key word:極意 高岡英夫氏 言語 左脳派人間
今日は
極意学入門 極意と人間
高岡英夫著
発行所 BABジャパン
を読み解いてみましょう。
高岡氏は『ゆる体操』の提唱者です。ネーミングはインチキ臭いのですが理論的背景は相当なモノです。『理学療法の捉え方Part4』に参考文献としても取り上げられています。私の臨床は彼の理論・技術にかなり触発されました。本当に様々な分野を学んだ人なら彼の凄さが分かるはずです。彼の著書は非常に多く、私も全て読めてませんが今後も継続して読み進めるつもりです。
---以下引用---
人の意識にはいくつかの『系』が存在すると、筆者は考えてきた。視覚・聴覚を基盤として成立する『視聴覚的意識』と体性感覚を基盤として成立する『体性感覚的意識(その略語として身体意識という語を考えた)』とである。人の意識は視聴覚的意識から身体意識の方向に極まること、脆弱で混沌とした状態から強力に構造が形成される方向に極まること、および人にとって無益・害悪をもたらすものから有益・優れた能力をもたらす方向に極まることの、都合三つの次元に極まることで[極意」となり得る。(中略)この身体意識は全身及び外部空間に様々な密度に張り巡らされることで巨大で複雑な構造を形成するのです。そしてこうした構造が形成されると、人には驚くべき様々な優れた能力が発現されるのです。この身体意識の構造とその機能全体を学間的に解明することができたので、私はそれにディレクト・システムという学問用語を創り、当てることにしたのです。
---以上引用終わり---
前回のblogでも書きましたが、左脳派(ここでは別に実際の左脳でなくても構わない)の人間は高岡氏のいう『視聴覚的意識』で世界を見て・動いている可能性が高いのです。これは認知心理学的に言うところの『遠い空間(眼球運動による制御・符号化)』の概念に近いものかもしれません。
少し話はそれますが皆さん、『姿勢制御の際の(主な)三つの求心情報』すぐ出てきますか?分からないひとは基礎運動学に立ち返ってみましょう。
さらに高岡氏は左脳派人間が得意な『言語』についても以下のように考察してます。
---以下引用---
人間にとって、言葉と形式による規則の体系たる『記号体系』を誰よりも熟知し、好みのままに操作できることで、他人に優越し、他人を思うがままに批判し、指示し、命令し、造り変えることは、とてつもなく淫廊で陰湿な楽しみをもたらすものなのだ。だがほとんどの場合、当の本人にその自覚はない。唯ひたすら当然の権力と責任の行使として、或は気高い情熱の発鎮として、行っている場合がほとんどなのであろう。音楽大学の教師やスポーツ指導者、武道・武術の師範に始まるあらゆる世の指導者の大半は、この真理・本質とはほど遠い『記号操作の戯れと拘束』の呪縛に陥ったまま生き、死んでいくのである。多くの人々は、結局解釈と形式の記号操作によってしか上達や学習はできないと考えているのである。それ以外の要素は先天のセンス・素質と『後は自らの直観によって自得するしかない』という悟りによって説明することで、諦めてしまうのである。
---以上引用終わり---
セラピスト界にあてはめてみると、他の団体、手技や考え方を非難する排他的な人間は上記のような勘違いをしているのかもしれません。しかも饒舌に物事を語る人ほど右脳的な感覚に欠け世界の半分以上を見落としているのかもしれないのです。世界はそんなに単純ではないはず。
私は畏敬の念を抱かずにはいられません。
『言語』は人類にとっての大きな発明ですが決して完璧ではないのです。もしかすると右脳的な人間味(本当の時間・空間の奥行感や愛情など)を低下させる悲しい欠陥品かもしれないのです。
しかも文字の歴史はあまりにも短すぎるのです。文字の発明は諸説ありますが数千年以上前にさかのぼります。しかし文字を使いこなしていたのは一部の限られた者だけです。多くの人(つまり大衆)が活版印刷技術以降の大量印刷の恩恵を受けるようになったのはつい最近のこと。
長い人類の身体的な進化(主に脳)の歴史からするとそのイベントはつい最近のことなのです。
言語で世界が分かるとは思い込まないほうが無難でしょう。書物を読み解く際には注意が必要なんですね。
私が読書量を落とし、本の変わりに道着に着替え道場に通うようになったのはこんな背景もあります。
事実は左脳だけでは分からないのです。しかも右脳を足した脳だけでも不十分なのです。
身体と脳、読書の際の注意についてはまた日を改めてアップしていきます。
今日は
極意学入門 極意と人間
高岡英夫著
発行所 BABジャパン
を読み解いてみましょう。
高岡氏は『ゆる体操』の提唱者です。ネーミングはインチキ臭いのですが理論的背景は相当なモノです。『理学療法の捉え方Part4』に参考文献としても取り上げられています。私の臨床は彼の理論・技術にかなり触発されました。本当に様々な分野を学んだ人なら彼の凄さが分かるはずです。彼の著書は非常に多く、私も全て読めてませんが今後も継続して読み進めるつもりです。
---以下引用---
人の意識にはいくつかの『系』が存在すると、筆者は考えてきた。視覚・聴覚を基盤として成立する『視聴覚的意識』と体性感覚を基盤として成立する『体性感覚的意識(その略語として身体意識という語を考えた)』とである。人の意識は視聴覚的意識から身体意識の方向に極まること、脆弱で混沌とした状態から強力に構造が形成される方向に極まること、および人にとって無益・害悪をもたらすものから有益・優れた能力をもたらす方向に極まることの、都合三つの次元に極まることで[極意」となり得る。(中略)この身体意識は全身及び外部空間に様々な密度に張り巡らされることで巨大で複雑な構造を形成するのです。そしてこうした構造が形成されると、人には驚くべき様々な優れた能力が発現されるのです。この身体意識の構造とその機能全体を学間的に解明することができたので、私はそれにディレクト・システムという学問用語を創り、当てることにしたのです。
---以上引用終わり---
前回のblogでも書きましたが、左脳派(ここでは別に実際の左脳でなくても構わない)の人間は高岡氏のいう『視聴覚的意識』で世界を見て・動いている可能性が高いのです。これは認知心理学的に言うところの『遠い空間(眼球運動による制御・符号化)』の概念に近いものかもしれません。
少し話はそれますが皆さん、『姿勢制御の際の(主な)三つの求心情報』すぐ出てきますか?分からないひとは基礎運動学に立ち返ってみましょう。
さらに高岡氏は左脳派人間が得意な『言語』についても以下のように考察してます。
---以下引用---
人間にとって、言葉と形式による規則の体系たる『記号体系』を誰よりも熟知し、好みのままに操作できることで、他人に優越し、他人を思うがままに批判し、指示し、命令し、造り変えることは、とてつもなく淫廊で陰湿な楽しみをもたらすものなのだ。だがほとんどの場合、当の本人にその自覚はない。唯ひたすら当然の権力と責任の行使として、或は気高い情熱の発鎮として、行っている場合がほとんどなのであろう。音楽大学の教師やスポーツ指導者、武道・武術の師範に始まるあらゆる世の指導者の大半は、この真理・本質とはほど遠い『記号操作の戯れと拘束』の呪縛に陥ったまま生き、死んでいくのである。多くの人々は、結局解釈と形式の記号操作によってしか上達や学習はできないと考えているのである。それ以外の要素は先天のセンス・素質と『後は自らの直観によって自得するしかない』という悟りによって説明することで、諦めてしまうのである。
---以上引用終わり---
セラピスト界にあてはめてみると、他の団体、手技や考え方を非難する排他的な人間は上記のような勘違いをしているのかもしれません。しかも饒舌に物事を語る人ほど右脳的な感覚に欠け世界の半分以上を見落としているのかもしれないのです。世界はそんなに単純ではないはず。
私は畏敬の念を抱かずにはいられません。
『言語』は人類にとっての大きな発明ですが決して完璧ではないのです。もしかすると右脳的な人間味(本当の時間・空間の奥行感や愛情など)を低下させる悲しい欠陥品かもしれないのです。
しかも文字の歴史はあまりにも短すぎるのです。文字の発明は諸説ありますが数千年以上前にさかのぼります。しかし文字を使いこなしていたのは一部の限られた者だけです。多くの人(つまり大衆)が活版印刷技術以降の大量印刷の恩恵を受けるようになったのはつい最近のこと。
長い人類の身体的な進化(主に脳)の歴史からするとそのイベントはつい最近のことなのです。
言語で世界が分かるとは思い込まないほうが無難でしょう。書物を読み解く際には注意が必要なんですね。
私が読書量を落とし、本の変わりに道着に着替え道場に通うようになったのはこんな背景もあります。
事実は左脳だけでは分からないのです。しかも右脳を足した脳だけでも不十分なのです。
身体と脳、読書の際の注意についてはまた日を改めてアップしていきます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます