心理学オヤジの、アサでもヒルでもヨルダン日誌 (ヒマラヤ日誌、改め)

開発途上国で生きる人々や被災した人々に真に役立つ支援と愉快なエコライフに渾身投入と息抜きとを繰り返す独立開業心理士のメモ

18年間継続するNGO

2007-11-24 01:49:47 | 国際協力・現地NGO分野
ネパールで1989年から活動を継続しているNGOの中心でガンバルKさんと、帰国前日の忙しいなか、話す機会がありました。

現場は見せてもらっていたし、
スタディツアーの熱心さを感じていたし、
労組活動から生まれた協力と聞いていたし、
親近感を感じながら、質問もさせてもらいました。

6つの学校建設や、奨学金支援などが主な活動です。
18年経つ今では、すでに大人になっている支援を受けた人々もたくさんいます。
支援者には、写真の多い通信を送るほか、「子どもからの手紙」「成績」「写真」「ビデオレター」を届けるという工夫があります。
ネパール側の人材を日本へ招くときの宿泊先になってもらうこともそうかな・・・
現地でも「ネパール人の支援者開拓と獲得」「高等教育への経済支援は貸付制」などユニークな工夫が生きています。

・組織運営は無償ボランティアだけ。
・会費は組織維持分のみで、現地活動費は寄付に負っている。
・定年退職者の参加が増えて、500余名の会員。
などを新たに知りました。

国際協力場面で、素人性を捨てず、多くの人々が参加しやすい工夫を継続していたんだと、ぼくは了解しました。
すばらしい!
そして、Kさんからは「ネパールに有効な協力は何だと思うか」と尋ねられました。
確かにネパールでは、教育を受けても、就職の機会は限られているのです・・・

ぼくは「学校だけでなく、会社も作るのはどうでしょう」と言いました。
社会に経済成長がないと、教育は豊かさを求める人々に結果?を提供できないというのが、途上国の現実だと感じているからです。
あるいは、そうした社会における教育は、欧米を真似て、知識の獲得や人格の成長?を的にすることだけでなく、起業や経営初歩も含むべきなのかも知れないと考えています。


ネパール人政治家の国際NGO評価2つ

2007-11-23 23:30:50 | 国際協力・一般
今朝の Himalayan Times は、外国からネパールにやってきているNGOについての2人の政治家の発言を紹介しています。

まず、(確か、9月に辞任するまでは国際NGOを所管している省の大臣だった?) マオ派のDev Gurung の、記者クラブのプログラムでの発言です。
「どのように設立されたNGOであれ、ドナー国の利益のために活動している。」
「人民の参加で国が作られたときと、全体主義の時代が終焉したときのみ、その腐敗はコントロールされる。」

ネパール会議の Dr Prakash Sharan Mahat は、全てのNGOが国内で透明ではないので、
「NGOをまず、透明で、説明責任のあるものにしよう。」

その背景として、社会保障評議会事務局長 Jayendra Shrestha は「ネパールで活動している半数のNGOしか、評議会に加入していない」と言っています。

以上で引用終了。

支援する側の事情を考えて見ます;

支援を受ける側の国の役所に団体登録は(半数くらいは)しても、
支援を受ける現地への協力団体としての活動報告となるとほとんど、やっていないでしょう・・・ね・・・

「貧困な現地を支援することに集中したい、行政への登録や報告に使っている時間もお金ももったいない、自分たちが支援するはいいことに決まっているから」などと考えている人々は、この業界に登場してくる中には、まだまだ多い印象があります。

あるいは、資金や薬品を重ねて提供しに来ているのに「自分たちはNGOではない」という人がいたり、
「メンドウなことは任せるので、お金だけ受け取って」と言う人とか、
こういうのは、まだまだ少なくはありません。
社会的な行為であることを認めたくないのでしょうね・・・たぶん。
多くの場合、間に立つ人だけが潤っていって、結果的に騙されていきますが・・・

国際協力を、相手社会のシステムを重んじた上での外国からの支援的な介入だ、と言い換えれば、みなさん納得すると思います。
きっと、対象社会の把握が弱いということも、背景かもしれません。

日本の場合、NGO側からの国際的な支援に関する情報提供をする公的機関は既にネパールにはあるので、そこはどう考えているのだろう・・・?






とろろ芋が出始めました

2007-11-22 15:55:01 | ネパールでの生活
カトマンズの寒いシーズンの楽しみのひとつは、とろろ芋があることです。
摩り下ろすと、粘っこい・・・あれです。
ここのは、手のひら型ではなくて、長いも型です。

空気に触れると紫色になってしまう種類と、そうならず白いままのものがあって、外見からの区別は困難で、去年は摩り下ろすまで、賭け!でした。
しかし!先輩駐在者から、買うときに爪ですこし引っかいてみるんだヨと、秘策を教えてもらいました。

ここ3日間、頭痛と、発熱と、寒気と、朝にはウミの混じった鼻汁と痰が少しでて、病人していました。
はじめは総合感冒剤、熱さまし、ここ2日間は抗生物質と痛み止めで対応していました。
ただ、唾を飲み込んでもノドにはまったく異常なく、快便のままで、カゼでも食あたりでもなかったみたい・・・
なんだったんだろう・・・?

復活した今朝は、とろろかけご飯をおいしくいただきました。

それと、現在、カトマンズでは日本製しょうゆの在庫がなくなっています。
レストランの人たちは、たいへんみたい。
ぼくたちは帰国者から頂いた「刺身しょうゆ」を大事に使っていますが、中国製のものは真っ黒になってしまうことがわかったので、こちらの農場製の「さくらしょうゆ」にも挑戦しています。

海なしネパールでは、海産系は、貧困だし、あってもとても高価です。
ヒマラヤを見上げながらの、カキ鍋なんて、いいなあと思うんだけど・・・

ここ3日間、カトマンズ盆地からヒマラヤがよく見えています

2007-11-18 19:48:09 | ネパールでの生活
先週金曜午後にパタンのJICA事務所でJICA-NGO学びの会があって、その帰路に、
北側の西から東に、ガネッシュ・ヒマールからゴサインクンド、ランタンリルン、シシャパンマとその前衛鋒などなどが、シバプリから頭を覗かせ、
夕日に映えているのを見ました。

輝く白色が、オレンジやピンクに染まっていき、とても神々しく感じました。

ネパールに住んでいるんだなあと、実感する日々です。
フリースの襟を立てて、冬が近づいていることを感じています。

いつまで続くか・・・?
今日はカトマンズ盆地のガスにやや霞んできたかな・・・

10年かかったPhD

2007-11-15 23:27:16 | いろいろ
PhD合格の通知をきょう受け取りました!

1998年に入学して単位取得に入り、途上国駐在の合間に、たくさんの指定図書を読み課題レポートを書きました。

そもそも学位の必要性を感じたのは、開発途上国支援生活に入ってからでした。
弱者に寄り添って支援していきたい・・・当然、反権力という姿勢に共感を持ってきたものとして、権威にはなるたけ背を向けて生きてきたつもりでした。
しかし・・・開発分野で国際機関や国際NGOの外国人スタッフたちに、自分が専門家として登場して話し合うには、学位を持っているという形が当たり前でした。
修士と博士では、赴任国で、担当する地理上の広さや行政単位が異なる組織とも出会いました。
これは取るしかない・・・ぼくに現実的なのは通信制大学院でした。

修士は幸い2年足らずで取れました。
指導教官からは、レポートの根拠となるデータが古いので、新しいものに当たるよう・・・と、指摘されたこともありました。
というのは、そのときはテキスト代がもったいなくて、20数年前の学部時代の記憶や本棚で埃をかぶっている本に頼ってレポート作成をしていたからで、それでもおよそOKなんだと・・・妙な自信をもったり、
たしかにあの時代、ぼくのいた大学心理学教室は、専任教員4人に学年7名の専攻生でしたから・・・
サボるなんてありえず、みっちり、絞られたかいがあったんだと思い起こしていました。

そして博士論文作成のOKが2004年に出て、自信作ができたので簡易製本して提出したら、書き直し・・・ようやく受領となったのは2005年9月でした。
ちなみにタイトルは「内戦後のカンボジアの人々の精神保健に関する臨床心理人類学的研究 -精神保健意識と説明モデルに関する調査から開発途上国の精神保健ケアを考える-」です。

10年がかりになってしまいました。
さて、この年になってしまって、今さらぼくのPhDがなんの役に立つのかは、今後の課題です・・・!

もうひとつ、いわゆる「学位商法」批判の動きは知っているつもりですが、
ぼくの在籍した米国通信制大学は、そのレポート添削のいい意味での執拗さや、必要単位数などからして、そうした批判は当たらないと感じています。

長かった休暇期間が終了

2007-11-11 14:51:39 | ネパールでの生活
今年は10月中旬から始まったダサインーティハールの休暇が今日で終了です。
田舎へ戻っていた人々も職場や学校へ戻ってきて、普通の日々に戻ります。

きょうの旅行者の街タメルでは、薄焼きピザの「ファイア・アンド・アイス」も、現地素材を使って努力を続ける日本食の「桃太郎」も、韓国人の多い「キムチハウス」も、休みでした。
これはバンダのとき以上の、閉じ具合かもしれません・・・

それで最終日のきょうは、バイティカの日。
妹や姉などから額に赤いティカを付けてもらいます。
去年は知人のライ族の家庭に招かれたことを想いだします。

ティハールの3日間は、
黄色のマリーゴールドの花輪が吊るされ、
夜には建物がいくつものオイルランプや電飾などで飾られ、
豊かさをもたらすラクシュミ神を自宅に招き入れる、花模様のデザインとともに足跡模様が、女性の手で床に書き込まれます。
光で華やかになった街が幻想的に現れます。

ぼくは昨年と、2回目のティハールになります。
住んでいるホテルでは、オ-ナーの一人娘が、今年はインターネットから取ったというハス様のきれいなデザインを書いていて、宿泊客はカメラを持ち出すなど、大喜びでした。

今年は事件発生!
あちこちの家でこの期間に楽しまれる花火や爆竹ですが、たまたま付きの悪い「ねずみ花火」にライターで火を付けようとしたスタッフのS君が、持っている手の中で突然起こった火花でやけどをして、B病院の救急に行く騒ぎが起こってしまいました。
花火を、人に向けたり、集まってくる近所の子どもに投げつけてみたり、乱暴な振る舞いが普通に行われていて、外国人客は口々に心配を言っていたところでした。
いつも明るくて気の利くS君ですが、両手に包帯を巻かれて、すっかり意気消沈して弱弱しく痛みを訴え、また食事を戻してしまうなど、見るからに病人になってしまいました・・・

花火遊びをするときには、やっぱりろうそくから火は取ったほうがいいんじゃないかな・・・

ベニージョムソン道路の現状は?

2007-11-08 12:13:42 | トレッキング・釣り・テニス
留守にしていた期間の新聞がまとめて届いたので、拾い読みをしています。

10月24日の Himalayan Times は、ベニからジョムソン78KMの道路建設は、残すところあと3Kmとなって、11月16日に終了予定と報じています。

昨年春に行ったときには、ティプリヤンーレテの間がいまだ工事中でしたが、ジョムソンーレテの間にはバイクタクシーが10数台あって、空港前で待ち構えていました。
今年9月には、タトパニあたりに建設された道路ががけ崩れで、急峻な山肌を微妙なバランスで迂回する必要があったと、知人から聞きました。

どなたか、現状をご存知の方はいらっしゃいませんか?
道路ができているとすると、もうモト・タクシーも、全区間で走っているのでしょうか?

このシーズン中に、タトパニ温泉ームクチナートのトレッキングを予定しています・・・

ぼくの現代エジプトの印象

2007-11-07 00:40:19 | 
カイロやアレキサンドリアなどの都市に居ると、一定の豊かさのある社会と感じました。
古いけれどもビルの続く街並み、広い道路、汚れた服装の人は見かけず、地下鉄はあるし、夜の人並みは多い。

しかし、UNDPの Human Development Index 2005では119位でしかありません。GDPは3,950ドルです。
月当たり給与は5000円程度の人が多いと聞きました。

イスラム社会特有の男性社会です。
女性は、スカーフで頭髪を覆い、手足を露出していません。
人口の10%程度といわれるコプト(キリスト)教徒や、都市部でのみ、上記のようではない女性と出会います。

朝11時頃から午後3時頃まで、そして午後6時過ぎから9時頃まで、というのが多くの商店の営業時間でした。
イスラム社会なので金曜休み。

市販されているガソリンは、1リットル1ポンド(20円)と聞きました。
バスや列車は1日乗る距離で600円程度、地下鉄は1ポンド、路面電車は0,25ポンドでした。
産油国の強み!

市街地を離れると、クルマは少なくなり、ロバが荷車を引いて物資や人を運んでいるのをよく目にします。

現在のムバラク大統領は20年を越えて、その座に安定して居る、ただ後任者探しが課題とか。

数年前の爆破事件以来、外国人旅行者の乗るバスや列車は、武装したツーリストポリスによって護衛されています。
長距離の移動は、コンボイ(車列)を組み、前後を部隊に守られての移動でした。

建築中のホテルや家を見ることはまれで、走っているクルマは基本的に大変古い。
経済成長は、そうないのかもしれない。

ピラミッドや遺跡の観光にくるのは、外国人ばかりで、エジプシャン(エジプト人)は関心を持たないと聞きました。
(たとえばカンボジア人はアンコールワットにとても行きたがるのに)
紙幣には、そうした遺跡がたくさん並んでいるんだけど。

日本の3倍の国土に、日本の半分の人口。
ナイル川とそのデルタ沿いと、いくつかのオアシス以外は、農地は見えず、人が住まない砂漠か荒野。

障害を持つ人の物乞いに、街中で会うこと数回。社会保障制度は?

英語を理解する人は少なくない。英国の支配の歴史の影響だろうか?
英字紙は2紙?

代金以外にバクシーシやチップの必要な社会。
日本人にはちょっとメンドウ。

公共交通やベンチなどでは、女性や高齢者には、座席を譲る人が多い。

中高校生は初歩の英語を使って、照れながらツーリストに話しかけてくる子もいる。
そしてペンを欲しがる=Do you have pen?
すれ違いざまに Welcome to Egypt などと声をかけてくる子供や大人も少なくない。
純朴なのだろうか?

写真は、アスワンハイダム横に移築されているアブシンベル神殿です。
すごい数のツーリストです。

エジプトのアルコール事情

2007-11-06 21:33:52 | 
今回、初めてのエジプトへの旅の前に、できれば欠かしたくない、寝る前のお酒は現地で手に入るだろうかと心配していました。
イスラムの国なので、住人たちは飲まないし、また公然とお酒は売っていないわけです。

パキスタンやバングラデシュでは、特定の業者に頼んだり、それなりに苦労して入手したり、手に入ったけど、もはやアルコール成分は揮発してカラメルになってしまったビールしか手に入らなかった経験があります。

そこで入国時にはトランジットのバーレーンのデューティーフリーでスコッチ1本を購入して持ち込みました。

その後、アスワンのスークで、
エジプト産ビールのステラを330m缶を15ポンド=約300円、エジプト産ウイスキーを100ポンド=約2000円で購入(ぼられてる!)

ルクソール駅横のアルコール販売店で、
ステラ330m缶を6ポンド、500m缶を7.5ポンドで購入。
ルクソールのESホテルで、
地元ウイスキーを85ポンドで購入(まだ、ぼられてる)。

アレキサンドリアの夕方開く酒屋で、
アルコール10%のビール、サカラ500m缶が8ポンド(まだまだ・・・)。

カイロのタフリール通りの夜だけ開く酒屋で、
ステラ330m缶は4ポンド!
サカラ500m缶は6ポンドでした・・・

つまり、普通缶は80円というのが元値のようです!

これからエジプトに向かうアルコールから離れられない旅行者への情報提供です・・・

写真は、砂漠の中の温泉、ビルワヘダです。よかった・・・





エジプトで訪れたところ

2007-11-06 20:49:16 | 
カイロに入り、考古学博物館。
早々に、ツタンカーメンの金色の遺品と、数部屋に及ぶその個数に驚く。
若き日々の心理療法トレーニング中の日に途中下車して何日か通った大英博物館のミイラ展示は、ここと較べものにならないんだと想起。

ダフシュール、メンフィス、サッカーラ、ギザのピラミッド巡り。
韓国人青年たちとのクルマ乗り合いで、砂漠の中のピラミッド群を順繰りに訪ねる。4500年前?日本は縄文時代!
奴隷制がないとこれは作れないと、その大きさにアングリ・・・
最終のギザではもうぐったりして、スフインクス・3ピラミッドを夕陽の中に眺望できる評判のピザハットの冷たいコーラに大満足・・・

スリーピングトレインでアスワンまで。
夕朝食付き、2段ベッド2人部屋。
タイの寝台列車に似てるかな、ぼくは窓の中の街の灯りを見るうちに爆睡!

ツアーに入って、砂漠の中の道路300Kmを走ってアスワンハイダム建築で移動したアブシンベル神殿へ。
高校1年生の頃、友人がこのユネスコが音頭をとった移動について熱く語っていたことをきのうのことのように想いだしながらの1日でした。

ルクソールへの全食事付個室3泊のナイル川下りクルーズ。
これも移築されたイシス神殿、そしてコム・オンボ、エドフに寄る。
ナイル川沿いに西暦元年前後頃に作られたコム・オンボ神殿の壁に、人類最初と言われるらしい医療機器の彫り物や座産の出産シーンを見る。
駐在地近くにあった、同じ出産シーンのあるカンボジア・バイヨン遺跡は、9世紀だっけ?古さの違いに脱帽。

遺跡観光にフェドアップ気味って言ったら、この長い人類の早い時期の歴史に失礼だろうなあ・・・
4日間、同じ食事テーブルになった、カナダ・トロントからのちょっと派手な仏語博士と彫刻家のマダム二人連れとはまたアレキサンドリアからの列車で再会!オランダ軍の退役兵士は、甲板にある卓球台でぼくのペン・ホルダーグリップを直させようと、おせっかいな忠告しきり・・・

列車とバスを、カイロ・アレキサンドリア・マルサマトルーフで乗り継いで、
アレキサンダー大王が紀元前3世紀に進軍したという砂漠の中の同じ道に想いを巡らしながら、
夜8時には、照明のなかに土で作られた廃墟の街シャーリーの朽ちかけた壁が折り紙のように浮かび上がる、西部砂漠のオアシスの街シーワへ到着。
期待していたホテル内のプールは冷泉!足先だけを付けて退散・・・

4WDチャーターの砂漠キャンピングツアーで、何の踏み跡もなく風紋だけの砂漠の大きさに、また時速100Kmで疾走できる広大さに、ただただ興奮。
使った4駆は、カンボジア駐在時代に使っていたニッサン・パトロールで、とても懐かしかった。
夕方にビルワヘダの、待ちに待った温泉に到着!
今まで人に半日間会わなかったのに、ここには続々と約10台の4駆が終結してきて、公衆浴場状態になってしまった。

アレキサンドリアでは連泊して、
久々の、海の風景を見下ろすホテルのベランダ、
ヨーロッパ風の街並み、
2日通った地中海の魚料理、
ユークリッドも通ったという大図書館、
古風な路面電車、
ちょっと粘っこいエジプト・アイスクリーム、
鮮やかな色の生フルーツジュース、
ついでに髭の手入れに手馴れたエジプト床屋などを楽しむ。

カイロに戻って、
ちょっと慣れてきた地下鉄を使って、オールドカイロの原始キリスト教のコプト博物館だけをゆっくり訪問。
みやげものヤを冷やかす・・・
生魚と出会えないネパールに戻る前に、シェラトンの日本食レストランへ行って、生寿司を奮発・・・
タフリール広場を見下ろすベランダから、車の流れをぼんやり観察していた日々。

ほんとうは、シナイ半島へ渡って、紅海の澄んだ海と、モーゼ10戒のシナイ山も考えていましたが、諸般の事情で割愛しました。

写真は、4駆チャーターで出かけた、シーワ近くの砂漠でのキャンプです。

ネパール、寒いです

2007-11-06 18:55:31 | ネパールでの生活
カトマンズ寒いです・・・
ベランダのポインセチアの葉が真っ赤に色づき始めています。

今、昼26℃ー朝晩12℃です。
先月に出発した頃は、26℃ー18℃でしたから。
室内でもフリース・靴下を取り出して、上下を固めています。
シーツだけ掛けていたのが、薄い布団は必要に。

出かける前にセットした、グッピーの水槽のサーモスタットは約24℃で点灯中。
窓を開け放っているのは昼だけになりました。
そのうち、ひなたぼっこと石油ストーブの出番がやってきそう・・・
ただ、出かけてちょっと歩くんだったら、Tシャツで十分なんですね!今日のぼくの大使館への行きも、これでした・・・
これが、日本とはちょっと違うカトマンズの秋冬です。

エジプト南部のアスワン、ルクソールや、西部砂漠の中のシーワでは、灼熱の炎天下の中の移動でしたから。
ナイル川デルタにある首都カイロや、地中海に面したアレキサンドリアは、涼しかったとはいえ、部屋の中ではTシャツ短パンでした。



エジプト旅行から戻りました!

2007-11-05 03:21:34 | ネパールでの生活
1年半を過ぎたカトマンズの生活から離れて、4000年余の歴史を訪ねた3週間の旅行から、予定通り元気に戻りました。
この住まいの入り口ではオーナーから「すこし太ったね」と声をかけられました。口に合ったトマト風味の料理を食べ過ぎたかな・・・

昨夜にカイロの安ホテルをタクシーで出て、この早朝3時過ぎに空港を出発し、バーレーンで乗り継ぎ、カトマンズには夜8時前に着きました。
そいて、貯まった洗濯物をバスタブに水を張って浸し、届いていた情報の整理を始めました。

個人的には、
ジュムラの若きネパール青年からの迷いながら将来を見つめた郵便、
原稿を書いたNGOからの通信数部、
300余の個人宛とMLのメイル、1200余の迷惑メイル、
そこには、前の派遣地で一緒だった友人3人からの、ジャマイカへ行くことになったとか、設計士生活に戻っているとか、第3子の出産のために帰国するなどという懐かしいもの、
親族の遺産手続きの進行状況についての姉からのもの、
友人の母が鬼門に入った知らせ、
関係学会の運営の知らせ、
付き合いのあった病院の事故について管理者が起訴されたという情報などなど、
日常に戻されています・・・

社会の動きでは、
ネパールでは共産系政党の連携が成立して、完全比例代表制と共和制への手続きについて、きょう議会決議がなされたこと、
民主党小沢代表の辞任と、それへの困惑情報、
中日落合監督の日本シリーズ制覇後の自信に満ちたインタビュー・・・
時々英字紙を買って知るように努めていましたが、きょうの事件には驚き!

旅行中のことについては追って書きますネ・・・