武道・禅の心で臨床を読み解く(武道、禅、心理療法、ボディワークを学ぶ理学療法士)

21年間の運動指導・700冊の書籍からリハビリ・トレーニングを読み解きます。
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全ての現象は言語化できない(言語化して分かったつもりになる人への警鐘)

2011年11月30日 | コラム
 今回は先日放送された、爆問学問を武道・理学療法的にひも解いてみましょう。

 自然科学研究機構生理学研究所の生理学教授によると、
「脳は無意識のうちに記憶している」そうだ。
我々はものを見る時、網膜⇒視床⇒視覚野⇒頭頂葉⇒前頭葉の経路で「見えた」と認識している。その経路とは別に視覚野を介さず網膜⇒中脳上丘⇒頭頂葉⇒前頭葉で視覚刺激に反応できる経路がある。
 この経路は視覚野が破壊されると、中脳上丘が視覚野の役割を補う。
この機能は、大脳皮質をいちいち介さず起こる為言葉にはならず何となくという感覚しか生じない。無意識でものを見る能力で爬虫類などで発達している経路とされている。
意識されずに何となく沸き上がる感覚なので第六感と解釈される事もある。

 つまり、我々はかならずしも意識してものを見ている訳ではないのだ。意識する前に反応しているから素早い動きができる。スポーツなど認識するよりも早く複雑な動作が遂行されるのはこの経路の役割が大きいのかもしれない。また「映画を見ている観客が認知できない早さでコーラの画像を織り交ぜると、観客は自然とコーラが飲みたくなる」という例にあるような、サブリミナル効果もこれに該当するのかもしれない。

 我々の無意識のうちに行われている高度かつ自動的な運動は言葉にできない。箸でご飯を食べたり、字を書いたり、歩いたりなど言語化したり・意識をする事は実は困難だったり不可能に近かったりする。

 つまり、原始的な脳での学習も考える必要があるということだ。
武道では、無意識に技が正確に出せるということは本来誰しも実は始めから持っている、と考える。つまり忘れてしまっているものを思い出す過程が稽古であると考えるのだ。
これって、もしかしたら脳幹にアクセスする過程といえるかもしれない。ハエが飛んで来たらパクっと反応する蛙のように。
 ただの爬虫類になるのが武道か?ということではなく、とかく内的にお喋りし過ぎな終脳(大脳皮質)を適度に落ち着かせ、本来の自然を思い出す過程が武道といえるのではないだろうか?

 大脳皮質は進化の過程からしてごく最近の産物で脊髄や脳幹など他の中枢神経系との比率や制御機構などアンバランス極まりないのです。決して、皮質だけで人は語れません。

 更に言語は脳の進化過程からしても最近の産物。とても未熟なツールです。この世を全て言語化することはできません。内言語であれ外言語であれ、なんでも言語化できると考えるのはとても暴力的な考え方である、と主張する者も多い。

 皆さん、言語の限界を知りましょう。言語記述は大切で便利ですが、教科書や論文に全て答えがあると思ったら臨床で答えはで出てきません。人間・生物の歴史の深さもひも解く必要があるのです。

 一緒に武道の心で、真の臨床を読み解いていきましょう。

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