ポエトリー・デザイン

インハウスデザイナーが思う、日々の機微。

無印良品、ワイングラス。

2008年05月19日 | blog



無印からこのワイングラスが発売されたとき、「ああ、これはジャスパー・モリソンの、スーパーノーマルなワイングラスのレプリカだな」とおもいました。
「季節の品のお買い得」になったこのグラスを見て、「これはいちおう、つれて帰っておこう」とおもって購入しましたが(450円)、よく見ると違ったようです。あっはっは。

スーパーノーマルのワイングラス…といってもピンと来ないひとがほとんどだとおもいます。
これです。



それでも意味がわからないひとのために、以下を。

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あれは2005年のサローネの期間中、ミラノで奥谷孝司とお茶を飲みながら、無印良品で進行中のプロジェクトの打ち合わせをしていた時のことだ。僕はアレッシのカトラリーを例にとって、このようにデザインを省いてゆくアプローチが、これからの方向だと感じていると説明していた。深澤直人がマジスで作っているアルミのスツールを見た後だったので、それらがいかに特別の「普通さ」というものを湛えていたかを伝えると、奥谷は「スーパーノーマルだね」と相槌をうった。それだ。それこそ、これまで水面下で動いていたものへの命名だった。デザインの今こそあるべき姿を完璧に抽出した言葉だ。

少し前、僕は重い吹きガラスのワイングラスをジャンクショップ(がらくた屋)で買った。最初はそのカタチに気をとられていたのだが、毎日グラスを使ううちにじわじわと、それは姿かたちがいいというだけのものではなくなってきた。いつしか、カタチだけではない存在の仕方があることに気がつくにいたった。たとえば、別のグラスを使うと、テーブル周辺の空気に何かが足りないと感じる。そして、例のグラスを使ったとたんに、あの雰囲気が戻ってくるのだ。ワインがたいしたものでなくても、呑むひとくちごとに楽しみがある。グラスが棚にしまってあるのを見ても、なにかいい感じのものを投げかけている。ものの性質のなかでも、このような雰囲気を作るスピリットの要素はひどくミステリアスで、とらえどころがないものだ。これだけたくさんのデザイン製品がありながら、本当に有意義な雰囲気への効果がもたらされていないのは、いったいどういうことなのだろう?しかも、デザイン的思考などまずないまま、普通のワイングラス以上のものを求めないで作られたものの方がうまくできているというのはどういうことなのか?このことは長い間、僕を当惑させ、グッドデザインの構成要件は何かという僕の考え方に影響を与えてきた。それからは自分のデザインをこのグラスのようなものをモノサシにして測りはじめ、目にとまらないデザインになってもかまわないと思うようになった。事実、それからは目立たないことが要求されるようになってきた。
かつてデザインなどほとんど知る人のいない職業だったが、最近では強力な汚染源になっている。ぴかぴかのライフスタイル雑誌やマーケティング部署などの功もあって、色や形、珍しさ(サプライズ)を駆使して、いかに目立つかが大きな競争となっている。そもそもデザインとは歴史的に、産業に寄与し、大衆の悦楽的消費を促し、理想を手繰れば、使い方を認知しやすく、また生活がよりよくなる、という目的があったのだが、それはどうも脇に追いやられているようだ。デザインウイルスはすでに日常生活の環境を蝕んでいる。ビジネスのためには、人目を引かなくてはいけないというニーズがこの病の完璧な保菌者を育てているのだ。デザインが施されていると、ものがなにか特別のように感じられる。特別なものが手に入るのに、誰が「普通」のものなんかほしがるだろう?それが問題なのだ。また時間をかけて自然に、無意識のうちに成長したものが、簡単に他にとって代わられるべきではない。たとえば昔からゆっくり発展し、さまざまな商品やサービスを提供する店が並ぶ商店街の「普通さ」はとてもデリケートな有機生命体なのである。古いものがとって代わられるべきではない、とか新しいものが悪い、などということではなく、人々の歓心を得るためにデザインされたものはおうおうにして満足のゆくものになっていない、ということだ。特別な見え方がするように大きな努力を払うよりも、もっと望ましいデザインの方法があるはずだ、ということなのだ。たいていの場合、「特別」が「普通」のものより役に立つことはない。長期間のスパンで考えるとその報いや甲斐もない。特別なものは誤った理由により注意を喚起する。その場に添わない存在感でいい雰囲気を邪魔するのだ。

このワイングラスは、「普通さ」を超えており、「普通」を超えた次元の兆しを覗かせる。もちろん「普通」ということに何も間違ったことはない。ただ、「普通」ということは昔、もっと自意識が低かった時代の産物だった。近年デザイナーが登場し、古いものを新しくして、なるたけよいものに入れ替えていったのだが、そこには「普通」が持っていた無心の貢献が欠けている。このワイングラスやさまざまな過去のものから、スーパーノーマルという存在があることが明らかになってきた。それは幽霊にペンキをスプレーしてその姿を顕すようなもので、そこにいる、あるのは感じるけれど、目には見えないという感覚だ。スーパーノーマルなものとは、毎日使うものを絶え間なく進化させ続けてきた営みの成果であり、形態の歴史を打ち壊そうなどという試みではない。むしろ、ものの世界でその収まるべきふさわしいい場所を知り、その歴史を集約しようと努めることである。スーパーノーマルは「普通」を意識的に代替しようとするもので、時間と理解を要するだろうが、毎日の生活に根づいてゆくはずだ。

ジャスパー・モリソン(訳 伊東史子)


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2005年の4月のミラノサローネで私はアルミのスツールをマジス社から発表しました。
会場に出向いて展示を見たときにそのスツールはブースの隅に3脚置かれ、他の展示物にスポットがあてられて注目を集めているのとは対照的に、会場めぐりで疲れた見学者の休憩場の椅子になっていたのです。展示物とすら思われていなかったかもしれません。私はその光景を見てちょっとショックでした。そして少し落ち込みました。普通に誰もが使ってくれるスツールをデザインしましたから、いろんなところで使われるだろうと予測していました。そしてたくさんの人が買ってくれるのではないかとも思っていましたから、展示品として注目を集めるどころか、休憩としてためらいもなく使われるということは、むしろねらい通りじゃないかと自分を納得させようとしましたが、その華やかなステージ上の前では、そこまで割り切った理解をするのは難しいものがありました。その夜、ジャスパー・モリソンから電話があり、わたしのスツールを見たと言ってきました。彼はちょっと落ち込んだ私とは対照的に、いいものを見つけてうかれる子供のように、「あれこそスーパーノーマルだ」と言いました。それはちょうど彼が「スーパーノーマル」という言葉を見つけた日だったのです。どこぞのカフェで彼が奥谷孝司君と彼のアレッシのカトラリーの話や、その日に見た私のスツールの話やらをしていたときに、奥谷君が思わず「スーパーノーマルだね」と口走ったらしく、実はその言葉が、彼がずっと思ってきた「ふつう」という概念魅力を的確に表したものだったのです。だから彼はそれを見つけたことにちょっと興奮していたのかもしれません。

デザイナーは一般的に「ふつう」をデザインしようとは思わないものです。むしろ「それ、ふつうだね」といわれることを恐れている。まずは、「ふつう」という日常の心地が無視しようとしてもできないくらい人間の中に自覚のない感覚として備わっている。それをデザイナーは見ないようにして、むしろ慣れ親しんだ心地よりも、刺激をつくり出そうとしてしまいがちで、「ふつう」=刺激のない、つまらないデザインというふうに思ってしまうのです。いや、デザイナーだけではありません。それを買う人も、デザイナーにデザインを依頼する人も、デザインという概念のもとに「ふつう」を求めたり、つくりだそうという意思ははたらかないものです。ですから、そのようなデザインの一般常識のなかで、「ふつう」をあえてデザインしようとすること、そのデザインされたふつうを、ノーマルを超えたノーマルということで「スーパーノーマル」と言うのです。なぜスーパーノーマルなのかというのは、ノーマルという感覚がないデザインという領域のなかで、あえてノーマルをデザインするという過激さというか、強さというか、真っ当さというか、その裏切りに対する驚きみたいなものをスーパーノーマルという言葉によって表現するのです。「ノーマル」とは成ってきたものの姿であって、「スーパーノーマル」とはその成ってきたものと同じくらい「ノーマル」にデザインされたものということになります。ですから、「スーパーノーマル」はアノニマスなもののことではありません。作者の意図があってデザインされたものなのです。しかし、その意図は「ノーマル」なものをデザインしようとすることではなく、必然的にそう成っていくという流れに逆らわないでできあがったものというふうに言えるかもしれません。

「スーパーノーマル」はむしろデザインされた美しいものというよりも、一見みのがしてしまいそうな、しかし、生活の中で無視できない要素をそなえたもの。「かっこいい」とは称せないもの。むしろ「ださい」と思えてしまうようなものでも、何か魅力があるというものなのではないかと思います。新しいデザインを期待してそのものを見たときに、「え~、これぜんぜんふつうじゃん」とか「これちょーふつうじゃない」とかいうような、ネガティブな印象が、そう言っているそばから変わって、「いいかも」というふうになる。気持ちは否定から入ったのに、それとは反対にからだのセンサーがその魅力を今まで知っていたかのように立ち上がって、その魅力に取り込まれていく。掘り起こされてはっと我にかえるような感覚を持ったものが「スーパーノーマル」なのです。

私たちはスーパーノーマルだと思えるものがいったい何であるかを探してみたいのです。集めてみたいという興味があるのです。「ださい」と思っていたものの中にあった魅力を再認識する喜びを一緒に味わいたいのです。
私たちはこれが「『スーパーノーマル』な製品です」というふうな、製品にデザイン賞のラベルをはるようなことをしようとしているのではありません。無視できない魅力。デザインというスペシャルを求めていた自分が、はっと我にかえるような気付きと驚きを共に味わうことによって、自分たちが大切にしてきた何かを再認識し、今、はまり込んでしまっているデザインパラダイムから抜け出そうとしているのかもしれません。今のデザインは「スペシャル」をつくろうとしてしまっています。人々はデザインと聞いてスペシャルを期待するのがあたりまえだと思っています。その際、作り手と受け手は一見合致されているようにも思えますが、実は双方が生活とかけ離れた夢遊の中にいるのです。自分の気持ちに正直になれば「スーパーノーマル」は理解できるし、見えてくるのです。

深澤直人

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