今日は朝から出かけました。
手作りのお弁当を持ってでましたが、駅のカフェに朝寄ったときに忘れてしまったのか、お昼になって荷物を探したものの見つからず外食しました。
「何だか今日は変なんです」と仲間に言うと、「気圧の関係ですか?」と訊かれ、「そうそう」と答えました。
朝からふわふわと宙を歩いているような不思議な感覚で脳と身体が乖離したような感じで一日の大半を過ごしましたが(まあ、いつも多かれ少なかれそんな感じかも知れませんが)、夕方4時過ぎ、今度は会の主催者から「台風が来ているので早く帰って下さい!!」と急きたてられ、レポートも出さずに会場を後にしました。本当は5時までの予定が4時過ぎに会がお開きになり、その足で西千葉の「ぎやまん亭」に行きました。
秋田余目の方々12名がバスで西千葉「ぎやまん亭」に来られました。
ちょうど台風の接近と鉢合わせになりましたが、余目の皆さまは無事に西千葉に到着、懐かしい再会を果たしました。
午後5時過ぎから9時頃まで歓談し、私は琉球の宮古島の古酒泡盛を密かに持ち込み、焼酎を所望されたお客様に飲んでいただき、「美味しい!!」とお墨付きをいただきました。テーブルにはぎやまんご夫妻の心づくしの手料理が並びました。
秋田県大仙市余目地区には、魅力がいっぱいあります。
その第一番に上げることができるのは人の魅力です。
そしてホタル・花火・ビオトープ・美味しい食材・高寺山神社と参道の土の道・湧き出る清水・村に咲く山百合の花・地蔵盆などの伝統行事など上げればキリがないほどです。
そのどれもが田舎育ちの私には懐かしく失ってしまいつつある日本の原風景を感じます。
都市に住む私には、余目の方と再会しても何も差し上げるモノを持ち合わせない無力感を心の片隅に感じますが、それを乗り越えてこれから細く長くしっかりとしたいい絆を結び続けて行きたいと願っています。
余目の皆さまをお送りして、ぎやまん亭で宴の後の後片付けを手伝い、外に出てみると雨も上がり、台風はいつの間にか過ぎ去り、空を見上げると雲の間から真ん丸いお月様が見えました。月齢では昨日が満月のようでした。
(写真は、28日お昼過ぎのスナップ。余目の皆さまを中心に西千葉出発を前にして)
朝から雨が降り続いた一日です。
どこにも出かけずに、家で静かに過ごしました。
久しぶりに藤原新也氏の「メメント・モリ」を本箱から取り出し、読みました。
写真集のような、詩集のようなこの1冊は、今日のお天気と私の気分にぴったりの読み物でした。
「メメント・モリ」の中の1節。
「道をたずねた。
老婆は答えた。
上さまに行けば山、
下さまに行けば海。
どちらに行けば極楽でしょう。
どちらさまも天国、
どちらさまも地獄。
世界はあんたの思った通りになる。」
本箱の本を減らしたいと見回すけれど、これも取って置きたい、あれも取って置きたいと思うものばかりで。
先日訪ねた古本屋さんで「日本景 伊勢」(藤原新也写真集)を買ったので、私の持っている本を6冊持ち込んだら、2200円で買い取ってくれました。
読んでしまったからと、本ばかりはそんな尺度で処分することが出来ず、また古本屋さんが扱っている本の種類や質を思うと何でも持ち込めばいいというものでもなく、持ち込みたい本と取って置きたい本が一緒とそんな感じです。
処分する本を探しながら、「メメント・モリ」を読み、また本箱に収めました。
何だか違う……、ちょっと違う……と、こんな感覚を抱くことも多くて。
そんなときは立ち止まりますがよく考えて、違うと感じる自分の感覚を大切にして整理をし、また前に進みます。
相手や物事との関係に時間的なあるいは物理的な距離を置いたり、離れたりして自分の感情を大切にします。
新聞を読んでいたら「いつも優しいのは 本当は優しくないのだ」というタイトルの記事がありました。(10月24日付毎日新聞)。
一部を引用すると、 “……親が子を、あるいは夫(妻)が妻(夫)を、さらに先生が生徒を、上役が部下を「正しい」タイミングで叱り、節度を教えるのは実にむつかしい。その理由ははっきりしている。叱るよりも優しくしているほうがはるかに楽だからである。” “心から発する怒りの感情を理性的にコントロールして怒るのは難しく、こんなことができるのは、イエスかブッダしかいないだろう。だからといって、叱るのをネグレクトすると、その報いは自分に降りかかってくるだけでなく、最終的には相手にも及ぶことになる”とあり、なかなか読み応えがありました。
私の周りにも1オクターブも2オクターブもハイテンションの笑顔が印象に残っている人がいますが、疲れないのかしらと考えます。
感情を大切にしたら楽しい時には楽しそうにに、辛い時には辛そうになり、正直に素直に自分を出せばこそその魅力がその人の個性となって醸し出されるはずなのにと思います。(もっとも辛いことを話すときにニコニコ笑いながら話す人もいます。それを指摘すると当事者は自分の笑いに気付いていないこともあります。)
嫌なことを嫌といえずに、またその底に潜む自分の感情を封印し気付こうとも見ようともしない人が多いなあと思います。
退屈や寂しさを紛らわすかのような仲良し倶楽部が世の中にはあちらにもこちらにもまん延していますが、そしてそれにはビジネスやそれにまつわる多少の利害が絡んでいたりして、それらをみているとちょっと心が痛みますね。
そして妥協してでもそれらを受容し、そのちょっと違うなと思う中に入る度量も勇気もない自分自身にも少なからず心が痛みますが。
でもやはりわが道を行くで、それと引き換えに孤独に耐えうる、そして孤独を楽しめる自分自身になりたいと思います。
ひとりひとりが自立と自律の世界では、なにもそんなにつるまなくても瞬間瞬間の一期一会のいい関係が出来てくるのにと考えるのは私の思い違いでしょうか。
私のデスクの前にはもしかしたら相反するかもしれないふたつのメモが貼ってあります。
「二人して同じ道を歩むな 犀の角のように ただ独り歩め」(ブッダ)
「考え方や感情を変えれば環境もそれに反応して変わります。それ以外のパターンはありません」(田所正敏)
迷える子羊なら可愛くていいのですが、私は狂える婆女(ババジョ)にならぬよう用心が必要です。
今日のような日は台所やトイレの掃除に少し時間をかけて。
『出口』『入口』ですね。出口と入口さえ整っていれば他は自ずと整うのでしょう。
そしてせめてこの部分だけでも言行一致でと自らに言い聞かせています。
送られてきた情報誌をめくっていたら「無功徳」という言葉に出合いました。
内容はこんな感じです。
茶の湯をたしなんでいる人が禅僧に「禅をやっていて何かよいことがありますか」と訊くと、そのときに返ってきた言葉は『無功徳』。簡単にいえば『何の見返りもない』ことを意味する。」とありました。
この言葉の意味は深くて、イメージとしてはつかめても噛み砕いて他の言葉に置き換えることは今の私には出来ませんが、この言葉を知って、ああそうなんだ、それでいいんだと何か心の奥の方で大きく気持ちが揺さぶられ安堵したのは確かです。
昨日会った黒田さんの話を知人にすると、ホイトはコジキとコツジキに分かれ、コジキは本当の乞食、コツジキは修行僧が物乞いをする乞食行で乞食にも2タイプがあるという面白い話しが展開しました。
私はホイト芸のホイトが日本語とは知らず、びっくりしました。
ネット検索を「ほいと」ですると「山口県の方言ページ」の中に、「ホイトとは〔祝、寿:ほぎ〕祝人(ほぎ人)が転じたものと言われている。物乞いに、行乞僧、遍路、虚無僧、乞食等に加えて芸能者の大神楽、万歳、獅子舞があり彼らは祝いの芸寿ぎの芸も行っていた。祝、寿(ほぎひと)であるが物乞いを行う事から乞食同様となり ほいと=乞食となったのでは!?」とありました。
「ホイト」をネット辞書で調べると「「ほいとう(陪堂)」の転とも、「祝人(ほぎひと)」の転ともいう」とありました。
黒田さんを紹介したネット上のページがたくさんあり、中でも、「都築響一の珍日本紳士録・路上アーチスト黒田オサム」は黒田さんのことがかなりよくわかります。
そしてこのページには黒田さんが芸の中で歌うという「地蔵和讃」の歌詞が紹介されています。昨日も黒田さんは「地蔵和讃」を歌ってくれました。
超に極がつくほどの音痴を自認する私も歌詞の素晴らしさにつられて歌ってみると声が出て、私なりの節をつけると何だかとてもいい感じで、テープにとって聴くと自分の声にホロリとするほどです。
私はこれからイベントのときに歌を強要されたら、この「地蔵和讃」を披露しようと決めました。
黒田オサムさんの「ホイト芸」と、ホイトになりきった黒田さんの強烈な個性に、私は黒田さんが本当の「お乞食さん」と勘違いをするほどで少なからぬショック状態から抜け出せず、それを知人に話すと、黒田さんの芸の凄さを知人たちは囃し立てました。そして、やや引いてしまった私の人格の薄っぺらさ加減を黒田さんはきっとキラリと光る射し込むような澄んだ目で見抜いてしまったに違いありません。
黒田さんがふっと緩んだときに見せる素晴らしい笑顔と美しい歯、耳元で話す時の柔らかい声の響きが時間が経てば経つほど甦ります。
久しぶりに会った知人と喧々諤々とした議論が弾み、人生の大先輩でもあるモノを知っている人たちと会うことの楽しさを味わった一日でしたが、モノを知らない優しさに欠ける薄っぺらな自分と向き合って少し落ち込んだ一日でもありました。
「ホイト芸」とは乞食芸と訳すそうな。
ホイト芸の第一人者黒田オサムさんの路上パフォーマンスを観たいと思っていた私の元に黒田さんから一通の案内状が届き、念願かなって、今日夕方荻窪のギャラリーで踊るという黒田さんを訪ねました。
夕方5時からのパーティーに私はどうしても5時半にしか着くことができず、そのことを黒田さんに伝えていたこともあり、私が着くのを待って、踊りを始めてくれました。路上とは違いギャラリーでの踊りでしたが、ほんとに「お乞食さん」の雰囲気がよく出ていて、ちょっとそばに近寄りがたい感じでしたが、楽しく拝見しました。
黒田さんのリュックの中から出てきたのは、アルミニウムの鍋が一つと折り畳まれた小さなゴザ。そのゴザを敷いて座り、手にした白い器をスプーンで打ち鳴らしながら“芸”が始まりました。
近くの観客に黒田さんが持参の小さなテープレコーダーを預け、黒田さんが頭のちょんまげを引いたところで中に納められた音楽をBGMで流すようスタートを依頼したのですが、その観客は間違って黒田さんが帽子を脱いだところで再生ボタンを押してしまい、黒田さんが思わず立ち止まり、「まだ、まだ。私の合図はこの頭のまげをこうやって引いたところで」と笑いを誘うポーズで修正が入り、観ている人もみんなで大爆笑。
ちょっとしたしぐさに普段の黒田さんの優しさが垣間見え、何だかふっと心が和みます。人を瞬時に引寄せる魅力が黒田さんの身体の中に脈々と流れているのがわかります。
もともと天性の優しさを持っている方なのか、それとも芸を磨く中でその優しさが培われたのか黒田さんのしぐさや話し方は人の琴線を震わせる不思議な魅力を持っています。
芸が終わって少しお話をしましたが、お乞食さんになりきった舞踏家黒田さんを前にしてちょっと引き気味の私に黒田さんは細やかな配慮をして下さり、海外に呼ばれて行ったときの写真アルバムや黒田さんが対談で載っている本なども私に見せて下さいました。海外での公演に呼ばれることが多いという黒田さんの情報は持っていましたが、実際にお会いして、まるで仙人のような存在感を感じ、圧倒されました。(黒田さんにお会いするのは2度目でしたが、黒田さんの踊りを観たのははじめてです)。
踊りを通してユーモアにあふれ優しさにあふれた、真剣で真摯で紳士な黒田さんが随所に見られ、じわじわと感動が広がって行き、たくさんの余韻が残りました。
うまく言えませんが、私の周りにはちょっと居ない凄い人だなあと思いました。
午後から2ヵ月ぶりに「鞄JIRO」で行われる“革教室”へ。
ここで、JIRO先生が奥から出して来たのが、JIRO先生が参加して会場JIROで行われている英会話教室でのハロインパーティーのときのお面。(写真)。
暇々に残布ならぬ残革で作ったというお面は楽しみにしている子供達に受けること請け合い。
私は、教室で「ペットボトル入れ」を革で作ることにして制作を始めました。
ペットボトル入れは100円ショップでもかなり立派なものが買えますが、これから齢を重ねるごとにリュックを背負って郊外を歩くことも増えることを予測して、ちょっとグレードの高いペットボトルケースを革で作りたいなと思い、イメージを膨らませながらシックな濃い茶の革を選び裁断までを終わりました。
夕方からは銀座へ直行。銀座の「ニコンサロン」で行われている「渡辺眸写真展 全共闘の季節」へ行きました。友人のNAKANOさんのお誘いでNAKANOさんのお友だちが渡辺さんという関係で。
「東大闘争」を撮った写真とはどんな感じだろうと思って展示されている写真を観ましたが、モノクロの写真は静謐な雰囲気が漂っていてとてもステキでした。
今日は初日でオープニングパーティが行われ、会場には溢れんばかりのお客様でした。どこかでお会いした方々もちらほら。その中には著名人も含まれていました。
以前親しくしていた私の知人も現れて、ドキッとし、世の中狭いなあと思いましたが、先方は私に気付いていないようなので、私は一足先に会場を出ました。
途中でNAKANOさんと合流し、久しぶりにおしゃべりが弾みました。
それにしても、人のつながり方と行動半径には何か磁石のようなものが働いているのでしょうか……。最近、どこに行っても何かに関わろうとすると必ずその先に巡り巡って、以前にそれも5年や10年以上も前に関わりがあった知り合いがいてドギマギすることがとても多くて。静かに幕を引くようにそして意思を持って離れた人との再会は、あまり望むことではなく出来ればまだまだ後ずさりしたくなります。でも後ずさりが出来ない状態に追いやられることもあり、避ければ避けるほど巡っても来るようですね。
そんなときは、やはりひそやかに小さく小さくもっと目立たずにもっと引きこもりたくなり、結果、もっともっと自分の内面を深く見つめることにもなります。
「キッキ」というのは、我が家で30年近く飼っていた熱帯魚・キッシングの名前です。キッシングの「キッ」に我が家の苗字の頭文字「キ」を付けた真に単純な呼び名ながら、家族で「キッキ」「キッキちゃん」と呼び親しんでいました。
そのキッキの様子が夏を過ぎておかしくなり、餌をやってもまったく食べなくなりました。それまでは、私が餌をやるために水槽をトントンと軽くたたくと私の方を向き、さらに「キッキちゃん・キッキちゃん」と名前を呼ぶと、尾びれ背びれのみならず全身体をクネクネとくねらせて愛嬌を振りまいてくれました。
我が家に来たときは5㎜にも満たない小さな魚で数匹一緒に水槽で飼い始めたものの、キッキがどうやら他の魚を食べてしまうらしく、何度か新しく小さな熱帯魚を加えましたが、最後に残ってしまうのがキッキでした。
以来水槽をひとりじめして悠々と静かに生き続け、15cm位にまで成長しました。
夫は、キッキの餌を買いに熱帯魚やさんに行く度に、家に帰ると「キッキはギネスに載る位長生きしているよ。熱帯魚やさんでもキッシングがそんなに長生きしている話は聞いたことがないと言っていたよ」といい、休日のたびに水槽の掃除を怠りませんでした。
そして、そのキッキが今日死にました。(写真は在りし日のキッキ)
泳がなくなり餌を食べくなり、水槽の底に腹びれを着けて静かにし動かなくなってから1ヶ月位過ぎたでしょうか。3日前位から今度はまるでぺたりと魚が寝ているような格好をして水槽の底に沈んでいました。
それでも、えらが動き、私が「キッキ」と呼ぶと、私の顔を目で追っているようでした。
私は今日は朝早くから一日出かける予定があったため、昨日家で水槽の前に座って「キッキ、ありがとう。キッキちゃん、いままでありがとうね」とキッキに声をかけ続け、別れを告げました。何度も様子を見ましたがその都度、大きく息をハアハアとして動きませんでした。でも、目が私を見ているようでした。
今朝も息をしていましたが、その息はとても小さくなっていました。
出掛けるときに「キッキ、キッキ」と声をかけ、夕方帰って水槽をみるとキッキは静かに出かけたときのままに横になって水槽に沈んでいました。
苦しんだ様子も無く大往生の見事なキッキでした。
水槽から上げて動かなくなったキッキをしみじみ眺めましたが美しく艶やかなキッキの姿でした。
私は、ベランダに置いてある50㎝ほどの大きな植木鉢の中の一隅を掘ってキッキを土に返し、弔いました。
板切れに「キッキ ここに眠る」と書き、今日の日付を記し墓標にしました。墓標のそばで香を焚こうとお香を選んでいると、以前買い置いた「招福香」があり、それは炭を主原料にした板状の小さなお香で燃え尽きると「ありがとう」という五文字が現れるステキなお香で、それをキッキのために焚きました。
30年の中には何度かキッキにも危機があり、水槽の中でヨタヨタと斜め泳ぎをしていて心配したことや、鱗に付く緑色の藻に苦しめられたこともありましたが、何とか回復し今日まで我が家の一員として共に過ごしました。
キッキの大往生を看取り、キッキありがとうと今も心の中でキッキに声をかけています。キッキはきっと天国に迷わず行ってくれると信じ、私の心は平安です。
キッキちゃん、ありがとう。可愛いキッキ。安らかに☆
10月に入って秋の味覚も本格的になってきました。
今日は、秋田余目加藤家から新米の「あきたこまち」が届き、西千葉の「ぎやまん亭」には舞茸も届きました。
「ぎやまんママ」からお電話をいただいて、私もそのおすそわけをいただきました。そしてそれをまた少しずつおすそわけしました。
本当に立派な舞茸にびっくり。(写真は、小分けする前の舞茸を手にしたぎやまんご夫妻)
この舞茸は、余目産ではなく、余目の加藤家のすみこさんのご実家で採れたものだそうでその貴重なものを送っていただき、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
日本にはまだまだこんな豊かな食材をまかなう力があることにもみんなで感動しました。
今、秋田ではお米の収穫が終わり、そばの刈り取りシーズンだそうです。
人手を使い、自然の力を借り、大切に育てられた貴重なお米と舞茸を前に、届けて下さった余目の加藤家の方々に深く深く感謝した一日でした。
すみこさんの話では、秋田ではすっかり寒くなって、ストーブとコタツをそろそろ出そうかなと考えているところだそうです。
首都圏と夏の暑さは同じでも、これからは寒さや霜対策そして雪と、東北の晩秋から冬は私たちには想像を絶する厳しさがあるのでしょう。
どうか、お体をお大切にと願わずにはいられません。