河合隼雄 2004「父親の力 母親の力」講談社+α新書
今回、飛行機の中で読もうとカバンに入れてきた新書。
河合氏が、中堅・ベテラン臨床家の質問に答える形で、ページが進む。
自己開示が、そう胡散臭くなく感じられるのはこの人の人徳でしょう。
1991年?から旧厚生省の研究班や学会会場だった京大で、心理の国家資格を準備する会話を多少異なる立場性からしてきたのを想起しています。
もう心臨を一人でまとめられる人はいなくなったんだろうなあ・・・
ご冥福を祈ります・・・
以下、印象的な部分の抜書き;
******************
まえがき;
問題がないという家族はほんとうに少ない。
欧米の影響を受けて、日本人の価値観や家族観が急激に変化しつつある。
日本人の生活様式が変化したが、それに見合う生き方が考えられていない。
ヨーロッパ近代に生まれた個人主義は、キリスト教倫理観に裏付けられて、利己主義になることを避けることができた。
日本では、表面的な真似だけをして、ゆがんだ個人主義が生まれている。
急激にモノが豊かになった。
日本人の生き方や道徳観は、モノが少ないなかで生きていくことを前提に、あまり言葉によって伝えなくても、自然に身についていくという方法をとってきた。が、根本の前提が変わってきた。
1章 家族とは何なのか
時代の変遷とともに、家族がやってきたことが次第に離れていった。身の安全、福祉、など。個人を国とか公とかで守っていこうとするシステムが発達してきた。
かたちに流れて、お互いに生でぶつかり合ってやっていくという部分が薄れてきた。
むしろそういうのを避けるために、形のほうに懸命になる。
独立してから親に電話することはヨーロッパのほうが頻度が高い。
家族、信頼関係がもっとも大事な要素。
イエや家名は必要なく、家族という苦労を背負い込む必要はないと考えしり込みする人も出てくる。
「小説を書くのは苦楽しい」
家庭科で家族について学びたい
2章 親子・夫婦の不協和音
日本中が母性的に生きてきたのに、それぞれに自分のやりたいことをやろうという個性化の方向に変わってきた。
日本人は、男性のほうも母性を持っていますから、家庭のことをすべて女性にまかせてしまうということもなくなってくるでしょう。
クライエントの心の舞台で癒しの劇が起こる状態になっていたときに、父親役をする人や母親役をする人が登場してきたりすると、劇的な補修が行われて急速に治っていくことがあります。
人間というのは、自分で話すことによってイメージが確立されてくる。
死に物狂いになっていると、思いがけない可能性が出てくることがある。そこを引き出していくのが私たちの仕事。
意識していないつながりというものを、日本人は持っている。底のほうは冷えていない。
ヨーロッパの「社交術」
うまくいっている夫婦は、大なり小なり心の中で離婚・結婚を繰り返しているという一面もある。
新しい発見がなかったら、何事も続きません。
3章 父親のどこが問題?
本当に強い父親とは、子どもに対して、「世間がどうであれ、自分の道を歩め。お前のことが俺が守る」ということ。
しかし「世間の笑いものにならないように」などと、世間の代弁者になってしまっている。
いばるのではなく。
日本人の父性は、雨が降るまでずっと待っているという、いわば忍耐で、むしろ母性と呼んでもいい。
西欧の父性は「個人で生きる力のないものは死ね」、殺すか生かすかという生殺与奪の権力と、それを行使する判断力や勇気。
日本では肩書きで呼びあう。
人間のオスは種の保存だけではなく、文明―ピラミッド、政治、軍事、宮殿などーを作った。
日本は武士の時代から父権社会になっていく、母性原理社会を父権でやってきたというのが特徴。
父親がいなくても家族は動く時代だが、個人主義が強くなってくると、家のなかに父性原理が必要になってくる。父性の出番。
まずは、父親と母親が協力してやっていく。そして次第に父の役割をはっきりさせていく。
的確な判断力、強力な判断力、不要なものは切り捨てていく実行力。
家から一歩出たら農耕民族、帰ってきたら砂漠の遊牧民族。
父なるもの、「物分りのいい父親」ではなく、こうだと思うことは主張する。
そのかわり、責任を取る。
遊んだり喧嘩したりして、子供は大人になる練習をしてきた。
が、知識獲得にばかり進んだから、情緒的には子供という大人が増えている。
バブル崩壊後、会社が擬似家族ではなくなってきた。
父親が家庭に重きを置いてきたが、母親が2人という家庭もある。
「俺も俺も人生を生きている。お母さんはお母さんの人生を生きている。だから、おまえもお前の人生を歩め」がもっとも望ましい。
映画館、舞台芸術・・・人間の生き方を話し合う。
4章 母親の何が問題?
子供との健全なつながりは?
子供がピアノを弾けたらすごいが、40歳50歳になったら?
「そんなに苦労して早い時期に子供にあれこれやらせても、人間が幸福になるわけありませんよ」
女性が子供に対して大きな希望を抱いて、知的レベルを上げようとする意識が強い。
「努力すれば誰でも1番になれる」ことはない。
1番になる努力ではなく、幸せになる努力。
個性を見つける。
親の中年の危機と、子供の思春期の危機が重なる。
ボランティア
家族の中心に、「永遠の同伴者」を作れるか。
没頭、床上げ、夫の育児休暇、祖父母の役割、少子化
5章 子供にとっていい家庭とは
子供を守る「心理的な力」が弱っている。
昔の親、盗み、いじめ、歯止め、鎮守の森、ナイフ、
自然の心をどのようにして取り戻すか。
思春期にふさわしい、感情の揺さぶりを一家で体験しているか。
小遣い、個室、家族でご飯・・・
「本当は親はどう思っているのか」という想いから試す
「心の叫び」
私など、子供と会っているとき、あまり親に会わないことがある。
子ども自身は、親にこうしてほしいとはあまり意識していない、ほとんど無意識。
大家族のよいところ
今は、兄弟の葛藤が見えすぎる。
学校が家庭の機能まで持たされているのは、日本独特の現象。
上等な服は、子供にとって活動的で心地よいか。
6章 問題にどう対処するか
神話は根本資料を提供してくれる。
心理療法家というのは、ある個人のために、自分のすべてを投げ出すくらいの覚悟でことに出会っていかないと、クライエントは治っていきません。
クライエントに自宅の電話番号を教える、教えない。
一生懸命であることと依存とは違う。
私が言った一言を、1ヶ月も2ヶ月も経ってから、自分が独自に思いついたというクライエントもいました。
日本のセラピストは、父性原理が弱く、母性原理が強い傾向がある。
「あなたのためなら死にます」「ダメだから殺すぞ」
自分たちに夫婦関係はむちゃくちゃでも、他人の夫婦関係を上手に助けている人が現実にいる。
有名な分析家なのに、夫婦関係や親子関係は悪い、とか。
教育者や警察官の子供が非行少年とか。
家族問題に関して、絶対的に正しい方法はない。
人の人生の数だけ答えがある。
「旅行に出て、行く先のことがわからないときには、とても不安になる」ユング
自分を超越したものが存在すると考えることが宗教性、あるいは共同幻想。
老いてくると、死の受け入れという課題が出てくる。しかし、地獄極楽とは考えないだろう。
宗教の形骸化。
「誰が悪いかなどと考えるより、どうしたら解決の方法があるかを考えましょう」
「カウンセリングというのは、悪い人をよくしたりはできません。そんなことができるくらいなら、私がやってもらいたいくらいだ。だけど、嫁さんが悪いと悩んでいる人を助けることはできる」
こちらが最も来てほしいと思っている人が来所しないということはしばしばあります。
誰が一番たいへんかとか、誰が一番悪いかではなく、誰と協力できるのかと考えるほうがやりやすい。
問題・厄介ごと・ままならないことが起こったときは、このへんで家族が対話しないと、この家は危ないぞ、というサインだと考えたほうがいい。
解決すべき問題を大人に提出しているともいえる。
私たちはそれを今後の人生にどう生かすか、という観点から考える。
家族の面白みと、わずらわしい家族なんてやめよう・・・という動き。
頭で考えた合理性を追求していくと、人間は機械に近づいていって、面白さがなくなる。
人と人のつながり、環境問題、自然に帰れ・・・などに期待。
いかなる家族にも、意識するしないに関わらず文化がある。
「絆」ほだし、牛や馬を杭につなぐロープ。自由を拘束するの意。EX。「家族にほだされて」
************* 以上。
今回、飛行機の中で読もうとカバンに入れてきた新書。
河合氏が、中堅・ベテラン臨床家の質問に答える形で、ページが進む。
自己開示が、そう胡散臭くなく感じられるのはこの人の人徳でしょう。
1991年?から旧厚生省の研究班や学会会場だった京大で、心理の国家資格を準備する会話を多少異なる立場性からしてきたのを想起しています。
もう心臨を一人でまとめられる人はいなくなったんだろうなあ・・・
ご冥福を祈ります・・・
以下、印象的な部分の抜書き;
******************
まえがき;
問題がないという家族はほんとうに少ない。
欧米の影響を受けて、日本人の価値観や家族観が急激に変化しつつある。
日本人の生活様式が変化したが、それに見合う生き方が考えられていない。
ヨーロッパ近代に生まれた個人主義は、キリスト教倫理観に裏付けられて、利己主義になることを避けることができた。
日本では、表面的な真似だけをして、ゆがんだ個人主義が生まれている。
急激にモノが豊かになった。
日本人の生き方や道徳観は、モノが少ないなかで生きていくことを前提に、あまり言葉によって伝えなくても、自然に身についていくという方法をとってきた。が、根本の前提が変わってきた。
1章 家族とは何なのか
時代の変遷とともに、家族がやってきたことが次第に離れていった。身の安全、福祉、など。個人を国とか公とかで守っていこうとするシステムが発達してきた。
かたちに流れて、お互いに生でぶつかり合ってやっていくという部分が薄れてきた。
むしろそういうのを避けるために、形のほうに懸命になる。
独立してから親に電話することはヨーロッパのほうが頻度が高い。
家族、信頼関係がもっとも大事な要素。
イエや家名は必要なく、家族という苦労を背負い込む必要はないと考えしり込みする人も出てくる。
「小説を書くのは苦楽しい」
家庭科で家族について学びたい
2章 親子・夫婦の不協和音
日本中が母性的に生きてきたのに、それぞれに自分のやりたいことをやろうという個性化の方向に変わってきた。
日本人は、男性のほうも母性を持っていますから、家庭のことをすべて女性にまかせてしまうということもなくなってくるでしょう。
クライエントの心の舞台で癒しの劇が起こる状態になっていたときに、父親役をする人や母親役をする人が登場してきたりすると、劇的な補修が行われて急速に治っていくことがあります。
人間というのは、自分で話すことによってイメージが確立されてくる。
死に物狂いになっていると、思いがけない可能性が出てくることがある。そこを引き出していくのが私たちの仕事。
意識していないつながりというものを、日本人は持っている。底のほうは冷えていない。
ヨーロッパの「社交術」
うまくいっている夫婦は、大なり小なり心の中で離婚・結婚を繰り返しているという一面もある。
新しい発見がなかったら、何事も続きません。
3章 父親のどこが問題?
本当に強い父親とは、子どもに対して、「世間がどうであれ、自分の道を歩め。お前のことが俺が守る」ということ。
しかし「世間の笑いものにならないように」などと、世間の代弁者になってしまっている。
いばるのではなく。
日本人の父性は、雨が降るまでずっと待っているという、いわば忍耐で、むしろ母性と呼んでもいい。
西欧の父性は「個人で生きる力のないものは死ね」、殺すか生かすかという生殺与奪の権力と、それを行使する判断力や勇気。
日本では肩書きで呼びあう。
人間のオスは種の保存だけではなく、文明―ピラミッド、政治、軍事、宮殿などーを作った。
日本は武士の時代から父権社会になっていく、母性原理社会を父権でやってきたというのが特徴。
父親がいなくても家族は動く時代だが、個人主義が強くなってくると、家のなかに父性原理が必要になってくる。父性の出番。
まずは、父親と母親が協力してやっていく。そして次第に父の役割をはっきりさせていく。
的確な判断力、強力な判断力、不要なものは切り捨てていく実行力。
家から一歩出たら農耕民族、帰ってきたら砂漠の遊牧民族。
父なるもの、「物分りのいい父親」ではなく、こうだと思うことは主張する。
そのかわり、責任を取る。
遊んだり喧嘩したりして、子供は大人になる練習をしてきた。
が、知識獲得にばかり進んだから、情緒的には子供という大人が増えている。
バブル崩壊後、会社が擬似家族ではなくなってきた。
父親が家庭に重きを置いてきたが、母親が2人という家庭もある。
「俺も俺も人生を生きている。お母さんはお母さんの人生を生きている。だから、おまえもお前の人生を歩め」がもっとも望ましい。
映画館、舞台芸術・・・人間の生き方を話し合う。
4章 母親の何が問題?
子供との健全なつながりは?
子供がピアノを弾けたらすごいが、40歳50歳になったら?
「そんなに苦労して早い時期に子供にあれこれやらせても、人間が幸福になるわけありませんよ」
女性が子供に対して大きな希望を抱いて、知的レベルを上げようとする意識が強い。
「努力すれば誰でも1番になれる」ことはない。
1番になる努力ではなく、幸せになる努力。
個性を見つける。
親の中年の危機と、子供の思春期の危機が重なる。
ボランティア
家族の中心に、「永遠の同伴者」を作れるか。
没頭、床上げ、夫の育児休暇、祖父母の役割、少子化
5章 子供にとっていい家庭とは
子供を守る「心理的な力」が弱っている。
昔の親、盗み、いじめ、歯止め、鎮守の森、ナイフ、
自然の心をどのようにして取り戻すか。
思春期にふさわしい、感情の揺さぶりを一家で体験しているか。
小遣い、個室、家族でご飯・・・
「本当は親はどう思っているのか」という想いから試す
「心の叫び」
私など、子供と会っているとき、あまり親に会わないことがある。
子ども自身は、親にこうしてほしいとはあまり意識していない、ほとんど無意識。
大家族のよいところ
今は、兄弟の葛藤が見えすぎる。
学校が家庭の機能まで持たされているのは、日本独特の現象。
上等な服は、子供にとって活動的で心地よいか。
6章 問題にどう対処するか
神話は根本資料を提供してくれる。
心理療法家というのは、ある個人のために、自分のすべてを投げ出すくらいの覚悟でことに出会っていかないと、クライエントは治っていきません。
クライエントに自宅の電話番号を教える、教えない。
一生懸命であることと依存とは違う。
私が言った一言を、1ヶ月も2ヶ月も経ってから、自分が独自に思いついたというクライエントもいました。
日本のセラピストは、父性原理が弱く、母性原理が強い傾向がある。
「あなたのためなら死にます」「ダメだから殺すぞ」
自分たちに夫婦関係はむちゃくちゃでも、他人の夫婦関係を上手に助けている人が現実にいる。
有名な分析家なのに、夫婦関係や親子関係は悪い、とか。
教育者や警察官の子供が非行少年とか。
家族問題に関して、絶対的に正しい方法はない。
人の人生の数だけ答えがある。
「旅行に出て、行く先のことがわからないときには、とても不安になる」ユング
自分を超越したものが存在すると考えることが宗教性、あるいは共同幻想。
老いてくると、死の受け入れという課題が出てくる。しかし、地獄極楽とは考えないだろう。
宗教の形骸化。
「誰が悪いかなどと考えるより、どうしたら解決の方法があるかを考えましょう」
「カウンセリングというのは、悪い人をよくしたりはできません。そんなことができるくらいなら、私がやってもらいたいくらいだ。だけど、嫁さんが悪いと悩んでいる人を助けることはできる」
こちらが最も来てほしいと思っている人が来所しないということはしばしばあります。
誰が一番たいへんかとか、誰が一番悪いかではなく、誰と協力できるのかと考えるほうがやりやすい。
問題・厄介ごと・ままならないことが起こったときは、このへんで家族が対話しないと、この家は危ないぞ、というサインだと考えたほうがいい。
解決すべき問題を大人に提出しているともいえる。
私たちはそれを今後の人生にどう生かすか、という観点から考える。
家族の面白みと、わずらわしい家族なんてやめよう・・・という動き。
頭で考えた合理性を追求していくと、人間は機械に近づいていって、面白さがなくなる。
人と人のつながり、環境問題、自然に帰れ・・・などに期待。
いかなる家族にも、意識するしないに関わらず文化がある。
「絆」ほだし、牛や馬を杭につなぐロープ。自由を拘束するの意。EX。「家族にほだされて」
************* 以上。