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ちあの散歩道

輝いてアラカンヌ☆ありがとうの言葉を添えて暮らしのドアをそっと開けると今日も豊かな感動と新しい気づきが待っています。

『ありふれた老い』と『暗渠の宿』

2011年02月12日 | 本など
2月の「松下会」の課題図書である松下竜一著『ありふれた老い』(作品社)を読み始め、同時に西村賢太氏の『暗渠の宿』(新潮文庫)を読み終えました。

文とはこうあらねばという定義が私の中にただひとつあるならば、身を削り血を吐くような、喉に指を突っ込み、中の贓物を自分でほじくり出すような、そんな恥部を書いてこそとの思いがあります。
まったく違う筆致ながら、松下氏と西村氏、どこか似ているなあと思わずにはいられません。
ふたりとも自分の生い立ちや周辺を書いている共通の切り口のせいなのかもしれません。
家族の離散を経て自分自身に強いコンプレックスを持った青春時代や果てしない過酷な労働を強いられて糊口をしのぐいのちきの仕方など、いわば公安警察ににらまれながらも清々しく生き切った静の切り口が松下氏なら、前科つきの動の切り口が西村氏ともいえるのかしらと勝手に想像しながら読んでいます。想うにふたりの体躯の違い、病弱な松下氏と頑健な西村氏によるものも大きいのかもしれません。

松下氏は、貧しい生活をものともせず、環境権や社会悪などをテーマにした社会派ノンフィクションを書き、西村氏は師と仰ぐ大正時代の小説家・藤澤清造の全集を自力で復刻出版したいという願いの元に乱れた生活を自認しながらお金を投資していることなども、まったく違うと思いながらほんとによく似ている部分をはらんでいると思います。
西村氏は芥川賞を受賞した時、その賞金や印税をすべてつぎ込んで藤澤清造全集を復刻したいと語ったことを新聞記事で知りました。

西村賢太氏の芥川賞受賞作品が発売中の「文芸春秋」に載っています。
ここ数日、家ごもりをしていた私はまだその雑誌を買いに行けなくて、手元にないけれど、関心を持ってこの作家を追っかけてみたいと思います。
西村氏がこれをきっかけに優等生作家になることなく無頼な生き方を貫きつつ、ほとばしる生を書き続けて欲しいと思います。
ちなみに昨日夜9時のニュースの番組案内に「芥川賞作家西村賢太日常を語る」とあり、私は楽しみに西村氏の登場を待っていましたが、出ませんでした。
NHKに問い合わせると「ニュースの関係で出られませんでした」とのこたえ。取り立てて緊急なニュースがあったようにも思えなくて番組を見つづけましたが……。
私は彼の本を読みながら、これでテレビに出たらつまらない作家になるのになあと内心思っている方なので、マスコミに顔を出すことなく書き続けて欲しいなあと思うひとりです。

最新のわたしの本棚

2011年01月20日 | 本など



上の写真の3冊が最近私が手に入れ、こころひかれている本です。

『断捨離』本の1冊を九州へお嫁に出したところ、写真の本が本屋さんで「私をあなたの家に連れて帰って!!」と私を呼びとめ、迷ったけれど購入。
前の本とは違い、さらに共感した私。買ってよかった!!!こちらはずっと私のそばに置く本だと思っています。

まんなかの本は『ありがとうおじさんの本』です。
最近私がキリなく使っている「無限の無限のありがとう」を説く人、「ありがとうおじさん」の話しをある方に伺ってすぐにネットで探し、購入しました。
ほかにも知人の中に「ありがとうおじさん」のことを知っている人がいてびっくりしました。
いまの私にとってこの本はもっとも大切な本です。
毎日毎日めくっています。
少々のストレスやダメージを受けても、この『ありがとうおじさんの本』をめくり読むとスッキリ晴れ晴れ。その前に手許にあった『ホ・オポノポノ』は、長野へお嫁に出しました。

そして『血管ほぐし健康法』。届いたばかりのホヤホヤです。
普通はこのようなハウツウ本はあまり手にしないけれど、これは私のことをよく知る友人が読んでみたらとすすめてくれた本。表紙を見ただけで納得し、ワクワク。役に立ちます。
さらにこの本をネットで探した時、アマゾンは高価格で手が出ず、楽天は品切れ、さらに3店目でみつかり、そのお店はなんと全国書店ネットワークe-fonの中から「ひまわり・子ども」書店へとたどり着きました。
「ひまわり・子ども」は福岡の知人が経営する本屋さん。去年訪ねました。
不思議なご縁を感じています。そのときのブログは→☆
「しずさ~ん、本といっしょにフルーツケーキもいっしょに送って~~」と、電話をしようと思ったほどです。

ほかに柴田トヨさんの詩集『くじけないで』は、お誕生日のお祝いに知人に贈りお嫁入り。

何だか、毎日毎日、よいご縁を結んでいただいて、それは目に見えるものも目に見えないものも同時に押し寄せて来ています。

私も「ありがとうおじさん」に会ってみたかった!!!
みんなひとりひとりが無限の無限のありがとうおじさん、ありがとうおばさんになれればいいのですね。そしたら、ワンネスの時代がやって来る。縛りがなく、自立した有限ではない無限の世界。
「ありがとうおじさん」は、今も滋賀県の山奥に住んで修行の日々を送っているらしいけれど、名前は「ありがとうおじさん」で本名を名乗らず、本の著作権料放棄、コピーもOKだそうですから、すごい!!これぞ人に教えを説く人の本物だとうれしくなりました。

それにしても、知らない世界のあまりの多さに驚くことばかりです。


『母よ、生きるべし』(松下竜一著)読書会

2011年01月17日 | 本など

毎月1回高田馬場で行っている「東京・松下を読む会」を1月16日に行いました。会を重ねて14回目になります。
自由参加で行っていますが、16日は『母よ生きるべし」(松下竜一著)を課題として選び、8名の方が集い、白熱した議論が展開されました。



 

参加者の年齢も幅広く、今回の最高齢者はパフォーマーの黒田オサムさん(写真上中央)。80歳になられます。
余談ながら、黒田さんは今月末からバングラデシュ~インドをパフォーマンスで旅をされるそうで、参加者は一様に「うらやましい~~!!」と、できればカバン持ちで参加したいと話し、2月の「松下会」では黒田さんの旅の報告も聞くことを計画。

次に高齢なタカトリさんは、大手自動車メーカーの技術者として仕事でカナダに赴任し、35歳のときに、“心の中の曇りを晴らした”とヒタヒタと豪語。心と脳、自我とは何か、さらに凡人の悟りのすばらしさを自己の体験から語り、心とは何か?を余生になお研究していると語りました。
「自分を知るマップ」から“知識人”と“凡人”の悟りの在り方、さらに心とは何か?を考えたとき、知識が心を曇らせている、その知識が智恵に変わって行くところに心が晴れてくる真理がある……と結論付けられました。知が増えるほど感性が衰えると気付き、知識が心を曇らせて行くという「タカトリ理論」を会の前座で資料とともに熱く語り、私は大感動。なぜか今回の参加者の中に最高学府で教えている人が3人も混じり込んでいることから、知識ではなく行動を通して知恵を身につけていくことの素晴らしさを諭しているようにも私の耳には聞こえました。

さて、松下竜一の『母よ生きるべし』。

「母よ、生きるべし」は、生前の松下と関わり、松下とともにその著作を読み込んだ人、松下を知らないままにまっさらな状態で本を読んだ方の間に捉え方が分かれ、そのいずれにも多くの共感をお互いに得ることが出来ました。家族制度やフェミニズム、エロス、性愛からいのちそのものについてまで話題は大きく広がりました。

・煩悩があり、エロスがある。生き物としての根源的な欲望があり、それが次につながる希望でもある。

・ディテールとして書かれていることの細部が面白い。ワインが好きだったのかとか、黄色いレンギョウ畑を母に見せに行くところなど土本監督が水俣を描いたシーンと重なる。野草と植物の話しが豊かで、母の命と洋子はつながっている。母は一般名詞で終始書かれ、洋子は固有名詞で書かれ続けていることにも松下の思いが汲み取れる。

・松下に発刊と同時に送ってもらった。1990年、発刊後最初読んだときは書かれていることに驚いてショックだったが、2回目読んだときは、松下は物書きとして母のことを記録にとどめたのだと思った。

・小説として単純に面白い。義父の孝さんに感情移入してしまった。孝さんはトリックスター的に書かれていて、それなりに魅力的だった。

・メルヘンチックな世界が描かれ、悪い人は一人も出て来ない。みんなが善意の人で心が幼児化して行き、雑念を取り払い心だけで生きている世界を描いていると感動した。

・私は同じ孝という名なので不利な立場で(笑)、要所要所で傷ついた。山本周五郎の小説「しゃべりすぎる」によると、恋愛はすべて三角関係により成り立つ。松下も母と洋子で独特な三角関係を表現していると思う。

・松下の本にはかならず女性が出て来る。

などなどの読後感が語られ、そこから母性、女性性などにも話しは及び、無知な私にも理解できるとてもとても面白く楽しくユニークな読書会となりました。

いつものように、場所を移して2次会は飲み会と化し、飲み、食し、語りと続きました。
「松下センセ、私たちの会話を聴いていらっしゃいますか??あなたのことをこんなに熱く語る仲間に恵まれたことを私はほんとうにうれしく、ありがたく思います」と、一足先に黄泉の国に旅立って行った松下竜一氏に語り続けた夜でした。
参加いただいた皆さまに心よりありがとうございますと無限の無限のありがとうを述べました。

●2月「松下会」は2月20日(日)午後2時~5時に決まりました。
テーマは「ありふれた老い」です。

●6月の「竜一忌」に向けて、「松下(を読む)会・読書会ノート」第2号を発刊することを決めました。
今回の参加者の中に若きココ出版社長の吉峰さんがいらっしゃることもきっと大きなご縁だと感謝☆


にっこり笑って、バカになる。

2010年12月31日 | 本など

高校生の頃、クラブ活動の顧問の先生に言われた言葉、「もっともっとバカになれ」。
以来、何かにつけて思い出す言葉のひとつです。
そして、先日お会いした方は、私の相談ごとに豪快に一言、「バカになりゃあ、いいんだよ」。

今年も今日で終わり。
さて、来年はと思った時、私のテーマは「バカになること」と決めました。
私の場合は元々バカなので、「もっとバカに、さらにバカに」ということのようですが。



バカになろうと決めるための伏線のように目の前にあった1冊の本。
今年はたくさんの本を処分したのに、なぜかこの『「バカ」になれる人ほど「人望」がある』(伊吹卓著)はわずかに残した本の1冊です。本を断捨離したとき、奥の本箱から私の机の周りに引っ越してきたこの本。今から20年前に出された本で、私が買ったのか夫が買ったのかも定かではないけれど。
バカになろうと決めたときに、目の前に「バカになる哲学」を説いた本があるなんて、何とハッピィ。

「バカ」になる準備は整いました。
私の2011年のテーマは「にっこり笑って、バカになる」です。

皆さま、来年もどうぞよろしくお願いいたします(ニコニコ)。


無学ですけどいいですか?

2010年12月28日 | 本など

 

昨日お会いした方との何気ない会話の中でその方は、「お経、毎日上げているんだけどね」という語りかけがありました。一瞬のつぶやきで、すぐに違う話へ。
言霊についての話題の後に、さらりとさりげなく話されたことでした。
それを受けて、思わず「私も、般若心経、唱えています」と言葉を発しようとしてぐっと呑み込みました。私の場合は、毎日に近いというだけで、毎日ではないいい加減さがあるしなあ……生活時間のリズムが大幅にぶれることもあるしと、そんな思いがよぎったからです。しかし、昔の人は「気はこころ」と言いましたっけ。気持ちがあればアバウトでもいいんだなあとそんな風にも思っています。般若心経のあとは、中村元先生訳の「[現代語訳]般若波羅密多心経」を声を出して読みます。この間、わずか朝の5~6分。この5~6分も意識を向けないと忘れ逃してしまいます。
「般若心経」は、難しくていまだに暗記ができないけれど、唱えようと思うその心が大切だと自己弁護しながら、声に出した時のコトダマの世界を楽しんでいます。
その方からは2冊の本を預かりました。ある打診を受け、私はその方に「私は無学ですけど、いいですか?」と尋ねました。その方は「ああ、いいよ~」と二コリ。
ありがたい出会いに思わずありがとうございますと私の気持ちを述べました。



家に帰ると、友人から教えてもらった「ホ・オポノポノ」の本が届いていました。
先日、「丸善」で立ち読みしたのですが、やっぱり買おうっと、アマゾンの古本で頼みました。
過去の記憶のクリーニングについて書かれているようです。

さらに別の友人が貸してくれた武術家・甲野善紀さんのハードカバーの本3冊。
何かがつながって行くのでしょうか……。

無学な私、いままで耳学問で生きて来たなあ……。
けれど何かを投げかけると、そこから何かをつないでくれる友人や知人たちに恵まれている私。それは無限大の未知の世界への入り口でもありワクワクするほど楽しくありがたいことです。
ありがとうございます。


『わからないことは希望なのだ』を通した「東京・松下を読む会」

2010年12月20日 | 本など



毎月一度高田馬場で行ってきた「東京・松下を読む会」。
大分県中津市で生涯を暮らし、多くの著作を遺した作家松下竜一氏。
松下氏のことをノンフィクション作家という人もいれば、家族をテーマにした多くのエッセィなどから随筆作家という人もいます。
ほとんど知られることのなかった松下竜一というひとりの作家。
その松下氏の本を読む会も今回12月で13回目が終わりました。
事務局の私としては、月に一度のペースで1年以上続いたという感謝と感慨。そしてこれからどうしていくかというかすかな迷い。そんな中で行われた12月定例会。

13回目の今回は松下を離れて、春原憲一郎編著『わからないことは希望なのだ』(アルク)を選び、会を進めました。進行はいつものように代表の細谷さんです。
それは10月の「松下会」に春原さんが初参加して下さったことからの機縁でした。

『わからないことは希望なのだ』は、それぞれのフィールドを持つ15人の著名人に春原さんが会い、対談した記録が収められています。



上の写真中央が春原さん。

 
 
 

編著者の春原さんが対談を通して本の中に込められたことや、そのいきさつなども語られ、いつもとは違った「松下会」が展開して行きました。

メモをとるスピードがすっかり落ちて来た私。
今回はicレコーダーに収録したので、それを起こしてみたいという思いをもっています。

日本語教育を外国から来た人たちに教える仕事をしている春原さん、その思いの深さを感じさせるのは春原さんのピカピカの皮膚やとびきりの笑顔、強い目力と語ったのは三浦さん。私も同感です。
それを踏まえてわずかな私のメモをいま拾ってみると、
会代表の細谷さんの「異文化共生、多文化共生は現状を見る限り、異文化共異だと思う」を受けて、春原さんや清水さんは、
「多文化共生は自文化強制であり他文化矯正をも含み、同化対策でもあるのでは」などにも話しが及びました。
育った文化や習慣、環境や状況の違う人たちを受け入れ、それぞれの尊厳を守って行くことの難しさは、国の施作も含めて、外国人労働者だけに及ばず、障碍を持って生きる人たちや、いま生きづらさを感じているすべての人たちにも同じことが言える……そんな風にも話題が展開して行きました。

動物園が大好きだったという春原さんは「旭山動物園」の小菅氏との対談を特に語られ、私は本を読んで「旭山動物園」のDVDを2本レンタルして観ました。
ちいさなきっかけから何を自分に引き寄せ、未知と遭遇して行くか……私もうわさに聞いていた「旭山動物園」。動物を通して人の動物への深い愛情や関わり、動物それぞれの習性、さらにいま目を背けられようとしている「生老病死」の特に死の問題などもDVDの中に見つめることができました。
他にも、この本の中の15人の著名人が書かれた本を取り寄せる人たちもいて、それこそが1冊の本から拓かれて行く本による「効果」だなあと思いました。

黒田さんは、それを受けて山谷から上野動物園のチンパンジーやオランウータンの檻舎の掃除をしていた時代の話しをしました。
白木さんは「最首悟氏の本質はこの本がすべて言い得ていると思う」と絶賛。

そして私には難し過ぎる話題もいっぱい出ましたが、書き手の能力及ばずでそれらはパス。



ところで、作家松下竜一に話題を戻して、
細谷さんが「松下の中の母性、さらに市民運動の中で果たす女の力」について、鶴見和子氏の文の引用を資料として出されたところで、
鷹取さんは、「松下は草食系。男と女、両方を持っている。すべての作品の中に女性の力をきちんと見ている松下文学」と、良い意味での軌道の導きをされるタイミングは絶妙で、さすが年の功。

さらに春原さんは「松下の本はかなり取り寄せたけれど、読んだのはまだ2冊くらい。女性も含めて家族という単位の中で、いのちの再生産をどう考えて行っているのか。再生産過程を私たちがどうとらえて行くか、いま言われているアンチエイジングや老いや介護の問題も含めて女性に特化しない『生老病死』の人の問題として観るのもひとつの方法では……」と提言がなされ、一気に次回1月のテーマ本は松下竜一著『母よ、生きるべし』に決まりました。

「松下会」の魅力は、3時間の討論が終わると、2次会で飲み会となり、そこでまた色々の意見が絶えることなく交わされるということでしょうか……。ときにはけんか腰議論もあり、私も負けずに大声を出すことも日常茶飯で、そこから参加した皆さんがそれぞれに何かを感じ、思い、それぞれの場所に戻って行く……気取りも無く、意見の押し付けも無く、もちろん肩書やその羅列も無く、好き勝手に飲み、話して締めくくられることにあるのでしょうか。
2次会で別れた細谷さん、鷹取さん、春原さん。3次会でコーヒーを飲んだ残りの私たち。ところが再びばったり駅で春原さんと出逢い、もう一度居酒屋へ~~。
今回は、結果、4次会まで進み、私は深夜11時に一足早く電車に飛び乗りました。

文が長くなってスミマセン。


『詩集 ほほえみ』大野悠・みずき書房刊

2010年12月09日 | 本など



田舎のおばが「ゆでもち」と一緒に送ってくれた『詩集 ほほえみ』。
『ほほえみ』は大野悠さんのおそらく自費出版による処女詩集です。
中には50篇の詩が収められています。

おばの話しによると、同じエッセィ教室のお仲間だそうで、とっても穏やかで素敵な人だそうです。
大野悠はペンネーム。81歳になられる紳士だそうです。

『ほほえみ』の中の詩の一篇一篇の何と瑞々しく心を打つことかと、読みながら涙が自然にあふれてきます。

たとえば、◎「雑草」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「雑草という草の名前はありません
 それぞれに名前があるのです」
その人は優しい目をしていた
何気なく使う言葉への一瞬の衝撃

言われてみればその通りだ
この秋の草の花の賑わい
赤、黄、紫、白、どんな小さな花も 
精いっぱいに花を咲かせ
美しい生命を燃やしている

山の辺の小さなすみれ草を
ゆかしと詠んだ俳人もある
ふだん通り過ぎる足元の花も
それぞれの名前を知っていたら
一層ゆかしさが増すだろう

名を知らない雑草たちよ、許せ
君らを雑草と呼ぶ失礼を
そして知ってほしい

一括りの名前で呼んだからといって
決して侮っているわけではない
君らのその粘り強い生命力に
憧れてさえいたのだ

じつは
僕もその雑草なんだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もうひとつ ◎「ふたり」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「見たくない。チャンネルをかえて……」
と妻は目をそむける
(この時間帯はどこも同じなのに)
わたしは目を離さないで見つづける

荒れ果てて空までかわいたアフガン
爆弾が大地を飛沫の如く噴き上げる
砂塵のなかに生まれ さまよう
無数の難民の埃にまみれた顔、顔、顔……
抱かれた子供のあどけない瞳の底に
降り積もってゆくものは何だろうか

妻もわたしも かっては戦争の重圧の下で
それぞれの青春を傷つけ葬ってきた
あれから五十六年 長い時間に洗われて
癒されたはずのたましいが
今この映像を前にすると張り裂けて
赤い血を噴いて慟哭する

宇宙でただ一つ 生命を育んでいるという
この優しい小さな星の
一瞬にして崩れ去る平和の脆さよ

一人は心が痛むから見ないと言い
一人は心を痛めながら見つづける
はるばると傷を抱いて来たふたりが
難民たちといっしょにさまよっている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

50篇の詩が収められた最後に「あとがき」が1ページ。
そして最後のページには
大野悠というペンネームのほかに本名で1行。
1929年 大分市生まれで2行
そして3行目には大分県詩人協会所属とあり、
4行目にはご自身の住所が記されているだけ。

略歴もプロフィルもないたった4行がその人をあらわすように並んでいます。


「くじけないで」 柴田トヨさんの詩集

2010年12月09日 | 本など


70万部のベストセラーだという柴田トヨさんの「くじけないで」の詩集。
先日ちらっとテレビ画面に映っていたトヨさん、99歳、きれいな方でした。

90歳になって詩を書き始めたというトヨさんの詩と人生。
トヨさんの好きなテレビ番組は「家政婦は見た!」。歌謡曲が大好きで、夢のひとつは同郷の作曲家、船村徹に詩集を読んでもらうこと、などが紹介されていました。

その「くじけないで」が届きました。
詩の紹介はさておき、いいなあ!!何だかスキッとしていて、潔くて。
私もこれから、堂々と自分の好きなことを語って行きたい。

世の中には、大上段にやさしいことまで難しく語っている人の何と多いことでしょう。
先日のカウンセリングのとき、F氏に、「ある友人のブログを読むと、なぜか決まって胸が苦しくなるんです」と伝えると、F氏は、「それはその人が苦しんでいるから、あなたが苦しく感じるんです。私もホームページを開いただけで苦しさを感じ、閉じてしまうページはありますよ」と。
優しい言葉でやさしく語ることそれ自体が優しさだと思っている私。
「人のふり見て、我がふり直せ」ですが、よい勉強になります。

トヨさんのように力を抜いて、真面目にひたすらに生きていけたらいいな。
好きなものが歌謡曲なんて、奮っているなあ。そしてそのトヨさんの詩がベストセラーになるなんて、なんて素敵なことでしょう!!!

「金風吹き抜ける街」(室井忠道著)

2010年12月04日 | 本など



室井さんが7冊目の本を出されました。
「金風吹き抜ける街」(ON・BOOK/2000円)は12月10日発売。店頭に並ぶ前に一足早く届けて下さったもので、室井さんは40年間続けられた金融のお仕事を今年10月で閉じられたことが別添えの一筆箋に手書きで記されていました。
数年前からその準備に入られたことはお聞きしていましたが、室井さん、ほんとうに長い間お疲れさまでした。そのお知らせとともに新しい本を上梓されるなんて、室井さんらしい演出に舌を巻いているひとりです。

室井さんのホームページは→★
室井さんのことを書いたこのブログの過去の関連記事はこちら→☆
(ちょっと支離滅裂な部分もあり、過去記事を紹介するのは恥ずかしいけれど、お暇なときにお目通し下さい)。

銀座の室井さんのオフィスでかって室井さんとお話ししていたとき、室井さんが関わられた方で、都内でも有数の資産を持っていた人のことをお聞きしたことがあります。要は億万長者さんのことで、私が「その方は今、どんなふうにお暮らしですか?」と訊ねると、室井さんは間髪をいれず、「最後はホームレスになって死にました」と答えられました。
ああ、お金ってそんなものなんだあ……と、漠然と思った私。
そしてそれを想わせる内容もこの本の中にはちらほら。
私には縁遠かった、しかし巷では漏れ聞くお金にまつわる世界の話しに思わず引き込まれて行きます。

今度の本は、フィクションを交えながら書いたと記されていますが、昭和37年からバブル崩壊後の平成10年あたりまでの金融業者としての40年が書かれていて、読んで行くとほんとに面白いのです。同時代を生き、取り巻いた人々とともに、熱血感室井さんの思想信条や情熱、仕事人としての覚悟などが随所につづられ、どんどんページが繰られていきます。

室井さんは「エスパース」というリサイクルブティックを奥さまとともに銀座の「松屋」のそばで開いているので、近いうちにまた訪ねてみようと思います。


『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹著)

2010年11月30日 | 本など
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』1、2巻をようやく読み終わりました。
あとは3巻を読むばかり。
付箋を貼らないで、純粋に読書を楽しむという決意をして、読んだ最初の本がこの本です。
良い本に巡り合えたことに喝采、感謝です。

順番に読み進み、どこを開いても小説でありながら珠玉の言葉の数々。それらを静かにやり過ごしながらただひたすら活字を追って行くことの歓びと楽しさと深さ。
いまだからこそ、この本が面白いと言えるかもしれないと、遅れて来た私の読書の世界の楽しみに浸っています。

本の内容や感想をだれに説明する必要もない解放感。
あえて言えば、自分が納得し、共感し、不思議がり、ときには物語りが錯綜し理解不能になることがあっても、それらすべてが著者が読者に仕掛けた出来ごとであり、著者の思いや計算をはるかに超えるものかもしれないと感覚で知って行くワクワク感。理屈でもなく言葉でもなく理論でもなく評論でもなく、右脳にストレートに働きかける快感。書き手と読み手の際限のないコラボレーションが書かれている言葉を通して、毛穴からジワジワと沁み込むように、です。
登場人物のある場面では主人公その人になったり、また別の場面では主人公をとりまく脇の人になったり、自分の生と自分の過去や今と重ね合わせることの幾重にも練り上げられた数々の場面をあるときはヒョイヒョイと潜り抜け、あるときはドキリとし立ち止まり、あるときは感傷に浸るよろこび。

本を読んでいるその時間をどれだけ楽しめるかが読書の醍醐味と言った方がいましたっけ。
本当にその通りです。
あらすじなんて説明できないし、あらすじの底に沈んだものの大きさに気づいた時、まるで説明できないけれど涙をこぼしてしまった音楽ホールでのコンサートのときのような思いだけが残ります。
『生(なま)』というキーワードが読書そのものにも在ると自覚した「ねじまき鳥クロニクル」の、3巻を今夜からまたゆっくりと読み始めることにいたしましょう。

「ねじまき鳥さん」、よろしくね!!