朝ドラ「虎に翼」の寅子が転勤で3年ぶりに東京に帰ってきたとき、猪爪家には電気洗濯機がありました。寅子が花江の家事を楽にするために買ったものだそうです。
時は1955年。
日本は「戦後復興期」が終わり、朝鮮戦争特需を経て高度経済成長期に入りました。
それにともない家庭にはいろいろな家電製品が入ってきます。白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」といわれたそうです。
「三種の神器」とは、日本神話において、天照大神(あまてらすおおかみ)が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けた三種類の宝物、すなわち八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の総称。
それを戦後に普及した耐久消費財(電化製品)になぞらえたものです。
わが家を振り返ってみると、私が生まれた1961年(昭和36年)、家は借家でした。
白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の「三種の神器」は揃っていたようです。
風呂は、戦争中、空襲に来た米軍機を撃ち落とすために、日本軍が発射した「高射砲」の薬莢(やっきょう)が直撃し、こわれたまま放置されていましたが、次男である私が生まれたのを契機に修繕し、「ガス風呂」がありました(戦前は薪でわかしていたそうです)。
電話は、ダイヤル式の黒電話。ただし、近所の家と「親子電話」になっていて、同時には使えませんでした。
1960年代中盤に入ると、カラーテレビ、クーラー、自動車(英語の頭文字をとって3C)が 「新・三種の神器」としてもてはやされました。
私の家にカラーテレビが入ったのが小学校3年生のときですから、1970年頃。といっても全ての番組がカラーではなく、カラー放送される番組には、新聞の番組欄に「カラー」と明記されていました。
クーラーはそれより遅く、1973年頃。これは、家族のためというよりもお弟子さんのためでした。当時、自宅で祖母が謡曲を、伯母が小唄を教えていたのです。
電子レンジもそのころだったと記憶します。
自動車免許をもっている家族がいなかったし、父は酒飲みで、運転する気がなかったので、車は買いませんでした。
日本は高度経済成長期。
家電メーカーや自動車メーカーは、国民の消費感情を焚き付け、高額商品の購入を誘導しました。
これらの品々が、ほんとうに必要なものだったかは疑問。「見栄」も大きかったのではないかと思います。
小学校の友だちから、日曜日にドライブに誘われたことが何回かあるのですが、たんに(お父さんが)「自動車を買ったことを自慢したかった」だけのような気がします。
ちなみに、「富士山ドライブ」に連れて行ってもらったときの車は、「トヨタコロナハードトップ」。セダンではなく「ハードトップ」が誇らしかったようで、いろいろ説明してくれました。
なんといっても、最大の高額商品は「マイホーム」でした。
わが家も、地主から「借地権付きの土地と建物」を買い取るようにしつこく言われ(税金対策がその理由だったようです)、小学校6年生ごろ、父がローンを組んで家を買いました。まもなく父は癌でなくなり、ローンを組むときに義務的に加入した「生命保険」のおかげで、大型ローンはほとんど返さないまま、家は母の所有になりました。
話を「虎に翼」に戻すと、寅子が東京に帰ったときの猪爪家は「大家族」ですね。
寅子の両親、兄、夫はすでに他界していますが、娘(優未)、弟(直明)、兄嫁(花江)とその息子2人。さらに直明に婚約者がいて、同居するかどうかでもめている。
このころは「核家族」というのは珍しかったのでしょう。
わが家の場合、私が生まれたときは、祖父母、両親、兄、伯母(父の姉)、そして私の7人家族でした。
今や、私以外、すべて鬼籍に入ってしまいました。
その代わりに、4人の娘と6人の孫に恵まれているのですが…。
それを戦後に普及した耐久消費財(電化製品)になぞらえたものです。
わが家を振り返ってみると、私が生まれた1961年(昭和36年)、家は借家でした。
白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の「三種の神器」は揃っていたようです。
風呂は、戦争中、空襲に来た米軍機を撃ち落とすために、日本軍が発射した「高射砲」の薬莢(やっきょう)が直撃し、こわれたまま放置されていましたが、次男である私が生まれたのを契機に修繕し、「ガス風呂」がありました(戦前は薪でわかしていたそうです)。
電話は、ダイヤル式の黒電話。ただし、近所の家と「親子電話」になっていて、同時には使えませんでした。
1960年代中盤に入ると、カラーテレビ、クーラー、自動車(英語の頭文字をとって3C)が 「新・三種の神器」としてもてはやされました。
私の家にカラーテレビが入ったのが小学校3年生のときですから、1970年頃。といっても全ての番組がカラーではなく、カラー放送される番組には、新聞の番組欄に「カラー」と明記されていました。
クーラーはそれより遅く、1973年頃。これは、家族のためというよりもお弟子さんのためでした。当時、自宅で祖母が謡曲を、伯母が小唄を教えていたのです。
電子レンジもそのころだったと記憶します。
自動車免許をもっている家族がいなかったし、父は酒飲みで、運転する気がなかったので、車は買いませんでした。
日本は高度経済成長期。
家電メーカーや自動車メーカーは、国民の消費感情を焚き付け、高額商品の購入を誘導しました。
これらの品々が、ほんとうに必要なものだったかは疑問。「見栄」も大きかったのではないかと思います。
小学校の友だちから、日曜日にドライブに誘われたことが何回かあるのですが、たんに(お父さんが)「自動車を買ったことを自慢したかった」だけのような気がします。
ちなみに、「富士山ドライブ」に連れて行ってもらったときの車は、「トヨタコロナハードトップ」。セダンではなく「ハードトップ」が誇らしかったようで、いろいろ説明してくれました。
なんといっても、最大の高額商品は「マイホーム」でした。
わが家も、地主から「借地権付きの土地と建物」を買い取るようにしつこく言われ(税金対策がその理由だったようです)、小学校6年生ごろ、父がローンを組んで家を買いました。まもなく父は癌でなくなり、ローンを組むときに義務的に加入した「生命保険」のおかげで、大型ローンはほとんど返さないまま、家は母の所有になりました。
話を「虎に翼」に戻すと、寅子が東京に帰ったときの猪爪家は「大家族」ですね。
寅子の両親、兄、夫はすでに他界していますが、娘(優未)、弟(直明)、兄嫁(花江)とその息子2人。さらに直明に婚約者がいて、同居するかどうかでもめている。
このころは「核家族」というのは珍しかったのでしょう。
わが家の場合、私が生まれたときは、祖父母、両親、兄、伯母(父の姉)、そして私の7人家族でした。
今や、私以外、すべて鬼籍に入ってしまいました。
その代わりに、4人の娘と6人の孫に恵まれているのですが…。
風呂は「石炭炊き」で(ガスは本管さえ未開通、なので、転居後までずっとプロパン)電話は呼び出し(近所の商店)、電話は申し込んでも順番待ちで、何年たっても開通せず、父が国家公務員だったので、役付になったタイミングで(緊急連絡が必要という理由)、国からの要請という形でやっと開通しました。多分、開通まで7年くらいかかっていたと思います。
水:井戸水をモーターで汲み上げていました。上水道を使うようになったのは中1ごろ。
舗装:家の前の道の舗装は、幼稚園ぐらいか。
トイレ:最初は和式汲み取り、洋式水洗になったのは中3のころ。下水本管が通ってなかったので、浄化槽からドブに流してたらしい。
こういう話、なつかしいです