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ちあの散歩道

輝いてアラカンヌ☆ありがとうの言葉を添えて暮らしのドアをそっと開けると今日も豊かな感動と新しい気づきが待っています。

不思議なことがいっぱい

2007年10月11日 | Weblog

不思議なことがいっぱいあって、あり過ぎて。
そんなときは、しばらくはそっとあたためて消化して、興奮が冷め冷静になったときに。
それにしても「つながり」というのはほんとに不思議なカタチで目の前に顕れてくれるものなのですね。
巡り巡って思わぬところで、蒔いた種のことなどすっかり忘れてしまった頃に、ぽっと突然花が一輪、また一輪と目の前に咲き出すように、そんなふうにごほうびをいただくようなカタチで返ってくるのですね。この醍醐味はたまらない。
それはずっと探していたものに出会うための人を介しての情報だったり、人そのものの極上の出逢いだったり。思わず神様仏様に頭を垂れたりウインクしたくなったり。

毎日ブログを書こうとするとき、まず真っ先に思うのは読んで下さっている大勢の方々に支えられていることへの感謝です。
しかし、どんな方が読んで下さっているのかを私はさっぱり予測することが出来ません。ブログの入力画面を開くと一日のアクセス数がわかり、たくさんの方がわたしのブログを開いて下さっているのだなという驚きが先にあります。

さあ、今日は何を書こうかしら……と考えたとき、喜怒哀楽の一番、二番、三番くらいまでは不思議と書けないものなのだなあとつくづく思います。
そして、平坦でさりげなくてどちらでもいいような事柄をついつい選んでしまいます。それでも皆さまにおつきあいいただいて何とか書き続けることができています。本当にありがたくて、感謝の思いでいっぱいです。

今日も不思議でうれしいことがいっぱいあり過ぎて。
そして教えられたり学ばせていただくこともいっぱいあり過ぎて。
その縁(えにし)の不思議さにただただ驚いて。
そして一日が終わっていきます。


目が薄い

2007年10月10日 | Weblog

辞書で調べたら「目が薄い」という言葉が出てこないところをみると、これは方言だったのでしょうか。
私が子供の頃、祖母が針仕事をしながら「目が薄くなって、針(の穴)に糸が通らない」とよく嘆いているのをそばで遊びながら聞いて育ちました。

最近の私はまさに「目が薄くなった」状態で、こうなるとすっかり忘れていた「目が薄い」と言っていた祖母の言葉まで思い出してくるから不思議ですね。
今にして思えば祖母は今の私くらいの年齢だったのでしょうか。
本を読んでいたりすると、特に夕方から夜はだんだんぼんやりと視点が定まらなくなって字面が読みにくくなっていきます。一般にいう「かすみ目」状態ということでしょうか。そろそろ老眼鏡の準備をしなければならないのでしょうか。かすみ目は眼精疲労が原因だとか……。

秋になって日暮れが早くなった分、夜は落ち着いて読書が出来る季節ですが、夜なべや夜更かしをせずに自然に従って秋の夜長は早く休むことが健康にもいいのかもしれません。

早寝遅起きの私が数日前、朝4時過ぎに家を出て始発電車に乗るために駅に向かって歩いたことがありました。目覚めが悪くぼんやりゆっくりと歩きながら、空を見上げると漆黒の空に明けの明星がひときわ大きく輝き、その真上に横になった三日月がこれもくっきりと黄色い光を放っていました。そしてもっと目を凝らすと何と満天の星空が広がっていました。眠っている間にこんなに美しい星空が広がる日もあるのかと驚き感動しました。
深夜まで煌々と電気がつき、都会には闇が無くなっているとも言われていますが、早朝4時から5時位には都市でも私の知らないだけで晴れた日には美しい星空が広がっているのですね。
その日以来、毎朝早起きをしようとしているのですが、なかなかうまく行きません。まあ、目のためにはたっぷりの睡眠がいいのかもしれませんが。

(今日の写真は、周恩来記念館から2~3年前写した夕景です)


金木犀 つづき

2007年10月07日 | Weblog


今日は自転車に乗ってちょっとそこまで、と、そんな一日を過ごしました。

住宅地の中を通るとどこからともなく金木犀の香りが漂ってきました。
金木犀の花は地味で小さくて香りがなければそこにあることさえ気付かれないような目立たない花ですが、しっかりといい香りを出して私たちにその存在を知らせてくれます。
香りもよくて花姿も華麗とそんな花もたくさんあるけれど、私はどちらかというと地味で目立たないけれど何かひとつしっかりと主張する芯のある花が好きですね。



住宅地の中には一軒ぽつりと廃墟になっているところがあったり、街中にもひっそりとシャッターが閉まっている店があったりしますが、しかし花は主が居ても居なくても咲くべき時期にしっかりと咲いています。その生命感に思わず引き寄せられます。



穏やかなお天気に恵まれ、秋はいよいよ本番です。
“そうだ、明日は静岡県三嶋大社にある日本一の金木犀を観に行こう!”と思い、時刻表なども調べてみましたが、肝心の金木犀の開花はもう終わったとホームページにあり、がっかり。
この日本一の金木犀のことはずいぶん前に友人から聞いていたのに、今年もそのチャンスを逃してしまいました。この巨樹金木犀が咲くと周囲に香り立つその香りたるや2km四方にも及ぶとも聞いていました。やはり金木犀はその芳香を求めてが一番ですね。次の機会を待ちたいと思います。




金木犀の香り

2007年10月06日 | Weblog

路地の中を歩いていたら、鉢植えの金木犀がかすかな香りを放っていました。
金木犀の季節はもう終わってしまったと思っていた私は、少しうれしくなりました。

銀座のINAXギャラリーで行われている「石はきれい 石は不思議展」を観たり、銀座スペース5ギャラリーで行われている「路地の花Ⅱ 長谷川庸子写真展」を観たり、いくつかのギャラリーやスポットを巡り歩き疲れるほどでした。
たまに都内に出るとたくさんの刺激的なものに出会えてワクワクします。
足で歩くことの思わぬ発見に胸が躍りました。
小さな自分だけの楽しみを見つけて黙々と自分の世界を築いている人たちに出会うとホッとします。
今日から3連休が始まりましたが、よい季節の今は遠出をしないで身近な場所の散策を楽しみたいなと思います。


物々交換

2007年10月05日 | Weblog
最近、物々交換の楽しさにはまっています。
その場合の約束事は対価交換ではなく、処分したいモノがあるときに、それを欲しいという人と小さな話し合いをし、先方が、ではお礼にこれをもらって下さいと合意が出来たときに成立します。考え方の基本は双方とも不要なモノを処分するときがグッドタイミングです。

物々交換をすると、何だかとても豊かになったような気分になります。
片付けたいものが有効利用され、情報交換することによって探していたものが手に入ったりと思わぬ楽しさがあります。

先日観た映画「めがね」の中にも「あっ、これ私が考えている物々交換だ」と思うシーンがいくつかありました。
“出来ることを 出来る人が 出来るときに”と、これは私が勝手に思っているボランティアの定義ですが、物々交換も無理なく負担なくしかもモノを最後まで大切に扱えることはこのボランティアの定義ととても似ているように思います。

市場の論理では「モノが売れないと景気が回復しない」ということだそうですが、これだけたくさんのモノが巷にも家庭の中にもあふれている現在、全員ではなくても、もうモノは充分だヮ、と考える人がいても不都合はないのではと思います。
10年位前、東南アジアを旅行したとき、水を買うために雑貨店に立ち寄りましたが、商店の棚は物不足でスカスカでした。ほとんど売り物らしきものが見当たらなかった位です。
すべて昔の暮らしがよかったわけではなく、便利さは享受しながら、モノも少なくすっきりと片付いていた昔の家の清々しさを少しでも取り入れたいものです。
物々交換はモノとモノの他に、労力提供の代価や何かを教えてもらったときのお礼なども到来モノのおすそ分けなどで分かち合うことができたらいいなあと思います。



家の中で過ごす

2007年10月04日 | Weblog

誰にも会わないで一日家の中で過ごすと大好きな自分と向き合えます。
掃除をして、新聞を読んで、本を読んで、DVDをかけて自力整体をしてとこれだけでもうお昼です。
午後からも同じようなことを繰り返すだけであっという間に一日が終わってしまいます。
今日は、夕方ベランダの花の水遣りをしているときに西の空が赤く染まって、雲に隠れた太陽が下界を照らしていました。しばし水遣りの手を止めて見とれました。みるみる雲の中から真ん丸い姿をあらわした太陽は地平に向かって一気に落ちて行きました。

この数日のお天気で房総ではソメイヨシノが開花したとか。この季節に咲く十月桜ではなくソメイヨシノときいてびっくりしました。
夕刊トップページには、ミャンマー反政府デモ取材中に亡くなったジャーナリスト長井健司さんのひつぎが大写しになっていました。
四角い板に乗せられ、掛けられたピンクの布の上からたくさんのロープで縛られ、「SECURITY」の文字が貼られています。
「成田へ無言の帰国」と見出しがあり、成田空港へ到着し貨物室から降ろされた長井さんのひつぎの写真を見て、私はこんな悲しい写真は見たことがないと思いました。花束が手向けられているとはいえ、ぐるぐる巻きにロープで巻きつけられたひつぎは不条理の死を遂げた死者の無念の叫び声が中から聞こえてくるようでした。

静かに家の中で過ごすことのできるぜいたく時間に「ああ、うれしいな」「ああ、うれしいな」と何度もひとりでつぶやきながら一日が猛スピードで終わります。


プランターのバラ、そしてバラ園のバラ

2007年10月01日 | Weblog

出かけた先の路地に置かれていたプランターにバラが一輪咲いていました。
バラは花の女王だと思っていましたが、どんな環境にあっても美しい花を咲かせることが出来るのはさすがですね。

“秋の薔薇”の美しい季節です。
「神代植物公園」のバラ園には274種、約5,100株のバラがあるそうです。
きっときっと壮観でしょうね。神代植物公園は薔薇の季節に訪ねてみたいとずっと思い続けている公園です。

布のチカラ

2007年09月30日 | Weblog

今日は、部屋の設えを少し変えたいという友人と話しました。
これから家具を買い換えたりする予定もない中での「部屋作り」に威力を発揮するのは“布”ではないかと私は思っています。

様々な表情を持った一枚の布の魅力に惹き込まれています。
昔からある風呂敷や日本手ぬぐいなどの活用も最近は雑誌や新聞で採り上げられています。色や柄行も今風にデザインされ、“MOTTAINAI”を実践する現在の暮らしにマッチしたものとして注目を集めています。

部屋のイメージを変えたいときに最も手軽に出来るものは“布を配す”ということかも知れません。
その場合の布は、ウールやシルク、麻や木綿などの天然繊維で、必要であれば天然染料で染められたものがいいですね。
東南アジアの少数民族のアンティークの祭礼布やスカートなどはその美しさにため息が出るほどです。少々色あせていても破れていても長い間大切に使い込まれてきた良さは新品にはない味わいがあります。アフリカの草ビロードやラフィア、東南アジアのアンティークキリムなども日本の暮らしによく合うと思います。
また、これからの季節、ブランケットも兼ねる落ち着いたブラウンやベージュなどのウールの布を椅子に添えるだけでもうんと温もりのある部屋作りが出来ます。

今日のこの涼しさに誘われて、私もちょっと秋の色をプラスして楽しみました。
壁やドアに掛けたり、床に敷いたり、布は場所もとらず折り畳んでしまうことも出来、また身に纏ったりも出来て私のお気に入りです。足したり引いたりも簡単に出来ます。

暑さも一段落。しかし、夏物を完全にしまうのはまだ早いとか。
地球が微熱を出し続けているのかと温暖化が心配になります。

エネルギー補給

2007年09月29日 | Weblog

ちょっと忙しい日が続くと、たちまちのうちにエネルギー不足を感じます。
私にとってのエネルギー補給は、自然の中に身を浸すことです。
(写真は、数年前に小豆島を旅したときに写した「宝生寺のシンパク」です。国の天然記念物に指定されている巨樹です)

数日前、久しぶりに友人から携帯メールが届きました。
「今、小淵沢の友人の別荘からメールをしています。朝日が木々からこぼれ落ちて、ゆったりとした時をひとり過ごしています。術後2年になり、今のところ平癒しています。静養と自立自活を兼ねて28日までいます。料理にチャレンジしたり、清里や柳生倶楽部、美術館などを巡っています。」とありました。
メールを読んで、ああ、いい生き方をしているのだなあとうれしくなりました。
友人は、健康診断で突然胃がんがみつかり、胃の全摘手術をしたサークルの仲間で、私も彼もその後サークルをやめ、疎遠になっていました。
きっとたくさんの葛藤があったことと思います。
メールを見て「ああ、もう2年経ったんだ」と思いました。
サラリーマンだった人で70歳を超えている人ですが、料理にチャレンジしたりとあり、前向きな姿勢が感じられて立派立派と思いました。

セラピストの人から聞いた話では、特に男性の猛烈サラリーマン氏や熱血自営業の人などは、健康なときは仕事に夢中で他のことがまったく目に入らず、病気になって死が視野に入って来たときに初めて道端に咲く花の美しさや健気さ、空の青さ、朝日の神々しさ、星の煌めきなどの自然の中で生かされていることに視点が移り、なぜもっと元気なときにこのことに気付かなかったのかとがく然とする人が多いそうです。そしてそこから何か大切なものに気付いた人たちは再出発をして行く、と、そんな話の内容でした。

メールの最後に「その後の生き方をみつけましたか?」と、私のことを気遣ってくれ、年上の人に向かって言う言葉ではないかもしれませんが、ずいぶん成長したんだなあと何だかほんとにうれしく思いました。

表に出るか出ないかだけで、たくさんの出来事や葛藤を乗り越えながら、みんな一生懸命自分と闘いながら前向きに生きているのですね。
私も日々、自分の無能さと向き合う日々ですが、自分で自分を責めるだけでなく時には慈しみ優しい声を自分に向かってかけてあげるのもいいなあと思っています。
「よく頑張っているね」と。



机まわり

2007年09月26日 | Weblog

机周りには、様々なものがあります。
出来るだけスッキリと片付いている状態をと思いますが、なかなか思うように行きません。
机周りは効率優先ですが、そんな中にも眺めてうっとりするのはいくつかのペーパーウェート(文鎮・私はずっとペーパーウエストだとばかり思っていました。恥ずかしいですね)。
その文鎮のいくつかはやっぱり私の大切なタカラモノ。ちゃんと“紙押さえ”としての用を果たしながら、“美しさ”にもほれぼれ。
今日の写真は、身長5、5㌢のピエロの磁石付きペーパーウェート。
パソコンから目をそらしてフッと脇に目をやるとこのピエロがスチールの資料ケースの上で踊っていて、安定感抜群。前の白い十字はタイルの画鋲ですからほんとに小さいピエロくんですが、気持ちも和みます。

ギャラリーなどに行くと、芳名帳のそばにいいなあと思うペーパーウェートがいくつか無作為に置かれていて「これ、売り物ですか?」と訊くと、たいてい「いえいえ」という答えが返ってきてがっかりすることもあります。   

ペーパーウェートをペーパーウエストと間違ったことはほんとに恥ずかしくて、安易に横文字を使うのはやめようと反省しましたが、間違いに気付くことも大切で、誰かに指摘されないと気付かないこともたくさんあります。
「悪天候」を「悪天皇」と間違った人がいましたが、これなどもほんとにお気の毒ですね。なんだか、間違った人の反省や悔しさや情けなさが見えるようです。

今日も、こんなことがありました。
「たとえば、会社がハジョウしたり、今はハジョウするところが多いですね」と、話した人がいました。
私は、一度ならず二度続けてその人が「ハジョウ」と言ったことに「???」、きっと「破綻」の間違いなのだろうなと思いました。あとで、そっと伝えてあげようかなと思いましたが、勇気がなくてやめました。それに「破綻」が「ハジョウ」でもその人の前後の言葉から意味は伝わっていますから、大差なし、そんな感じ。
ハジョウと言った人はみるからにジェントルマン。きっと、覚えるときに「破綻」を「ハジョウ」と覚えてしまったのでしょうね。まあ、読めなくもないし。こんな間違いって案外自分の中にもたくさんあるのかもしれません。

思いついたらすぐに口に出してしまう私。しかし、きのういただいた「整心セミナー語録集」の中に「自分の伝えたい大事なことは、すぐに言わずに一晩寝かせてみよう」というのがあって、なるほど、そうだなあとそんな気持ちも作用したのかもしれません。