プラネタリズム

ども、遊星です。世の中のもろもろを風景にして書き連ねる

睡眠について

2015-10-23 20:35:23 | Weblog
「レム睡眠」切り替える脳細胞、マウスで発見

睡眠について、自分の中でも色々と考えていたところだが、ここへきてこのニュースが飛び込んできた。

このニュースで改めて驚くのは、マウスでもレム睡眠とノンレム睡眠があるということである。
どうやら、睡眠というのは哺乳類全般に共通するものらしい。

人間は人生のうち3分の1近くを眠って過ごしているわけだが、その睡眠には謎の部分がまだ多く残されているということだ。
最近の研究ではオレキシンという物質が睡眠と覚醒のコントロールをしているということがわかってきたようだが、レム睡眠・ノンレム睡眠といった睡眠のメカニズムの働きについては、まだよくわかっていないらしい。

だいたい人っていうのは意識して眠りにつくことは出来ないわけで、大体は布団に入った後、眠りに入る瞬間のことは覚えていないものである。
また、浅い眠りであるレム睡眠の時に見ている夢は、大抵はとりとめの無いもので、起きた瞬間には内容を忘れてしまうような取るに足らないものである。
この夢を見るという行為についても、何か重要な意味があるのかどうかということは、まだよくわかっていないと思われる。

わかってきたのは、寝ている間には成長ホルモンが分泌されていることと、いらなそうな記憶を消し、必要そうな記憶を脳に定着するという処理が無意識かで行われているようだということである。

いずれにしても、睡眠というのは健康に生きていくうえで動物にとって必要なものであり、たとえ体を無防備な状態にするという危険を冒してでも、欠かすことの出来ない、自然の摂理に導かれたものなんだろう。

ロボタイズドMT

2015-10-22 21:58:04 | Weblog
乗用車ではもう、マニュアル車の比率がぐんと低くなっていると思われます。
そもそもMTの設定が一部の車種・グレードに限られているのが現状で、MTを選ぶ人っていうのはもはやエンスーな人に限られてしまっているのが日本の車社会の実情でしょう。

それには日本の交通事情も関係していると思われまして、渋滞や信号機の多い日本の道路では、ATの方が楽チンなのは言うまでもありません。
MTの方がダイレクト感があって、自分で車を動かしているという実感が沸くのがMTのいいところなんですが、やはり人間は楽な方を選ぶようです。

MTのクラッチ操作を自動化したのが、ロボタイズドMTでありまして、このところスズキの軽自動車にも搭載されるようになりました。
スズキではAGS(オートギアシフト)を言っているようですが、ロボタイズドMTの一種といっていいでしょう。

このスズキのAGS、どうも乗りづらいということで不評のようです。普通のATやCVTのつもりで乗ると、アクセルを踏みっぱなしでもクラッチが切れて動力が伝わらない瞬間があるので、慣れないと違和感が大有りのようです。

要は、ロボタイズドMTは、クラッチの無い2ペダルなだけで、成り立ちはMTなんです。だから乗り方もMTの乗り方からアプローチしていかないと、最後まで「慣れ」は訪れないと思われます。

ではどうすればいいのか。ひとつの方法を示すと、以下の通りとなります。

①シフトをマニュアルモードにする。
②シフトチェンジの際は、アクセルを戻してあげる。

このことを心がけることにより、ロボタイズドMTでも違和感を感じず、より自然に運転することができるでしょう。
MTモードにするんだったら、オートマの意味が無いじゃないかという意見もあることでしょう。

でもやっぱりアクセルを踏みっぱなしだと、ロボタイズドMTは違和感がつきまとうんです。
ロボタイズドMTは、クラッチ操作の無いマニュアルだと思いましょう。

親子の木

2015-10-21 21:13:30 | Weblog
「親子の木」強風で1本倒れる 北海道・美瑛の観光名所

美瑛の観光名所の一つ、「親子の木」の1本が強風で倒れたという。
自分も昔行ったことがあったよなあと、昔の記事を探したら、あった。

バイクで北海道を走ったのは9年前か。
そのころ北海道に移住していたキケンジ氏も、今やアメリカに移住したらしい。時代も移り変わってゆく。

さて、美瑛といえば丘の風景自体が観光資源となっていて、丘に立っている木に名前が付けられて何ヵ所も観光名所となっている、珍しい場所である。

そのうちのひとつが「親子の木」。要するに今回は強風で「子」にあたる木が倒れてしまい、「親子」でなくなってしまったという話である。

ただ、この親子の木の立っている場所はあくまで民有地であり、他人がどうこうできる話でもないらしい。

観光名所の木が倒れてしまったから、代わりの木を植えようというのは、奇跡の一本松が枯れてしまったから、人工的に甦らせてしまおうという話にも通じるところがある。

風景論を語っていると延々と続いてしまうので、今日はこの辺でやめておくが、移り変わってい行く風景と、観光資源としての風景とで、どのように折り合いをつけていくべきか、ということである。