心理学オヤジの、アサでもヒルでもヨルダン日誌 (ヒマラヤ日誌、改め)

開発途上国で生きる人々や被災した人々に真に役立つ支援と愉快なエコライフに渾身投入と息抜きとを繰り返す独立開業心理士のメモ

米国の職業的カウンセラーの倫理規定を見てみる

2007-09-29 16:32:40 | 
Wallace, S.A. Lewis, M.D. 1998, Becoming a professional counselor, second edition, preparing for certification and comprehensive exams, Sage

この本自体は、Council for Accreditation of Counseling (CACREP) と、National  Board for certified Couselor (NBCC) とによって、資格試験準備用に作成されたもので、American Counseling Assosiation Standards of Preparation for counseling training programs に則っているようです。

・Human Growth and Development
・Social and Cultural Foundations
・The Helping Relationship
・Group Dynamics, Process, and Counseling
・Lifestyle and Career Development
・Appraisal of the Individual
・Research and Evaluation
・Professional Orientation
の各章から構成され、職業倫理は第8章に含まれています。

そこでは、
A項 一般;資料収集・クライエントや同僚、組織への責任・職業の資格・説明責任(記録保存の責務)・料金、などの業務の展開。
B項 カウンセリング関係;クライエントの権利・秘密保持・警告義務・記録保存・2重関係・関心の葛藤・個人と集団でのクライエント相談。
C項 測定と評価;心理テスト選択や実施、スコアリングと解釈、結果報告に関するカウンセラーの責任。
D項 研究と出版;被験者の保護・研究の計画と実施・当然支払われるべき手当て・結果の解釈と普及・共著。
E項 相談;相談の役割の定義と特徴・目標設定と問題・リファー
F項 プライベイト開業;宣伝・法的な責任・専門的な所属・終了。
補遺 資格試験;応募情報・受験者の法的、倫理的な責任。

おおよそ、金沢氏のまとめと重なる内容と言えます。
ただ、プライベイト開業が1項目になっているのは、日本ではまだまだこれからの分野で、欧米の現状を感じさせます。
その中身は、日本に移し変えると、開業医に相当するものです。
日本の心理職の国家資格化の動きのなかでは、医師側が示している「心理の開業」への懸念を想い起こしました。日本の医事法制は、医行為は医師が行うので、それ以外の職種は「医師の指示の下」で、その行為に従事するという構造だからです。

さて、研究の倫理については、7章に言及があります。P。142
被験者に対しては、
・被験者にストレスを惹起することを避けること、
・ありうる危険性を説明すること、
・有害な後効果を排除すること、
・被験者を物質的身体的精神的な損害から保護すること、
・研究の目的や本質について説明すること、
・いつでも研究への参加のコンセントを取り消してよいこと、
・被験者のプライバシー権を保護し守秘すること、
研究結果については、
・研究結果は、すべての変数と条件についての情報を含んでいること、
・研究結果は、誤解されないように性格に報告すること、
・研究結果は、被験者の自己同一性を保護すること、
研究者について、
・研究者は、他者に役立てられる、独創的な研究をすべきである、
・研究への貢献や出典については、正当な評価を示すこと、
・原稿を提出するのは、1つの研究誌に限ること、
などは、NBCC倫理綱領を根拠にしています。

被験者のコンセント (consent=よく考えた上でしぶしぶ同意すること) が、開発途上国を舞台にした研究では得がたいです・・・

ちなみに臨床心理学の職業倫理は?

2007-09-28 20:26:53 | 
金沢吉展2006「臨床心理学の倫理を学ぶ」東京大学出版会

次の7つを原則としてまとめています。
第1原則;相手を傷つけない、傷つけるようなおそれのあることをしない
第2原則;十分な教育・訓練によって身につけた専門的な行動の範囲内で、相手の健康と福祉に寄与する
第3原則;相手を利己的に利用しない
第4原則;一人一人を人間として尊重する
第5原則;秘密を守る
第6原則;インフォームド・コンセントを得、相手の自己決定を尊重する
第7原則;すべての人を公平に扱い、社会的な正義と公正と平等の精神を具現する

対人援助職にも共通のことがらだと思います。

欧米から翻訳されてきた概念ですが、日本語としてこなれていて、とてもわかりやすく書かれています。
ただ、それぞれが意味するところや実際場面などはとても微妙です。関心ある方は、直接、お読みください。

ただし、第6原則は、開発途上国を舞台とするときには困難な部分があります。教育機会が限られていること、また交流するツールである言語が翻訳困難な場合があるからです。

開発途上国で調査を行うときの研究倫理を考える

2007-09-28 19:48:16 | いろいろ
開発途上国に住んできたぼくは、日本から短期間やって来て、調査をするから、協力してほしいと要請されることがあります。

日本の所得が上がり、また空路アクセスが容易になり、
学部の卒論や、修士論文などでも、途上国を舞台にして書こうとする人たちがいます。
心理学や児童学、医学や医療関連分野、また開発学分野などで・・・
その指導をする役割のはずの大学人自身が、休暇をかねてやって来て、論文数を増やそうという意図みえみえに、安易に調査を実施しようとする人もいますから・・・

多くの場合、ぼくは協力することを断わらざるをえませんでした。
・国際的な支援を軸にできあがった、ぼくの現地の人間関係と、調査意図がかみ合わない
・時間的に余裕がない
・北と南、持てる者と持たざる者という視点がない
・被験者と調査者が対等な人間関係ではなく、断りにくい構造にある自覚がない
・先行研究の調べがないか、少なく、テーマが思いつきである
などが理由でした。
・文化的な差異を、価値観を伴って序列化しようとする意図を持つもの、
もありましたが、これは前時代的過ぎます。

断りを説明すると、
「○週間(極端なときは、○日)しか、ここにいられない!」
「○ヵ月後に卒業なので、今まとめるしかない!」
「村では英語が通じない!?通訳をやってほしい・・・通訳は有料なんですか!」
などの、当惑や、怒りと、向き合わなければならないのでした。

ぼくは、異文化状況の中で調査研究するときには、次のような視点が大切と考えています。
・調査によって得られる結果は、研究者間で共有できる質を持っているはず
・被験者や、被調査団体へは○○の謝礼を用意している
・調査結果を○○の形で被験者らに返したい
しかしながら、こうした人は稀でした・・・

まずは研究倫理の訓練が少ない学部や修士段階で、困難の多い開発途上国を舞台にした調査をするのは、やめてほしいと思う今日この頃です・・・

トレッキング情報提供

2007-09-22 20:08:16 | トレッキング・釣り・テニス
ネパールの今年のダサイン休みは、10月中旬から、実質的に約1ヶ月間です。

シニアボランティアで、この休みにエベレストベースキャンプ・トレッキングを計画中の4人と、我が家で会いました。
カトマンズ発着で2週間、ガイド1、ポーター3という、まあ余裕の準備です。

事前に送っておいたメモに基づいて、フロアに実際の装備を広げ、PCから昨年の写真を見てもらって説明しました。

質問は、
・高山病の兆候と対策
・お酒はいつまで飲んでいい
・ガイドとポーターとの付き合い方
・夜に眠れないとき
・ストックは必須か
などでした。

4人とも、元気に楽しんで戻ってきてくれるといいなと思います・・・

西部タライ・カピルバストウでの殺戮

2007-09-20 12:51:29 | ネパールの政治治安状況
カピルバストウは、ブッダの育った城址のあるところですね。

そこでの16日の反マオ派のマデシのリーダーの殺害以降、放火は300件、クルマへの暴行は150台、殺戮は23人に達し、まだ5人が行方不明だと今朝の新聞は伝えています。

過日のカトマンズでのローカルバス爆破もそうでしたが、マオ派の戦い方法ではありません。
王政支持派がインド越境武装者に頼んだ、あがきなんでしょうか・・・

マオ派閣僚が内閣から離脱、11月選挙に暗雲

2007-09-19 10:59:38 | ネパールの政治治安状況
総選挙を2ヵ月後に控える情勢のなかで、きのう、マオ派閣僚が内閣から離脱しました。
ここ数日間、首相や8政党を巻き込んだ会談の行き詰まりが伝えられていました。

理由は、次を中心とした要求が入れられなかったからです。
・選挙前に共和制を宣言する。
・選挙制度を、完全比例代表制に。

前夜の雷雨が明けた朝、タメルでは、あっちこっちの道路が、マオ派のデモ隊で埋め尽くされていました。
高校の制服のままの男女のグループ、
明らかに動員されたと思われる受身に歩くだけの人たち、
大声で叫びながらビラを配るリーダーたち、
ハンドマイクを使わない、手作りのデモ行進です。
それが午後の、カンチパト通りへ人々があふれ出る、昨年4月以来久々のクラマンツでの大集会へと流れていきました。

これで11月選挙実施に暗雲が立ち込めてきたという予想がでてきています。
今朝のHimalayan Times紙によると、マオ派の行動予定は次のようです。
・9月19日から21日、各戸訪問
・22日、全国大衆行動
・9月30日の立候補当日に、マオ派は選挙登録事務所を拘束包囲する
・9月29日から10月3日、汚職に関係した人の暴露
・10月4日から6日、ゼネスト
・マオ派の大衆行動に対して政府側が武器を持てば、マオ派も再び武器を取ると宣言したこと、
などが根拠です。

ぼくの疑問;
・総選挙の議会初日に、共和制かどうかを選択するという日程は、8政党間で合意されているのに、ナゼ、マオ派は選挙前の宣言にこだわるのだろうか?
・この局面で、プラチャンダ代表がきのうの集会に姿を見せなかったのはナゼか?伝えられるとおり、病気?あるいは、マオ派幹部を軍が拘束するという情報もあるなかでの組織防衛?

カトマンズの今朝は、16℃まで気温が下がって、上着がほしい涼しさになりました。
青空のもと、ガネッシュヒマールが、朝日に映えて顔を覗かせています。
ネパール社会の未来も、こうあってほしいのですが・・・

食べ物が残っていない朝

2007-09-19 09:22:23 | ネパールでの生活
連れ合いの人間関係から出発した、JOCVの諸君が出入りした日の翌朝。

小学校教員のMiくん、
鍼灸師のSくん、
理学療法士のHくん、
看護師のMoさん。

ネパール語で授業をやってみた感想、貧しい公立学校の現状、休みがない診療の日々、学ぶ気のない人を相手にするうんざりさ、借りていった本の感想、遊びにやってくる彼女の接待の工夫、来月にやってくる長い休みに計画中のトレッキング、ぼくの西ネパールの旅で起こったこと、などなど、話題は尽きません・・・

この国のJOCVたちは、暇なときが少ないみたい。ちょっとかわいそう・・・
カトマンズ盆地の外側の状況はまだ知っていないし・・・

ツマミに出す皿は、次々に、完全に!気持ちよく!空になっていきます・・・
そして、食べ物が残っていない朝を迎えます。

安野早己 2000 「西ネパールの憑依カルト」勁草書房

2007-09-18 18:25:24 | ネパールでの生活
安野早己 2000 「西ネパールの憑依カルト ー ポピュラー・ヒンドゥーイズムにおける不幸と紛争」勁草書房は、西ネパール・ルルク村の、貴重な民族誌です。
ネパールの宗教世界についての本格的な住み込み調査の結果が、欧米人類学者の博士論文などの英文類書はあっても、こうして日本語で読めるのは、とてもうれしい。

じつは、今回の西ネパールの旅で、この著者と、ネパールガンジ空港で偶然にお会いし、翌日のジュムラ空港まで一緒の日程でした。
「ジュムラからルルクまで13時間かかり、泣きたい思いをした・・・」という記述が、真実味を持って伝わる、女性研究者でした。
ぼくがララ湖からの帰路にシンジャ・ルートを取らなかったため、この研究フィールドを訪ねることはできませんでしたが。

神と人との交流は、ネパール社会では生き生きとしてあります。
「ふつうのヒンドゥーの生きた、実際の宗教を構成する信仰と実践」という、ポピュラー・ヒンドゥーイズムの視点(Fuller 1992)から、民衆の宗教実践を、対象地の社会構造・女性と土地を巡る紛争・マスト神がダミに憑依し託宣を与える過程・マスト神を巡る神話と儀礼・隠れた神々・道徳違反などの視点から描いています。

20年をかけた著作は奥深いです・・・

デユリケル・ナモブッダ・パナウティ ショートトレッキング

2007-09-16 15:40:48 | トレッキング・釣り・テニス
1泊2日で、7時間、歩いてきました。

ブッダが、子に餌を取ることもできなくなっている、飢えて死にそうな雌トラに、自分を食べることを許した、という逸話の場所で、カトマンズ盆地の、チベット仏教の3大聖地のひとつという、ナモ・ブッダ。
ドウリケルから4時間でした。
シンズリ道路が完成し、ぼくたちは歩きましたが、バスの便がもうできているようでした。

それから山を降りて、緩やかな盆地を2時間歩いた距離にある、古都パナウティ。
リッチヤヴィ王朝以来の13世紀の寺院が立ち並ぶ静かな街でした。

早朝に2つの川の合流点にある、クリシュナナラヤン寺院のガートを歩いていたら、声をかけられました。
インドラチョークのパシュミナ店Yの店主のMさんでした。驚き!
いつもと違って、神妙な顔つきなので問うと、親族の不幸があって、昨夜に戻って来たとのこと。
こんな歴史豊かな街の出身だったんだ・・・

ナモブッダの逸話は、ブッダはカトマンズ盆地に入ったかどうかは実証されていないようですが、とにかく信じられているものです。
ぼくは、この道を、ブッダも歩いたのかもしれないと連想をたくましくしながら辿り、丘の上のゴンパのなかの石の銘版にある、ブッダが左腕をトラに与えているシーンには、胸が熱くなるのを感じました。

対人援助職を選んできたものとして、ずっと気になる逸話で、訪れたかったところでした。
ぼくの巡礼の旅だったかもしれません・・・

ネパールの人々の心理特性 講義 3回目

2007-09-15 00:41:35 | 国際協力・保健/リハ/心理学分野
きょうは、JICA-NGO学びの会でした。

出た質問や意見は次のようでした。
・3才児までは日本と変わらないが、4才児から変わっていく印象がある。他者の目を、ネパールの子供は意識しないようだ。幼稚園ボランティアから。
・アルコール依存が増えている印象がある。
・不安を身体化する傾向は感じるが、身体に問題のない不安だけとの場合とはどう区別したらよいか。鍼灸JOCV隊員。
・組織が協力し合わない。
・職場を代表して研修を受けてきても、ほかの人には教えない。
・ネパール社会の自殺状況は?
・数日間歩いて、ようやく受診する、ネパールのアクセスの悪さは、診療内容に影響を与えているか。
・知り合いがうつ的とか死にたいと言うとき、どう接するのがよいか。

開発事業に関係している人だけが聴衆だったせいか、今までよりも、深まった話し合いになったように感じました。

それと、新たに着任された所長から、名刺交換するときに、「同郷のようです」と声をかけていただきました。
いつかじっくり話したいです・・・ネパールもそうですが、足元の日本側の社会開発!です。

ネパール滞在VISAのこと

2007-09-12 18:49:13 | ネパールでの生活
西ネパールの旅から戻って1週間です。
寝苦しい夜にスリーピングバッグから出してしまって、宿泊施設で襲われたらしい、両足の数10ヶ所のノミの跡も落ち着いてきました。

7月中旬に日本から戻って得たVISA60日間の期限が近づいて、30日間の延長手続きを終えました。

昨年夏からの1年は、トリブバン大学ビシュワバサ・キャンパスの学生VISAでした。
その後は、ツーリストVISAでいこうとの計画です。
10月ダサインは国外を準備中なので、これで、今年はネパール滞在が可能な見込みです。
来年も、3月までの期間は、年間150日というネパール政府のリミット内なので、滞在は問題ない予定です。


航空券を買わずチェックイン手続きせず、お金を渡して、その場で飛行機に乗る

2007-09-08 12:51:21 | 
ジュムラ空港では翌日の全便がキャンセルになってしまいました。
上空の雲・・・が問題とか。
今か今かと、その決定までは空港から遠出もできず、
バザーまで行って、休日の新宿のような、クリシュナの祭りの人だかりに、何度も揉まれて来るだけでした。

ひとつの希望だったジュムラ・タトパニ行きは、ジープがお祭り中は出ないと言われてしまいました。
見かけたオートバイに行ってくれないか、と頼んだけど、お祭りを見に来ている人々で、ダメでした・・・
ジュムラ温泉は、熱いんだそうです!
次の機会は作れるか・・・な?

さて、空港横の飲み屋兼ホテルで2泊目が過ぎて、出発を期待!
ついに、10時過ぎにシータ航空機は現れて、10数分後には出発できました・・・・
ネパールの山岳地帯では、「運を天(天候)に」任せるしかない・・・ということです。

スルケット上空を過ぎ、約40分でネパールガンジ空港に着いて、40℃もあろうと思う熱風が入り込み、エプロンに飛行機が移動したら、
隣に搭乗中のイエティの機体があるではありませんか。

ぼく「どこ行き?」
係員「カトマンズ行」
ぼく「早くKTMに行きたいけどチケットを持っていない。いくら?」
係員「131ドルと、空港税170ルピー」
ぼく「これお金、これ荷物」と、シータの機体から降ろされたばかりで、台車に積まれてあったバッグを自分で取り出して渡すと、閉じられていた機体の荷物部分が開けられて、目の前でそこに入れられました。
ぼくはタラップを上り、空いているシートを探して座りました。空いているのは1つ2つでしょうか。

ネパールの人の、こういうフレキシビリティは好きだなあ・・・

かくして、ネパールガンジ空港乗り換え滞在は10分程度で終了し、
行きには3日間かけたジュムラから、
帰りはなんと2時間後!に雨のカトマンズに戻っていたのでした。

みなさん、航空券を買って、チェックイン手続きして、搭乗券を手にしてから、飛行機に乗るのは、
ここネパールでも普通には必要ですから、念のため・・・

ララ湖トレッキング情報まとめ 2007年9月

2007-09-08 03:44:35 | トレッキング・釣り・テニス
ガイドブックは、
Trekking in the Nepal himalaya 8ed, lonely planet 2001
Hugh Swift, 1989, Trekking in Nepal wesr Tibet, and Bhutan, Hodder & Sloughton, UK
の 2冊をみたが、前者の情報量が圧倒的に多い。

昨年11月までは、マオイストの支配地域となっていたため、ほとんどのトレッカーは入らず、新しい情報を得ることが難しかった。

一般的には、ロッジが整備されていないので、テントと食料を持参した、トレッキンググループ形態がお勧めかもしれない。

ただ、地元の人々のための宿泊や食事の施設はあるわけで、それを利用したトレッキングも不可能ではない。今回のレポートがそれ。

このコースの特徴;
・「ホテル」はネパール式(チベット形式)のみ。土で石を積んだ外壁、低くて暗い部屋。外トイレ共同、シャワーなし、ベッドには共同使用の汚れた布団がある。
煙が部屋に充満する、かつてのカマド形式は、今年、煙突方式のストーブへと変わったと言う。
・提供される食事は、茹でるか、ストーブで焼いたじゃがいも、ダルバート、チャウチャウ(インスタントラーメン)、この季節は焼きとうもろこしとリンゴ、など。ロキシー(地元蒸留酒)はある。牛乳や、ビールが稀にあり。
・登山道悪い。石、ぬかるみ、動物糞、人糞などが続く、未整備な状況。村の中はよく歩かれていても、村と村をつなぐ間が特に・・・。道が渓流などによって崩れて、へつる箇所もある。生活道や動物道が交差して、分岐が多く、よほど熟練したガイドか、地元民でないと、判断しがたい。
・宿泊地間が離れており、歩行時間が長くなる。
・ジュムラからは、往復とも、地形的に、約1200m、約1000m、約600mの3つの登下りが湖との間にある。けっこう、気合が必要。
・この時期、13℃から35℃。午前晴れ、午後が小雨と風というパターン。
・ミネラルウオーターは売っていないので、水筒で水の浄化剤使用がお勧め。生水は豊富。
・湖東方2時間?にはタルチャ空港があり、チャーター便の航空機やヘリコプターが毎日飛んでいた。スルケットか、ネパールガンジからの利用が、人数や値段しだいで検討できると聞いた。


ララ湖の正しい道?

2007-09-08 03:03:25 | トレッキング・釣り・テニス
一歩間違えば・・・という失敗の2日目でした。

でも、ぼくの手元には地図と高度計があって、現在地はおおよそ把握していたので、不安はなくて、
ただ、ムダな身体疲労だな・・・という気分でした。
実際、高山の花々の迎えなどがあったし、
稜線を下る途中で出会った羊飼いには、子羊を買い取って、明日は宴会をしよう等という、余裕のなかだったです。
ーこれは値段交渉が決裂して、買わなかったのですがー
買っていたら、3つ目のヤブ漕ぎは、それこそ大変だったでしょう・・・

3日目は、
ボートを頼んで湖面からの景観を楽しみ、
湖から流れ出る川では釣っていいというので、がんばったり・・・1匹!
鱗が鮎のように細かくて、体色は黒味がかっており、口が下についている、アサラ(ヒマラヤントラウト)を、ミミズえさで、脈釣り。
ポーターが村から頼まれて持ってきていた、ここの軍キャンプにいる村出身者にセーターとリンゴを届けたり、
昼寝をしたり・・・
そして、あすの帰り道を、国立公園スタッフでもある小屋の経営者にも確認しました。

4日目、
湖南の周回道路を来た方角の西へ戻り、3050mの草原を経て、
急降下し、ごみが散乱するジャリ村2630mを通過し、
地図にもある「ショートカット」の入り口が見つからず、
ピナ村まで下ってやってきてしまい、
チョルテンの立つグルチ・ラグナ3450mまでの1000mの登りに耐え、
ブルブレ手前で、前半の道と合流し、
初日と同じニャウレで宿泊しました。
歩行10時間。

最終日、
6時半にでて、ゆっくり1時間半の昼食を入れても、ウルツを経由して、午後3時にジュムラ空港アンテナ横のホテルに入りました。





ララ湖への迷い道

2007-09-08 02:30:18 | トレッキング・釣り・テニス
プロジェクト地には3日間だけで、今年は、
デリチョール村からジュムラへ戻る途中のウルツウ村から北に分岐して、ララ湖へ向かいました。

情報が少ない、西ネパールトレッキングです。
行きに2日間、帰りに2日間が通常と現地で言っていましたから、そうすることになりました。
ポーターは、支援している学校を卒業したP君が引き受けてくれました。

渓流沿いに進み、明るくて広い農地を持つパドマラ村2900mを過ぎ、
急登し草原状のカリ・ラグナ3550mを越えたガンファ・ラグナでチャ、
雨になったなか、シンジャ河沿いのニアウエ2660mへ駆け下ったのが第1日目。
3軒在った「ホテル」のうち、新しいほうに泊まりました。
7時間の歩き。
ネパール人20ルピー、外国人100ルピーでした。

2日目は、6時過ぎにネパール人のようにチャだけで早立ちし、
大岩ノ下に1軒のホテルがあるカブラを過ぎ、
ボタンへの分岐となる谷あいのチョータ2770mでチャ。ここにはホテル数軒、警察のグループが、暇そうに退屈そうにいました。
急登を続けて、ブルブレ3130mで昼食。

そこで、地元の人から「ララ湖へは普通には6時間、ほかにショートカットがある」と言われて、それに従って、ポーターたちの知らない道に入り・・・

事件!となったのでした・・・

道を樹林の中で失い、何とか戻り・・・(1回目)
ようやく草付きで急峻な稜線に出るも、ララは見えず、
1時間半、エーデルワイスやブルーポピーが迎えてくれる中を、気分を直して歩いて、
4025mの無名峰のコルをのっこして、
!!!
初めて、ララを見下ろすことができたのでした!

感動・・・!
台地にのっかって、緑で水が止められているような、はじめて見る光景。
はるか遠くにはチベット国境の山々・・・

ここで既に午後5時半。
高度差1000mを明るいうちに下りたいと飛ばしました・・・
はじめは尾根筋を下り、それが斜面になり、
6時半、足元が見えにくくなり、ライトを出し・・・歩いていくと、
!!!
道がなくなってしまいました(2回目)

人間の生活道と、牛や羊など、放牧されている動物の踏み跡が、闇の中を数mしか照らさなライトの光だけでは、判別しにくいのです・・・

それでも平らな草地に出て、ふみ跡もあり、湖面が見えて、ひと安心・・・
進んでいくと、

まだまだ、そうとうの距離を、湖との間の雑木のヤブ漕ぎをしなければならないことがわかりました。(3回目)

ぬかるみに足が埋まり、
顔には小枝がぶつかり、
小渓流に足を滑らせ・・・
ようやく湖畔の周回道ーポーターいわくーに出ることができました・・・
午後8時半。
ここで村に泊めてもらう場合を想定して多めに持ってきていた、食料で腹ごしらえ。

そこから、またまた歩くこと・・・結局、1時間半、
それでも平坦な道で疲れは感じない・・・
すでに明かりが落とされて、すっかり闇となった小屋の影が見えて、
ドアをたたき、反応がないので諦めて、先へ行こうとしたところで、ようやく起きだしてきてくれました。

ストーブにマキの火を起こしてくれて、
ぼくはビールで、一息をつき、
ポーターはやっぱり、ダルバートを作ってもらい
すっかり濡れた着衣を脱いで、並べ・・・

寝袋に入ったのは深夜12時でした。
歩行時間、16時間!!!