは、友達が先生の遺稿集を出すための文集刊行会のゴム印を頼みに来られて知りました。
お友達のご主人が高校生のとき、別の高校だったんですが、「水俣病を告発する会」に関わっていらっしゃって、その仲間で遺稿集を作ろうということになったのだそうです。
私も高校生のときお世話になったし、尊敬する先生でもありましたので、少しでもお役に立てればとゴム印を寄付することにしました。
私がしたのはそれだけだったのですが、昨日、その本が贈られてきて、しかも巻末に名前まで載っていて、びっくりです。
出版は同志や友人ら十数人で発足し企画されたのですが、、関係者にカンパを募り、遺稿編集や追悼文の募集をしたところ、最終的には280人に上るカンパと高校の教え子や県教祖時代の同僚、水俣病患者運動の同志など87人から原稿が寄せられ、全464ページの立派な本が完成したのです。
最初にこの企画を奥様にお話したところ、先生の遺志を思い、刊行を固辞されたそうですが、周囲の熱意に動かされ、資金まで出していただいたということです。
私は授業中の先生しか知りませんし、特別にお話したこともないのですが、みなさんが書いていらっしゃるエピソードから、私が思っていた以上にすばらしい先生だったことがわかりました。
この本を刊行するに当たって、「いつも謙虚で、明快な口調と振る舞いをされた人。その魅力を一冊の本にしたかった」と代表の方も述べられているように、今の教育関係者にも、生涯一教師を貫きとおされた先生の生き方をぜひ学んでもらいたいものです。
でも、こんな文集を作られて、本田先生は天国で苦笑いされているかもしれませんけどね。
本田先生は私の高校のときの先生で、国語の授業を受けていました。
授業はとてもわかりやすく、いつも情熱を持って教えておられて、生徒からも人気がありました。
普段は穏やかで物静かな方なのですが、とても正義心の強い方で、ちょうど水俣病が問題になり、企業も政府もそれをなかなか認めなかったころで、水俣病の患者さんの苦境を知り、「義によって助太刀致す」と言って「水俣病を告発する会」の代表となり、先頭をきって水俣病患者支援に奮闘されていた時期でもありました。
でも学校でその話をされることはほとんどなく、私たちはテレビや新聞でその活動を知るくらいでした。
ある時、夕方のテレビニュースで、東京の厚生省前だったと思うのですが、猛然と抗議されている様子がアップで映し出され、その迫力にびっくりしたことがありました。翌日の1時間目、先生の授業がある予定だったのですが、きっと自習になるだろうと思って学校へ行くと、先生は何事もなかったように教室に現れ、普通に授業をされました。
その頃はいつも目の下にクマができていて、かなりお疲れの様子でしたが、授業を手抜きすることは一度もなく、すごい先生だなぁと思っていました。
本田先生が亡くなられたのは、友達が先生の遺稿集を出すための文集刊行会のゴム印を頼みに来られて知りました。
お友達のご主人が高校生のとき、別の高校だったんですが、「水俣病を告発する会」に関わっていらっしゃって、その仲間で遺稿集を作ろうということになったのだそうです。
私も高校生のときお世話になったし、尊敬する先生でもありましたので、少しでもお役に立てればとゴム印を寄付することにしました。
私がしたのはそれだけだったのですが、昨日、その本が贈られてきて、しかも巻末に名前まで載っていて、びっくりです。
出版は同志や友人ら十数人で発足し企画されたのですが、、関係者にカンパを募り、遺稿編集や追悼文の募集をしたところ、最終的には280人に上るカンパと高校の教え子や県教祖時代の同僚、水俣病患者運動の同志など87人から原稿が寄せられ、全464ページの立派な本が完成したのです。
最初にこの企画を奥様にお話したところ、先生の遺志を思い、刊行を固辞されたそうですが、周囲の熱意に動かされ、資金まで出していただいたということです。
私は授業中の先生しか知りませんし、特別にお話したこともないのですが、みなさんが書いていらっしゃるエピソードから、私が思っていた以上にすばらしい先生だったことがわかりました。
この本を刊行するに当たって、「いつも謙虚で、明快な口調と振る舞いをされた人。その魅力を一冊の本にしたかった」と代表の方も述べられているように、今の教育関係者にも、生涯一教師を貫きとおされた先生の生き方をぜひ学んでもらいたいものです。
でも、こんな文集を作られて、本田先生は天国で苦笑いされているかもしれませんけどね。