ネオ・ピクトリアリズムは、何も絵画の模倣をしようとしているわけではない。
写真よりも以前に絵画が好きであって、絵画的な像を結ぶために、フィルムカメラの助けを借りているだけである。
ネオ・ピクトリアリズムはあるいは、見たままを写すことでは飽き足らない、ただのひねくれ者の所業とも言える。
ただ、誰よりもまず自分が、印象主義的な写真を欲しているのだ。
正直な話、こういった写真は偶然の産物でもある。
世の中がデジカメにシフトしている現在では、このような写真はそう生まれてはこないだろう。
そういった意味では、ネオ・ピクトリアリズムは、フィルムカメラの最後の「あがき」である。
写真よりも以前に絵画が好きであって、絵画的な像を結ぶために、フィルムカメラの助けを借りているだけである。
ネオ・ピクトリアリズムはあるいは、見たままを写すことでは飽き足らない、ただのひねくれ者の所業とも言える。
ただ、誰よりもまず自分が、印象主義的な写真を欲しているのだ。
正直な話、こういった写真は偶然の産物でもある。
世の中がデジカメにシフトしている現在では、このような写真はそう生まれてはこないだろう。
そういった意味では、ネオ・ピクトリアリズムは、フィルムカメラの最後の「あがき」である。
ただ、世の中からカメラフィルムと、写真屋さんが無くなってしまうと困るんだよなー。
銀塩フィルムでしか出せない味もあると思うし、フィルムを巻き上げて写真を撮る感覚や、仕上がりを想像してシャッターを押す感覚。現像されてくる写真を見る瞬間の高揚感などは、デジカメでは味わうことのできない感覚だ。
だから、フィルムカメラの市場が完全に縮小してしまわないように、フィルムカメラの振興を図らなくてはいけない。
その手段のひとつと考えるのが、ネオ・ピクトリアリズムである。
銀塩フィルムでしか出せない味もあると思うし、フィルムを巻き上げて写真を撮る感覚や、仕上がりを想像してシャッターを押す感覚。現像されてくる写真を見る瞬間の高揚感などは、デジカメでは味わうことのできない感覚だ。
だから、フィルムカメラの市場が完全に縮小してしまわないように、フィルムカメラの振興を図らなくてはいけない。
その手段のひとつと考えるのが、ネオ・ピクトリアリズムである。
デジタルカメラの台頭により、カメラ業界の勢力図も大きく変わった。
富士フィルムが早々とデジタルカメラの開発を行う傍ら、コダックは日本ではデジカメの流れに出遅れたかたちだ。
コニカミノルタがフィルム・カメラ事業からの撤退を表明した一方で、ソニーやパナソニック、カシオなどの電子機器メーカーがコンパクトデジカメの分野では好調だ。
なによりも、街の写真屋の仕事が確実に減ったろう。デジカメは、現像・プリントというプロセスを、個人の家の中で完結させてしまう。
デジカメで撮った画像をパソコンに取り込むには、そもそも現像という過程を必要としないし、プリントしたければプリンターがある。DPEという言葉は、もはや過去のものとなってしまったのだろうか。
DTP(デスクトップパブリッシング)やDTM(デスクトップミュージック)などの言葉になぞらえば、デジカメとパソコンによる写真編集は、さながらDTI(デスクトップイメージング)とでも言いましょうか。
フィルムスキャナというものがあるが、そもそもフィルムを用いずにデジカメを最初から用いれば、スキャナ自体が不要だ。
EPSONからGT-X900という、最新鋭のスキャナが発売されたが、フィルムカメラ自体が下火のなかにあって、どれだけの人がフィルムスキャナを買うのだろうかと、疑問も沸いてくる。
早い話が、フィルムカメラは、もはや一部の銀塩写真愛好家だけの道具になってしまったようである。
富士フィルムが早々とデジタルカメラの開発を行う傍ら、コダックは日本ではデジカメの流れに出遅れたかたちだ。
コニカミノルタがフィルム・カメラ事業からの撤退を表明した一方で、ソニーやパナソニック、カシオなどの電子機器メーカーがコンパクトデジカメの分野では好調だ。
なによりも、街の写真屋の仕事が確実に減ったろう。デジカメは、現像・プリントというプロセスを、個人の家の中で完結させてしまう。
デジカメで撮った画像をパソコンに取り込むには、そもそも現像という過程を必要としないし、プリントしたければプリンターがある。DPEという言葉は、もはや過去のものとなってしまったのだろうか。
DTP(デスクトップパブリッシング)やDTM(デスクトップミュージック)などの言葉になぞらえば、デジカメとパソコンによる写真編集は、さながらDTI(デスクトップイメージング)とでも言いましょうか。
フィルムスキャナというものがあるが、そもそもフィルムを用いずにデジカメを最初から用いれば、スキャナ自体が不要だ。
EPSONからGT-X900という、最新鋭のスキャナが発売されたが、フィルムカメラ自体が下火のなかにあって、どれだけの人がフィルムスキャナを買うのだろうかと、疑問も沸いてくる。
早い話が、フィルムカメラは、もはや一部の銀塩写真愛好家だけの道具になってしまったようである。
もちろん、デジタルカメラ全盛の時代到来については、確固たる理由がある。
その背景にはパソコンの普及というものが確かにあるわけだが、デジタルカメラは手軽で、軽快で、単純であり、急速に人々の生活の中に浸透していった。
デジカメ一眼レフも好調らしい。
デジカメ「一眼レフ」絶好調、「コンパクト」は苦戦
もともとパソコンを使う人は、スペック(性能)にこだわる人が多いので、デジカメも本物志向ということで一眼レフタイプのデジカメを求める傾向があったのでしょう。
また、もともとデジカメ一眼レフは何十万もするプロ仕様のものであったのが、EOS Kiss Digital(Cannon)に代表されるような普及機クラスが登場したのが大きい。
さらに、携帯電話にもデジカメが標準装備される時代である。日本だけで何千万台も携帯電話があるわけだから、世の中は総写真家の時代になったとも言える。
その背景にはパソコンの普及というものが確かにあるわけだが、デジタルカメラは手軽で、軽快で、単純であり、急速に人々の生活の中に浸透していった。
デジカメ一眼レフも好調らしい。
デジカメ「一眼レフ」絶好調、「コンパクト」は苦戦
もともとパソコンを使う人は、スペック(性能)にこだわる人が多いので、デジカメも本物志向ということで一眼レフタイプのデジカメを求める傾向があったのでしょう。
また、もともとデジカメ一眼レフは何十万もするプロ仕様のものであったのが、EOS Kiss Digital(Cannon)に代表されるような普及機クラスが登場したのが大きい。
さらに、携帯電話にもデジカメが標準装備される時代である。日本だけで何千万台も携帯電話があるわけだから、世の中は総写真家の時代になったとも言える。
世の中の流れは明らかにデジタルカメラに向いている。
デジタルカメラに搭載されるCCDやCMOSは光に従順で、かつ正確である。それは天体写真の分野で早くから冷却CCDが用いられていることからもわかる。
また、特にスピーディーさが要求される報道写真の分野では、デジタルカメラは最善の選択となるだろう。
ニコンのカメラといえば、報道現場で多用され、質実剛健で、プロフェッショナルの道具として、どんな過酷な条件下でも動作するという印象がある。F3のNASA・スペースシャトル仕様まで作られたほどだ。
そのニコンが、フィルムカメラ部門を縮小して、デジタルカメラ部門に事業を集中する方針を発表した。このこと自体が、時代がフィルムカメラからデジタルカメラに移ったことを雄弁に物語っている。
デジタルカメラに搭載されるCCDやCMOSは光に従順で、かつ正確である。それは天体写真の分野で早くから冷却CCDが用いられていることからもわかる。
また、特にスピーディーさが要求される報道写真の分野では、デジタルカメラは最善の選択となるだろう。
ニコンのカメラといえば、報道現場で多用され、質実剛健で、プロフェッショナルの道具として、どんな過酷な条件下でも動作するという印象がある。F3のNASA・スペースシャトル仕様まで作られたほどだ。
そのニコンが、フィルムカメラ部門を縮小して、デジタルカメラ部門に事業を集中する方針を発表した。このこと自体が、時代がフィルムカメラからデジタルカメラに移ったことを雄弁に物語っている。
ネオ・ピクトリアリズム。日本語に直せば新絵画主義でしょうか。
まぁ私が提唱しているわけですけれども。
19世紀末から20世紀初頭にかけておこった写真におけるピクトリアリズム。
その後はストレートフォトグラフィの普及に伴い、「絵画を模倣しているにすぎない」などの厳しい批判にさらされ、歴史の表舞台から姿を消すことになる。
もちろん、今日の写真作品にも、絵画的な構図や色使いが意図されているものがある。
しかし、ピクトリアリズムが行っていた、ぼかしの技法や、絵画的効果の高い、ピグメント(顔料)印画法、画面構成についての演出、合成、ネガへの加筆といったことは、現在では主流ではなく、むしろご法度に近いものがある。
そうはいっても、当時のピクトリアリズムは当然のことながら白黒写真だったわけで、現代のカラーフィルムを用いてピクトリアリズムの写真を撮れば、何か新しいものが生まれてくるに違いない。これがネオ・ピクトリアリズムです。
まぁ私が提唱しているわけですけれども。
19世紀末から20世紀初頭にかけておこった写真におけるピクトリアリズム。
その後はストレートフォトグラフィの普及に伴い、「絵画を模倣しているにすぎない」などの厳しい批判にさらされ、歴史の表舞台から姿を消すことになる。
もちろん、今日の写真作品にも、絵画的な構図や色使いが意図されているものがある。
しかし、ピクトリアリズムが行っていた、ぼかしの技法や、絵画的効果の高い、ピグメント(顔料)印画法、画面構成についての演出、合成、ネガへの加筆といったことは、現在では主流ではなく、むしろご法度に近いものがある。
そうはいっても、当時のピクトリアリズムは当然のことながら白黒写真だったわけで、現代のカラーフィルムを用いてピクトリアリズムの写真を撮れば、何か新しいものが生まれてくるに違いない。これがネオ・ピクトリアリズムです。
ストレートフォトグラフィは、Wikipediaの記事にもあるとおり、ピクトリアリズムに対して、「ストレート=本道」な写真という意味で、ぼかしや、画面構成についての演出、合成といった技巧を用いることなく、人間がみたままのようにシャープな視線で、あるがままの風景、人物等が撮影された写真作品およびそのような表現手段・表現形式のことである。
事実をありのままに写す。考えてみれば「写真」の本来の特徴であって、その特徴ゆえに、「写真」は「芸術」から切り離され、報道写真に代表されるように、目の前で起こっていることをいかにありのままに写すか、ということに重きが置かれることになる。
そして、ロバート・キャパや土門拳が崇拝されているように、時代はまさにストレートフォトグラフィのものとなった。
カメラ自体も進歩し、1912年のベス単(その後にベス単フード外しがソフト味を出すとして人気に)から、小型高性能カメラ「ライカ」の登場、一眼レフカメラの重鎮「Nikon F」(1959)の登場を経て、現在のデジカメ隆盛の時代に至る。
すなわち、「写真・カメラ」の歴史は、「見たままを、いかにありのままに写すか」という技術革新の歴史であり、その意味では、デジタルカメラが主流となっている現在の状況は当然の流れかもしれない。
事実をありのままに写す。考えてみれば「写真」の本来の特徴であって、その特徴ゆえに、「写真」は「芸術」から切り離され、報道写真に代表されるように、目の前で起こっていることをいかにありのままに写すか、ということに重きが置かれることになる。
そして、ロバート・キャパや土門拳が崇拝されているように、時代はまさにストレートフォトグラフィのものとなった。
カメラ自体も進歩し、1912年のベス単(その後にベス単フード外しがソフト味を出すとして人気に)から、小型高性能カメラ「ライカ」の登場、一眼レフカメラの重鎮「Nikon F」(1959)の登場を経て、現在のデジカメ隆盛の時代に至る。
すなわち、「写真・カメラ」の歴史は、「見たままを、いかにありのままに写すか」という技術革新の歴史であり、その意味では、デジタルカメラが主流となっている現在の状況は当然の流れかもしれない。
日本においてもピクトリアリズムは20世紀初頭にかけておこったが、主にアマチュア写真家たちの間に流行した、ということが興味深い。
また、絵画的な写真を追求した、という点では欧米と共通するが、日本においては、日本画をお手本としてピクトリアリズムが追求された経緯がある。
考えてみれば、山水画など、古来より日本には墨の濃淡だけで作品に仕上げる文化があり、ピクトリアリズムに関しては、日本独自の白黒の階調の美学が適用できたはずだ。
しかし、1930年代には日本にも近代写真の波がおしよせ、ピクトリアリズムは姿を消していくことになる。
また、絵画的な写真を追求した、という点では欧米と共通するが、日本においては、日本画をお手本としてピクトリアリズムが追求された経緯がある。
考えてみれば、山水画など、古来より日本には墨の濃淡だけで作品に仕上げる文化があり、ピクトリアリズムに関しては、日本独自の白黒の階調の美学が適用できたはずだ。
しかし、1930年代には日本にも近代写真の波がおしよせ、ピクトリアリズムは姿を消していくことになる。