プラネタリズム

ども、遊星です。世の中のもろもろを風景にして書き連ねる

あの人の旅

2011-05-20 22:02:40 | Weblog
ひょんなことから、この人のホームページを見かけて、それから以降、ずっとこの人の活動を追っかけている。
キケンジという人物。たぶん同い年。

たぶん2003年ぐらいから、ずっとこの、ホームページ上で報告されるキケンジ活動を見ている。

神戸人で、夏の間北海道の季節労働者となり、そのまま北海道へ移住してしまい、その傍ら、サハリンへ行ったり、パプアニューギニアへ行ったりしている。

去年のことだったか、一輪車でアイスランドを一周するなどしてみせた。
しかも火山が噴火するという素晴らしいタイミングで。

そして、また彼は新しい旅に出たらしい。

キケンジのブログ

まだ全貌はよくわからないが、どうやら、一輪車で日本列島を縦断しようとしているらしい。

そんなバカな、と人は思うだろう。でも彼ならやりかねない。そして彼なら何かやってくれそうだ。

既にアイスランドで、2000キロの旅をしているのである。現地人とも触れ合いながら。

日本であればライフラインは問題ないし、緊急時でも何とかなってしまうだろう。アイスランドに比べれば恵まれた環境だ。そして彼は、バイクで既に日本をくまなく走っている。
バランス感覚を養うために、真冬にカブで郵便配達のバイトをしたりもしている。

いつの日か、ニュースの映像かなんかで彼を見ることになるだろう。

ちなみに僕が北海道に行ったときに、彼と美瑛でとんかつを食ったことがある。

旅をしている彼と、生活者としての彼。おそらく彼にとっては、人生そのものが旅であって、旅に出ることは、人生を人生として実感するためなんだろう。
だから彼にとっては、北海道は定住の地でも何でもない。だから例えば来年の今ごろ、彼がどこで何をしているのか。日本の、そして世界のどこにいるのか。彼自身にもわからないのだ。そんな生き方をする人が、いるのだ。

iPad

2011-05-18 21:31:53 | Weblog
iPad2が出たりして、まだまだ話題のiPad。話題になっているにもかかわらず、あまり使っている人を見かけない。
電車の中ではだいぶスマートフォンを使っている人が増え、スマートフォンの種類もiPhoneに限らず、色々な種類の機種が出回っている。しかし、iPadを使っている人は、そういえば見かけない。

なぜか。次のようなことが考えられる。
1.iPadの屋外での回線、つまり3Gは思ったよりも速度が遅く、快適なインターネット環境とはいえない。
2.携帯電話に比べれば当然重く、下手な持ち方をすると疲れる。
3.画面が大きい分、周りから覗かれてしまうこともありうる。
そういったこともあってか、iPadを使っている人の多くは、家で使用しているものと思われる。
まあしかし、iPad2が出たので、ネガティブな部分はだいぶ改善されてはいる。
iPadは何でもこなせる。ただ、何でもできるということは、何に対しても中途半端ということにもなりかねない。その点、iPadは製品としての完成度はかなり高いレベルにあるので、ビュワーとして、あるいはクラウドコンピューティングのインターフェースとして割り切ってしまえば、かなり満足はできると思う。

そもそも、コンピューター史を語るうえで、Appleという会社は独立した存在にあると思われる。つまり、コンピューター史と、Apple史があるわけである。ジドウシャ界でいえば、いわばシトロエンのような存在だ。
アップルのコンピューターで、印象的なのが、1つしかボタンの無いマウスである。
ウインドウズに慣れてしまった我々は、もはや右クリック無しの生活は考えられない。
マックとウインドウズの立ち位置の違いが、その辺に垣間見えるような気がする。
そしてiPadに触れていると、またそんなことを思う。

iPhone/iPadの素晴らしい所は、スクリーンをタッチして直観的に操れるという点である。
これは、便利とか不便だとかを議論する以前に、問答無用に楽しい。
かつて、ワープロを前にして、キーボードによるタイピングに面白さを感じたのを思い出す。

iPhone/iPadの素晴らしい点は、ユーザーインターフェースの快適性と、携帯性にある。
それはすなわち、情報に対するアクセシビリティが高い次元で備わっていることを意味する。

結論:iPadは魔法の窓である。


変化と遷移の間で

2011-05-14 07:58:21 | Weblog
この日本という国が、東日本大震災を境にして新たな時代へと移行したことは、国民全体が空気感として認識しているところだろう。おそらく何年か経てば、この時代の節目を冷静に振り返ることのできる時がやってきて、この時代の為政者を歴史上の人物として見るようになるだろう。

人間としての我々はこれまで、とどのつまり何かを燃やして繁栄を築いてきたわけだ。薪が石炭となり、石油となり、核燃料となった。熱を扱う以上、エントロピーの法則に従うほかない。物事は乱雑さの増す方向に進む。一度放出してしまった二酸化炭素や放射性物質は、もう元には戻らない。
そして遺伝子を操作することや、核反応を扱うことは、もはや神の領域である。
我々は、「畏れ」に対して素直であるべきだ。我々がいくら地球に「やさしく」しても、地球は決して「やさしい」存在ではない。もっと言えば、この地球から人類が一人残らずいなくなっても、地球は地球だ。

この国に話を戻そう。果たしてこの大震災は、日本の進む道を変えたのだろうか。
はっきり言ってしまえば、震災前の日本は、進むべき方向を見失っていた。
小泉改革とは何であったのか。安倍、福田、麻生の三氏は一体何をしたのか。政権交代とは何であったのか。「マニフェスト」とは単なるかけ声だったのか。
アジアの片隅に浮かぶこの日本という小舟は、残念ながら今は浮かんでいることだけに精一杯のようだ。

今こそ数学と物理学を全ての人に。時間軸と座標軸をわがものにせよ。量子論をもって、心のすきまを埋めよ。相対性理論をもって、人同士の付き合いを深化させよ。人々の不安を、フーリエ変換せしめよ