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ちあの散歩道

輝いてアラカンヌ☆ありがとうの言葉を添えて暮らしのドアをそっと開けると今日も豊かな感動と新しい気づきが待っています。

ばかものよ

2010年11月29日 | 本など



◆「自分の感受性くらい」 茨木のり子詩集より

…………………………………

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
・………………………………・

「ばかものよ」と言う、私に投げかけられている直球のことば。




『ねじまき鳥クロニクル』

2010年11月14日 | 本など


『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹著・新潮文庫)を夢中で読んでいます。
「第1部泥棒かささぎ編」は1冊文庫本で514円。それを私は「第2部予言する鳥編」と「第3部鳥刺し男編」を合わせて3冊古本で買いました。もちろん古本で買わなくても本屋さんの店頭では現役本として書棚に並んでいます。

いま第1部を読んでいます。こんなに面白い本だったのかと唸りつつ読んでいます。1冊ワンコインでこんな豊かでユニークで豊かな比喩を駆使した言葉の世界へと分け入っていけるのかとぐいぐいと引き込まれています。勝手な推測ですが、もしや般若心経の世界が下地に在り見え隠れしているような、そんな思いも抱いています。
私にとってはどんなカウンセリング本を読むよりもカウンセリング効果抜群。読みながら身体のあちこちに赤錆びのように溜まってしまった小さなカサブタがこそげ落とされて行くような不思議な感触があります。もちろんこの中にはファンタジックでややミステリアスともいえるモノガタリが記述されているだけなのに。
もしかしたら今まで本を読むほんとの楽しさを知らなかったのかもしれません。

『父を焼く』(上野朱著)

2010年11月10日 | 本など



Y子さんより書籍小包が届き、中には「父を焼く」(上野朱著・岩波書店)が入っていました。
「朱さんが届けてくれたけん、1冊送るけねぇ」とその前に電話があり、楽しみに待っていました。

私は上野英信さんのこともよくは知らないけれど、英信さんの奥さんで朱さんのお母さんの晴子さんが書かれた『キジバトの記』(裏山書房)は離せない愛読書の1冊です。過去に書いたこのブログ内の記事はこちら

『父を焼く』にもたびたび登場する山本作兵衛さんの絵は2009年に目黒美術館で行われた「‘文化’資源としての<炭鉱>展」を観ていたのでその展示を思い出しながらその関係性があらためてよく理解できました。
随所に散りばめられた記録文学者である父英信の思い出と父母を取り巻く状況をを綴った文はどれも当時の炭住での生活の一端が伺え、素敵でしっとりと輝いていました。

それにしてもこの本のタイトル『父を焼く』はドキリとする衝撃的な言葉が詩的に醸出されていて心にくいですね。
上野英信という偉大な父を持った一人息子の朱さんは父の名に屈することなくのびやかな書き手となって私たちを唸らせています。



付箋を付けない読書

2010年11月06日 | 本など


私にとって、読書するときに付箋は欠かせないものでした。本をバックに入れて持ち歩く以上、付箋も必携品で、必ずバックの中には付箋の入った小袋も。
しかし、よく考えてみると、私の読書は、純粋に本を楽しむことに尽きるわけで……。それに気づいた時、例外を除き、付箋を貼らない読書法に立ち戻ろうと決めました。
付箋を貼り、理で詰めて行くと確かにあとでまとめるためには便利だけれど、肝心のその本が訴えかけて来る本来のピュアなモノを見逃していく危険性に思い到った次第です。
全体を通して、その本が私に何を訴えかけ、何が心に残ったのか、それこそが大切なことではないかと。

楽しむために読む、もちろん学ぶためでもいいけれど、それは他者を介さない私自身の楽しみのためにという一点に絞り、書かれていることをまっすぐに受け留める、それで十分だと思うようになったのです。

胸に抱く本

2010年10月27日 | 本など


気に入っているがゆえに読むことがもったいなくてなかなか先に読み進むことのできない本というのがあります。
最近手にした本の中では、『ホクレア・星が教えてくれる道』(内野加奈子著・小学館)もその類です。いわば、読む本を超えて胸に抱く本とでもいえばいいのでしょうか……。

数日前届いた本、『わからないことは希望なのだ』(春原憲一郎編著・アルク)。
これは春原さんと15人の著名人の方のインタビューの記録で、たとえば旭山動物園の小菅正夫さんやジャズピアニストの山下洋輔さん、作家雨宮処凜さん、聖路加病院の日野原重明さん、社会学者の上野千鶴子さんなどの人々です。

その15人の中には『地球交響曲』の龍村仁さんとの対談もあり、読みやすいところから読んで行くという私の流儀でページを紐解いたところです。
ここには、思いがけず『ガイアシンフォニー3番』のしかも、私がもっとも好きなシーン、ハワイの伝統航海術師ナイノア・トンプソンの「心の中に島が見える」も語られていてうれしくなりました。私はこのナイノアのシーンを確認したいため何度か『3番』を観たほど。しかし、星野道夫を中心に編まれた『3番』を最初に観たときにはこのナイノアの言葉には気づきませんでした。さらにいつの日かもう一度『3番』を観たときには伝統カヌー「ホクレア」の名前を映画の中でも聞くことになるのでしょうか。

“その人が必要になった時にそれは記憶にとどまります。頭で覚えようとしないことです”と、これは私が週1回通っている「和みのヨーガ」のガンダーリ松本先生がたえず教室で口にされる言葉。

そして……、先日、偶然逗子のカフェ「coya」で手にした本『ホクレア』。
(『ホクレア』と出逢ったことを書いた9月13日の私のブログ→

私の中でのナイノア・トンプソンとの再びの出会い、映画と本という違った世界ではあるけれど。
『ホクレア』を手にした時にはそんなことは思いもよらず、この本、欲しいと直感で本と作者をメモし取り寄せただけなのに。
内野さんが綴られた航海記録ともいえる淡々として深い言葉のきらめきと添えられた写真の美しさ、そこには自然に立ち向かう人の謙虚さは、自然を畏敬しともにある人の輝きと表裏を成すものだということを教えられるようです。

春原さんの本『わからないことは希望なのだ』の一節と、私が偶然手にした『ホクレア』とのシンクロニシティに今朝は少し酔っています。

プレゼントに『呼吸の本』

2010年10月16日 | 本など



今日は誕生日のプレゼントにするために本を買いました。
本屋さんがパッケージをして下さった上に、少し自分で手を加えました。

本は『呼吸の本』(サンガ・詩人谷川俊太郎/呼吸の先生加藤俊明)です。私のお気に入りの本で、CDも付いています。
本の中身は生徒の谷川さんが呼吸のことについて先生の加藤さんに質問し、それに加藤さんが答えるという問答形式で編まれています。ときにおかしな質問があり、笑いがこぼれる場面もあります。
なにより、先生の加藤さんは谷川さんに出逢ったときに、詩人谷川俊太郎のことを知らなかったというエピソード付きです。

CDを聴くと、これがまたいいのです。
呼吸法を先生は促し、最後に「ただそう思うだけです」というちょっと突き放した言い方をするのです。ああでもないこうでもないと声の誘導に従って頭で考えがちな私たちに、先生は余計な説明をなさらずに「ただそう思うだけです」と最後に一言。たとえば「地球の中心に向かって足の裏から息を吐きましょう。ただ、そう思うだけです」と言った具合に。媚びない低い声のトーンとこの小気味よさに私は参っています。何事も難しく考えなくても“ただそう思うだけ”でいいのだと納得し心地いいのです。

健康に呼吸がとても大切なことを知りました。
呼吸は普段はまったく意識しませんが、吐いて吸う、吐いて吸うというこの単純な動作を少し深く見つめると様々な気づきのあることがわかります。

私が選んだ本、喜んで下さるといいな☆~♫~☆


月1回の「東京松下(を読む)会

2010年09月27日 | 本など


(写真はゴムの木の新芽です)

毎月1回行っている読書会も9月でちょうど10回目を数えました。
会は作家故松下竜一氏の著作を読むということで立ち上げ、私は事務局をしています。
9月のテーマは『風成の女たち』で、風成(かざなし)は大分県臼杵市にある漁村の地名です。昭和40年代、大手セメント工場進出のための海の埋め立てを、男衆(おとこし)たちの漁の留守を守る女衆(おなごし)たちが中心になって反対し、最後は村は分裂し裁判で勝訴を勝ち取り、工場進出を拒んだドキュメンタリーです。日本の公害反対運動の先駆けとなったことでも「風成」は知られています。
読書会である通称「松下会」は高田馬場にある「喫茶室ルノアール」の貸しスペースで3時間行い、そのあとはほぼ毎回2次会へと進み、2次会は飲み会と化しながらも議論の熱さが変わらないのが特徴といえるでしょう。
参加者はほぼ6~8名でその中のコアメンバーは5~6人、事務局としては次回の会場予約と参加メンバーへの会場と日時のお知らせなどを担っています。
10月の「松下会」は10月17日に行う予定で、10月課題図書は「明神の小さな浜辺にて」です。

参加者の顔ぶれや会で出た話題などは長くなるのでこのブログで紹介できませんが、事務局としては参加者ひとりひとりの自発的な参加により成り立っている会だと位置づけ、出欠などはとらず、当日集まれる人が集うということで、余程のことが無い限り、「来るもの拒まず、去る者追わず」を貫いています。

課題を与えられ共有することで、私の場合は松下氏の著作を選り好みしないで読むことができるのが大きな収穫です。
生前松下氏は、「私の本の読者はノンフィクションが好きな読者と、エッセイなどが好きな読者に分かれるようです」と語っていましたが、私はどちらかというとエッセイタイプです。不出来な読者を自認していた私も「松下会」のおかげでその著作をだんだん読破出来ていることはうれしい限りで、会の皆さまに助けられて事務局としての役割が果たせていることにも感謝しています。


読書会に向けて 『風成(かざなし)の女たち』

2010年09月21日 | 本など


『風成の女たち』ある漁村の闘い……松下竜一著。(写真は朝日新聞社刊)。
毎月1回行われている「東京松下(を読む)会」の9月例会は26日、課題図書は『風成の女たち』(昭和47年8月第1刷)です。
何事もぎりぎりにならないと取りかからない私の悪癖が出て、いよいよ今日から5日間かけて読破です。

ページを開くと序文があります。

「これは
美しい村と美しい海を
守ろうと立ち上がった女たちの物語です
それはたとえば
三里塚の戦いのように
大規模で熾烈でもありません
忍草母の会のように
永い苦しみの戦いでもありません
むしろ小さな戦いの物語です
牧歌的な戦いと評する人さえいます

だがそれだからこそ
この女たちの物語は
いま全国の片隅で立上がっている
美しい村を守り美しい町を守る
小さな戦いと
なつかしくかかわっていくはずです
この物語の主人公は
こう呼ばれています
風成(かざなし)のおなごしたちと。」


昭和48年、私は松下竜一氏の著『豆腐屋の四季』と出たばかりのこの『風成の女たち』を携えて故郷を後にしました。
いまあらためて開いたとたん、こんな美しい序文があったのかしらと思わずびっくり、いかに薄っぺらくミーハー的に読んでいたか恥ずかしい限りです。
20代初めの私には生活のことも生活を取り巻く環境のこともまるで絵空ごとのように映っていたのでしょうか。
今の時代のありようを予兆して書かれたかのような松下文学の数々。その中でも『風成の女たち』は松下氏初期の作品です。
会話の中には懐かしい大分弁が列挙され、大分弁を知らない読者は果たして意味がわかるかしらなどと想像しながら読み進んでいます。さらに当時の“風成のおなごし”たちの無垢な行動力に驚き小さな集落の女性たちが一日で工場進出反対署名を3300件も自らの足で歩いて集めるなど信じがたい記録が記されています。
「松下会」で課題図書になっていなかったら、ふたたび紐解くことがなかったかも知れない『風成の女たち』、すでにこの時点で松下氏の底に抱えるユーモアの視点が随所に芽を出していることなど新たな発見をしながら読んでいます。


本との出会い 「ホクレア」

2010年09月13日 | 本など


カフェに入ると本が置いてあるところがあります。
どんな本が置いてあるかはそのカフェのコーヒーの美味しさをはかる目安にもなります。

旅先で初めて入ったカフェ。
何気なくそばにある小さな書棚に目をやると……。
どれにしようかしらと迷いつつ手にした1冊の本が「ホクレア」。
サブタイトルに「星が教えてくれる道」とあり、一艘のカヌーがハワイ沖からミクロネシアを経て日本へ向かった記録が綴られています。
小さな本の中には美しい写真が随所にちりばめられています。

海図もコンパスも持たない、もちろん時計もない伝統航海術にのっとって大海原を航行するカヌー「ホクレア」。
日本人女性内野加奈子さんの書かれた本です。
海洋写真家の内野さんは海洋学を学び、ハワイで伝統航海術師に師事し、2007年、5か月にも及ぶホクレアでのハワイ~日本航海に参加します。

と、こんなことをカフェでは拾い読みし、本のタイトルをメモし、家に帰ってさっそくこの本をアマゾンで購入しました。
その本「ホクレア」(小学館)が届きました。

人の叡智と五感を使い、星や月や太陽の動き、波や海鳥の行方などからカヌーを航行させ、目的地へたどり着くことのすばらしさ。奇跡のようでありながらそれはまだ科学無き時代、自然の営みを頼りにし、人々がこれまでに培ってきた伝統航法による真理に基づくものです。
なにも無い海原に絶えず心の中に島を見続けることのできる凄さ。

一冊の本との出会い方は様々ですが、初めて訪れたカフェでの「ホクレア」との出会いは本当にうれしく得した気分です。もちろん、コーヒーもパンも飛びきり美味しかったです☆。
「ホクレア」に織り込まれた写真の美しさ、そしてエッセイ風に綴られた言葉の数々は宇宙とも言える自然界からの出来事を享けて指針とする人の持つ霊性の確かさなどにも気づかされます。



「断捨離」と「遍路旅」

2010年09月08日 | 本など
ようこそ断捨離へ モノ・コト・ヒト、そして心の片づけ術


今2冊の本を同時進行で読んでいます。
最近ブームの「断捨離」本と、辰濃和男著「歩き遍路」。
なぜだかこの2冊にはつながりが多く、面白く読んでいます。

断捨離とは、
断=入って来るものを断つ
捨=不要なものを捨てる
離=不要なものから離れる

断捨離への道にはモノのみならず、コトやヒトも含まれます。心の片づけ術の指針も。
『ようこそ断捨離へ』(やましたひでこ著)は2010年6月発刊されたばかりのほやほやです。

そして、『歩き遍路』は2006年7月発刊、辰濃氏73歳で3周目の歩き遍路で40代、60代に続く3周目の「区切り打ち遍路」の様子が書かれています。
荷物を背負って歩き通すために身軽ないでたちで遍路をし、ぜいたくを慎み、簡素な宿に泊まる。
目の先に広がる景色に助けられ、人の親切を受けてのこの歩き遍路の様子を自身の体験で綴った本ですが、本当に素敵なエッセィが散りばめられています。
旅の香りが聞こえ、色が見え、細やかで豊饒な著者の情感に思わず感涙する場面に度々出くわします。
章により、三好達治や若山牧水の詩が引用されていたり、若き高群逸枝が遍路旅に出たときの覚悟が綴られその確かな感性の芽がすでに出ていたり、遍路の心得がさりげなく記されていたり、数々受けたお接待のありがたさやお接待をする側の陰徳を積むという行為の素晴らしさなど、机上で読んでも感動し納得する数々の出来ごとが格調高い文で記されています。
もちろん、ブッダの「犀の角のようにただ独り歩め」や、ソローの「歩かなければ、自分の健康や生気を保つことができない」など、歩く勇気が湧いてくるような言葉も数々引用されています。

何が必要で何が不要か、その判断はつきにくく、モノ、あるいは行動を、さらには人との関わりも見つめ直し、手離すことで見えてくる世界が「断捨離」、「歩き遍路」ではまるでその実践後の世界が軽やかに美しい文で匂い迫ってきます。
辰濃氏は歩いていて何より気になるのは荷物の重さと語り、「自分の生活に不必要なものを手放していくと、それまで自分を縛っていたものがだんだんほどけてきて、驚くほど気持ちが自由になっていくから不思議だ」という大塚敦子さんの言葉の抜粋も。
祈り、信じ、感謝し、謙虚に生き、生かされることへの道しるべの世界のようでもあります。
息は呼吸と言い、呼(吐く)が先で吸うは後です。世の中は呼吸のシステムで巡っている、たとえばバスや電車の乗り降りをみても降りる人が先で乗る人がそのあとに続くように。吐いて吸う、吐いて吸うのリズムでお金も先に出してこそ巡るとよく聞きます。
その生きる根源の流れの詰まりを取り除き、自然に勢いよく流れるためには、どうすることがいいのかがこの2冊の本から理解できます。

私も歩き遍路に出たいな……。
今のような体力と気力、さらに歩き方ではいつのことやらわからないけれど。
そしてさらにさらに身の周りのモノ減らしに努めなければと思います。
まだまだたくさんあります。


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9月8日の歩数 10750歩

今日は久しぶりの雨が降りました。
私は都内に出ていて大雨には当たらなかったけれど、帰りは総武線が不通になったりしていた影響でダイヤが大幅に乱れていました。
いずれにしても雨は有り難く、涼しさを感じる一日でした。