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ちあの散歩道

輝いてアラカンヌ☆ありがとうの言葉を添えて暮らしのドアをそっと開けると今日も豊かな感動と新しい気づきが待っています。

エッセィ 「勝負」

2010年10月17日 | 雑文
エッセイ教室に通っていた時の添削が時を経て戻ってきました。
そのときの課題は「勝負」でした。ときまさに冬季オリンピックの真っ最中。

私が書いたエッセィとは、

~~~(提出時のまま 20100310提出)~~

 
 バンクーバー冬季オリンピックが終わった。

普段はスポーツもスポーツ観戦もあまりしないけれど女子フィギアのテレビ中継には魅入ってしまった。それぞれの競技における技とは別の物語があり、野次馬的にそれらを知ることにより興味がわいてくるものもある。スノボの国母選手の服装問題では国を代表して選ばれた者の責務について語られた。 多様な見方があり賛否両論がある。
 私の観た「女子フィギア」にも韓国のキムヨナ選手、浅田真央ちゃん、それにカナダのロシェット選手と金銀銅メダル獲得ゆえに秘められた物語が噴出した。
 キムヨナ選手と浅田真央ちゃんは同じ19歳。オリンピック史上初の高得点をマークしたふたりの選手は甲乙つけ難いし、本当に立派で、私自身の19歳の時を思わず振り返ると彼女たちの度胸とコメントの素晴らしさそれだけを見ても同じ人間とは思えないほどである。ロシェット選手は直前の母の突然死を乗り越えてのメダル獲得で世界一を極めるということの凄さがひしひしと伝わり、衿を正しひれ伏す思いだった。メンタル面でも年の功はとても及ばない。
 ところで、キムヨナと真央ちゃん、どこがどう違ったのか。
 競技の採点方法についてはよく知らないけれど、ふたりとも遜色ない展開ぶり。キムヨナは「艶技」で勝ったと言った人がいたけれど私もそう思う。その艶技に加担したのがふたりの衣装の違いである。真央ちゃんのコスチュームとキムヨナのそれとをチェンジして氷上で舞わせたらとつい思ってしまった。取り巻いている人のセンスが出たのか、真央ちゃん自身がフリルやレースのいっぱいついた肌を露出しない衣装を好んだのかどちらかだろうと思った。
 むかし結婚式場でアルバイトをしていたとき、晴れ着を着て集う人々を日々観ていた。着飾りドレスアップする結婚式、中には花嫁の母など黒留袖を着て頭に花飾りを付ける人まで現れた。そんな中、素敵だなと思う人は上質な素材を使ったただただシンプルな仕立てのいい黒や紺、紫などのワンピースなどをすっと着こなしている清楚な佇まいの人たちであり大勢の中で逆によく目立っていた。腰が二重に曲がったような高齢のお祖母ちゃんの裾模様に金色の松葉が数枚散らされたような黒留袖の美しい姿にも見惚れた。着飾りのオンパレードとも言える晴れの場、ついついコサージもネックレスもイヤリングも髪飾りもと付けたくなるのは女としてわからなくはないけれどそこをぐっと抑えてと何度式場の人たちを観ながら思ったことか。
 高度でシャープな演技と切れのいい衣装で勝ったキムヨナ。それが「艶技」という言葉を生んだ。キムヨナと真央ちゃんが表彰台に並んだ時体型も背丈もほとんど変わらない中、キムヨナの目力にも吸引された。アジアが金銀を取りふたりの乙女たちが育ったお国柄に想いを馳せたとき、競技の面でも経済面でも世界の中でも韓国の台頭と日本の現状に時代がここでも移り変わっていることを痛切に感じ、勝負あったと思った。厳しさの中でこそ育ってくるものがあるのだろうか。
 アジアの大国として君臨してきた日本人のひとりとしてこれから日本はどうあるべきかということにも思いが及んだ。勝てばいいとも負ければいいとも思わない。勝つ時もあり負ける時もある。戦う過激さの中にも平和に美しくあればいいと思うのは私のつつましくも平々安穏と暮らす日々から来る志向かしら。そしてそこからは何事においてもほんとの勝者は生まれないのかも知れない。

~~~

先生の評は

 「冬の五輪それも女子フィギアの一線から『日本はどうあるべきか』に到る。いや、いけないというのではありません。むしろ「いい」のです。「小事を扱って大事を語る」。これこそエッセィ文学の粋、といってもいいのです。枝葉末節から大木を見る、でもあります。まさに勝負の本道「小よく大を制す」ですね。日韓二人の少女の“艶”を論ずることで読者を誘い。しかも結婚式での晴れ着の優劣で考えさせる。こうした一種のウワサ話的トーンがあるからこそ、「アジアの大国として君臨してきた」なんて、ムツかで理屈っぽい論に入れるわけです。
 ところで1ページ3行に「テレビ中継」とありますが、「テレビ」をつける必要はないでしょう。「フィギアの中継には」がいいですね。スラリとします。つづく「魅入ってしまった」と「見入って」のシャレでしょうが、通常「魅いる」は「魅入られて……」となりますよ。
 2ページ6,7行の「衿を正してひれ伏す思いだった」は、とても面白い表現の使い方ですね。「わざとオーバー」というのもエッセィのひとつの工夫なのです。」

今季の教室にあまり出席できなかった私のもとへ、まるでタイムスリップしたような忘れ去られていた過去の文が舞い戻って来た次第。ほめられているのかけなされているのか??オオ~~ハズカシイが正直な感想です。

先生の評を読みながら、まだまだ学ばなければならない、知っておかなければいけないことがたくさんあるなあと思いました。今度は通信講座を受けようかな……。


2009年の終わりに~☆~

2009年12月31日 | 雑文



今年もたくさんの出会いがありました。
そして、語りつくせないほどの教えや学びをいただきました。
齢を経るごとに、人生が凝縮された人たちと出会い、私にとって本当に大切なことは何なのかをあるときは突きつけられ、あるときはその中から救いのカミサマがピョンと立ち顕れて軽やかな気分に導かれました。

 

今、思うことは、できるだけ自然のリズムに寄り添って生きたいということです。

熱田家の野菜との出会いと、野菜とともに届けられる熱田さんの「農民通信」は、私の暮らしをいっそう見直すよい手引きとなってくれました。

11月に旅をした「沖縄久高島」。何もない久高島にこそ、こんなに豊饒なものがあるという驚きと感動。
海の煌めきと海水の塩っぱさにダイレクトに私の身体が反応し、ゆるぎない芯(心、真、信、深、森、神、清、親、新、津などなど)への源となりました。

長野のイエルカ家での晩秋の3泊4日は、生活の場での、言い尽くせないほどの「豊かに生きる」とはどういうことかを、大自然に融け込みモノづくりに勤しむご夫妻の後ろ姿から教わりました。
来年雪解けのころ、またおじゃまします。



さして変化のない普段の暮らしの中にこそ、大切な宝物がいっぱい詰まっていると知り得た時、まるで波にたゆたうようにすべておまかせの境地の入口に立てた1年でした。

これからは、静かに静かに、私自身にときめきながら生きて行きたいという願い。
私の周辺には、何と多くの素敵な方々が私を支えて下さっていることかという感謝。
皆さま、今年も一年間このブログにお付き合い下さいましてありがとうございました。

~☆~平和で穏やかな2010年が訪れますように~☆~


雑…談…も含めて、雑の中にこそ。

2009年12月26日 | 雑文


知人と打ち合わせをするために日暮里へ。
相手の語る言葉を拾いながら、前奏を楽しむようにゆるやかに会話が盛り上がって行きました。
本題ともいえる部分を差し挟みながら、雑談もたっぷり。

雑談ってやっぱりおもしろ~い。

山のように無駄なことをしながら……それには無駄な時間を使ったり、無駄なお金を使ったり、無駄な神経を使ったりとほとんど無駄と言えるようなことを今日まで毎日毎日繰り返し行いながら、(それは私の場合ですが)、それぞれが生きてきてたどり着いた境地の確認のような、今までの“無駄”がすべて無駄でないものと表裏で差し迫ってくることの真実を知ってしまった私たちは、無駄の中にこそ宝物が落ちていると、そんなとりとめのない、しかしとても満ち足りた会話を交わすことができて、5時間があっという間に過ぎました。

私が知人に向かいポロリと親しい人の名前を出したら、何と二人は長く同業者としてつながっていたという信じられないような事実もあって、「えっ~、どうして知っているんですか?その人のこと」と双方がびっくりということもあり、やっぱり世の中狭いことも実感。

これからは、ほんとうに必要な人たちだけが求めあいつながって行くようですね。
そしてますます自然体になって行く私。


荷物は少なく~

2009年11月13日 | 雑文


旅先に持って行く荷物の量。日頃持ち歩くバックの中身と大きさ。
人生そのものが旅だとしたら、持ち歩く荷物は少ない方がいいですね。
持ち歩いている荷物の大きさは、どこかしらその人を象徴しているように思います。

信頼出来るリフォーム会社の人と会ったときの言葉。
「どこの家もモノ(荷物)でいっぱいですよ!あまりにモノが多くて、そういう人に限って収納を増やしてほしいといいます。そんなときはまず今あるモノを整理して片づけてから相談してくださいとリフォームを断る場合もあります。収納を増やしても同じですからすぐ散らかりますよ。とにかく凄いですよ。」と。

「めがね」「かもめ食堂」と続けて観たDVD。同じ監督作品です。
出演者もダブり、そこに登場する旅人の女性が持つスーツケースが何か象徴的で意味ありげです。
「めがね」では、宿の男性に「その中に何がはいっているんですか?」と訊かれ、「かもめ食堂」では、ヘルシンキに着いた旅人のスーツケースが不着で数日間小さなショルダーバックの他は着の身着のまま状態で過ごすことに。

私も去年の旅でスーツケースが3日間出てこなかった経験をしました。
あったほうがいいけれど、無くても過ごせるものなのだとそのとき実感。多くの気づきがあり、その出来事は何かの啓示のようでした。

少ない「荷物」で軽やかに楽しめることの方が、たくさんのモノに囲まれて過ごすより私の場合は快適だなと思います。

もしかしたら、人間関係もそうかもしれないね、とは友人と話した末の共通認識。
取り囲んでくれている人がどんなに多くても襲い来る孤独。
森繁久弥さんの追悼番組で、晩年の対談の中、萩原朔太郎の「利根川のほとりで」を口ずさみながら老いの寂しさを語っていました。
みんなさびしいんですね……。寂しいことは人として当たり前のこと。
孤独と真正直に向き合える人こそが、かっこいい大人といえるのかもしれませんね。

●利根川のほとり

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。





やさしいことばで

2009年08月05日 | 雑文



8月になって「裁判員制度」導入が始まり、各方面で記事として大きく扱われています。
ニュースでは、裁判官や検事、弁護士の方々が一様に、「専門用語ではなく、一般の人にわかりやすい言葉を使って裁判を進めたい」と話していました。これらは特別のことではなく当たり前のことですね。やさしい言葉を使ったからと言って、案件の品格が落ちたり、内容が希薄になるものではありません。

(私の知人の中にはこの「裁判員」に選ばれた方がふたりもいて、そのうちのひとりは「めったにないことなので宝くじも買ってみたけど外れた」などと話題を振りましていました。)

だれにでもわかりやすくやさしい言葉を使うというのは裁判員制度だけではなくどんな場面でもとても大切なことだと思います。

もうずいぶん前、友人に「編集の仕事をしている」という人がいました。
彼女と会って話すと、やたら専門用語なのか編集用語なのかわからないカタカナ言葉(横文字)が出てきて、その都度、私はちんぷんかんぷんでポカンと相手の顔を眺めたものでした。
なぜこの人は日本語を使って話さないのだろう?もしかしたら、日本語を知らないのではないかしら?……と。……そんなことはもちろんありません。
きっと今ごろになってその人は、「その当時の私って恥ずかしいなあ。ずいぶん背伸びをして知ったかぶりをしていたな」と思っているかも知れませんネ。

また、「カウンセリング依存症」という言葉も最近はよく耳にしますが、その方面の方たちは、今度はめったやたらにカウンセリング用語を使って話しを進めます。カウンセリング用語を使う方が会話が楽なのでしょうが、きっと「先生」の影響なのでしょう。悩んだり葛藤したりすることを、普通の言葉に置き換えて、要は専門用語の上滑りではない自分の言葉で表現し、会話をすれば、もっと話の内容に深く共感できるかもしれないのになと思うこともしばしばです。よしんば、専門を学んでいる過程であってもふだんの会話に心理学などの専門用語や業界用語の濫用はいただけませんね。
そういう言葉を使っている人をみると、どことなく独りよがりな感じが抜けません。

これらのことは、物知らずの私自身に言い聞かせていることでもあります。

井上ひさしさんの言葉にもあります。
「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことをおもしろく」

心情を吐露したり、豊かな会話を紡ぎ出すのに、むつかしい言葉は要らないと思います。わかりやすくやさしい言葉で感情を込めて話す率直な会話にはおのずと通じ合うものがあるのではないかと思います。



育ち、育てあうもの

2009年07月24日 | 雑文

 

若い頃は人見知りが強く、引っ込み思案な性格だと思っていたけれど、最近の私はどうやら「人間」が大好きなようです。
動けば動くほど違った世界の人たちとも出会うことになり、耳学問で得る情報も半端なものではなくなりました。
しかし、出会ってからが問題で、魅力ある素敵な人とご縁が出来た後は、よい関係を続けるために様々な努力を強いられることになります。
乾いた土に種をまいて草花を育てるときと同じように、水をやり、肥料をやり、お互いの成長を年月をかけて見守ります。水も肥料もやり過ぎては台なしです。よい関係を紡ぎ合うためには、ほどよい距離を保ちつつ、自分自身にも栄養補給が大切です。密着し過ぎて関係をおかしくしたりするのも「過ぎたるは及ばざるがごとし」に通じます。この距離の取り方がなかなか難しく、これまでにはたくさんの失敗もしてきました。しかし、しっかりと信頼し、育ち、育て合い、支え合える知人や友人たちにも恵まれました。

中には、そうやって大切に育てた人間関係にいとも簡単に割り込み、まるで自分が育てたようにふるまうヤカラもいます。そういう人に限って、自分の持っているネットワークやモノとの関わりを紹介したり分かち合おうとしない、いわばケチな人種に属するように思います。「人の褌で相撲をとる」厚顔無恥な人たち。タダのお酒は酔いつぶれるほど飲むけれど、自分のお金で飲むお酒はきちんと加減が出来る人。こんな人はそのうち徐々に馬脚をあらわします。
真逆の人もいます。
相手の立場を絶えず慮り、自分をきっちりと律することの出来る人たち。大人集団のそんな人の中にいると、自分の矜持も自ずと正されて行きます。

そして、私は信じています。
神様はきっとすべてを見ていらっしゃる、と。
昔の人は言いました。「損して得とれ」と。
「陰徳を積む」という言葉もあります。

水は高き所から低き所へ流れるように、そして、人の心やモノやお金は、まわる、まわる、ぐるぐるまわる、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるまわる。
ケチな考えをおこしてその流れを留まらせてはいけません。

今日も、少しの残念なことと、たくさんのよいことがいっぱいありました。
望む人と真っ直ぐに繋がる不思議。
皆さんに援けていただいている日々を実感しています。
めげずに、自分の根っこをもっともっと深く、もっともっと太くすることが、今の私の大きな課題です。


「愚妻」という謙譲語

2009年07月01日 | 雑文



男性の書いたエッセーやコラムなどを、新聞などで読むと、ときどき「愚妻」という言葉に出くわします。今朝の新聞にもありました。
たとえば、「我が愚妻は……」「今度愚妻を連れて行こうと思います」などなど。

「愚妻」を辞書で調べると、「自分の妻をへり下っていう言葉」とあります。
ご自分がへり下るのは勝手だけれど、妻までを自分の所有物のようにへり下させるのはどうかと思いますけれど。一昔前ならいざ知らず。
私もときどき、男性からの手紙やメールで「愚妻」と言う言葉に触れることがあり、その都度びっくりし、いまどき、時代錯誤のこんな言葉を安易に使わないで欲しいと思うことが多いです。

世の男性の皆様、手紙や文をしたためるときには、「愚妻」などと書かないで「妻は」とか「妻を」と、「妻」という言葉をさわやかにすっきりと使ってほしいなあと思います。
案外言葉とは裏腹に「愚妻」を使う男性諸氏は、照れ隠しや妻自慢をその裏に抱えているようにも思う微笑ましさがあります。それを差し引いても、やっぱり「愚妻」はいただけませんねぇ。


食べもの、大切に。

2009年06月23日 | 雑文
「セブンイレブン」の消費期限切れの食品廃棄についてのニュースが報じられていました。
それは、価格管理の問題でもあり、フランチャイズ方式の「セブンイレブン」では値引き販売は認められないということで、消費期限間近食品に対する価格を下げての見切り販売も許されないことによる加盟店と本部との相克に公取委が排除命令を出したというものです。

まだ食べられるものを棄てるようになったのはいつごろからのことでしょうか。
また、食べたい時にいつでも食べ物が簡単に手に入るようになったのはいつから?

いつのまにか、自分の五感を封印してしまい、食品に印字されている消費期限の数字を頼りにしている私たち。
そして、まだ食べられるのにと思いつつ、業界の定めた期限切れ食品を消費者の前から消し去っている業者たち。
食料自給率の低い日本の食生活を見直すよい機会だと思います。
大手流通組織による大量廃棄はもったいないし、なにより安易に棄てるということに対する精神の呵責というものがあるはずです。

安心安全なものを供給する責務のある業者と、それを選ぶ権利のある消費者たちの間でいつの間にかいびつになってしまった関係。
消費者である私たちも、自分の感性を磨き、自分の味覚や臭覚、触覚を信じて、自分の意志で自分の胃袋に入れるものを価格との相関も見ながら選び取りたいものです。私はあまりコンビニで食料を調達することはありませんが、それでも棄てられる食品の話を聞くにつけ、せつない思いを抱いていました。

望星」という雑誌に連載中の、フリーライター久島弘さんの書くコラム「ぼくは都会のロビンソン・ある『ビンボウ主義者』の生活と意見」を毎号楽しみに読んでいる私。
その久島さんの書いた記事中にあるのは、そうだそうだと膝を打つものも多く、食べ物に関する“とことん最後まで食べ切る”姿勢や技などには、ただただ唸るばかりで、その彼の姿勢からみると、コンビニの消費期限切れ食品など、それ以後何日も食べられそうと思ってしまうほどです。
ただし、それを貫くには、自分の五感を鍛え、磨き、知恵も必要なようですが。

ちなみに「久島弘」さんはネット上でも、「家計簿日記『貧困通信』」をウェブ上で公開しています。真似が出来たらいいなあと、私の憧れる存在者のひとりです。

食べ物、大事にしたいな……。
飽食の時代だと言われている今、食べ過ぎにご用心ですね。


打てば響くスピード

2009年06月20日 | 雑文
“打てば響く”という言葉があります。

たとえば手紙を書いて出すと、3日後には返事が来ている、
たとえばメールを送ると、出先からでもすばやく返信が来る……など、即断即決の先様の反応の速さに驚くことの多い日々です。

総じて、出来る人は速い!!と、そんな感じ。

私も、そんな凄い人たちに見習って、先日の「竜一忌」で撮った写真を何とか整理して、今日明日中には写っている人たちに送れそう、ちょっと時間が経ってしまいました。私はやっぱり鈍間かな。

私の知人の中でも、なんたって、早いのは、新潟の旗野さん。
100人以上の集まりを毎年企て、その参加者に3~4日後には手書きの礼状と写真の2~3枚が届くという神業をやってのけます。
それ以外でも、たまにこちらから出す手紙の返信も然り。すごいなあと尊敬の眼差しで眺めても、なかなか真似ができません。

もちろん、「竜一忌」の当事者である松下竜一氏こと「松下センセ」の返信の速さもすごかった!!
メールも携帯電話も持っていなかった松下センセ。手紙ってこんなに早く返事が届くものなのかと驚くことしきりでした。

そして「竜一忌」に今年も参加された、劇団「トム・プロジェクト」の代表岡田さんも猛スピードで返信が届きます。
参加者の脳外科医美馬さんも、メールの返信はほぼその日のうちに確実に届きます。
「竜一忌」主催者の梶原得三郎さんも、毎年必ずきっちり、参加者全員にお礼状が届きます。

これらの人たちにご縁をいただきながら、遅ればせながら何とか皆さんと歩調を合わせられるように努力中です。

「仕事は忙しい人に頼め!」という格言もありましたっけ。



五感の中の4つの感覚

2009年06月09日 | 雑文

五感とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の5つですね。
「五感を働かせて」などの言葉がありますが、五感のうちのひとつでも欠けたら人はどうなるのでしょう。

「全盲のピアニスト」辻井伸行さんが、「第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で優勝したというニュースが大きく報じられていました。
記事の中には、「ハンディがあるなしにかかわらず、健常者と同じ土俵で素晴らしい成績があげられた。完成された音楽家として本物として認められた」とあります。
辻井さん自身も「全盲の」という言葉を外して「ひとりのピアニスト」として音楽活動を続けたいと語っています。
辻井さんのピアノ曲「川のささやき」をネット上で視聴しましたが、繊細で美しいメロディは涙がこぼれそうで心の奥底に深く沁み込みます。Amazonでさっそく取り寄せることにしました。

五感のうちの視覚を失ったとしたら……。



3月下旬、“暗闇ワーク”として知られる「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を体験しました。
真っ暗闇の中を視覚障害者であるアテンドの案内で、様々な体験をしていくワークショップです。時間はおよそ90分くらいでしたか……。
ここでは、健常者と言われる私たちと、視覚に障害がある方たちが入れ替わるカタチになります。(世の中には視覚障害者など障害を持った方が少数と言うだけに過ぎませんが。数が多いゆえに健常者を中心に常に物事が進んで行きます)。

ダイアログ・イン・ザ・ダーク」のワークショップでは、どんなに目を見開いても、真っ暗闇で、視覚で現象を捉えることが出来ず、「視る」ということを手放さざるをえません。
アテンドの導きにより、設えられた森の中や川辺、家の茶の間、最後はバーなどにも立ち寄ります。
視覚を閉ざしたとき、あとの四感がフルに働きだすのを感じます。
移動のときに頼りになるのは、アテンドの声と、仲間の声、白杖、さらに足の裏の触感や風の向きや強さ、周辺に漂う匂いなどです。最後はバーで出されるビールや生ジュースなど、ここで匂いとともに味覚も楽しむことになります。

ワークが終わったときの新鮮な驚きは忘れることができません。
「視える」ということで、何とたくさんの大切なことを逆に感じることなく見過ごしていたかという驚きでした。

辻井さんは音に関して天才、神童の誉れ高かったことが伺えますが、ほかの視覚障害者の方も、きっと視えないがゆえに、視えている人がやり過ごすたくさんのことを感じていることと思います。

ときどき、目を閉じて、周りの音に集中し、風や空気の動きや匂いを真っ直ぐに感じる時間を持ちたいなと思います。