Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

8月のポトラッチ・カウント(5)

2024年08月31日 06時30分00秒 | Weblog
 「「八月納涼歌舞伎」第三部では、小説家デビュー30周年を迎える京極夏彦が、このたびはじめて歌舞伎の舞台のために書き下ろした『狐花 葉不見冥府路行』が上演されます。江戸を舞台に幽霊事件の謎を描いた本作では、大人気小説「百鬼夜行」シリーズの主人公・中禅寺秋彦の曽祖父で今回の主人公となる、中禪寺洲齋を幸四郎が勤めます。

 第三部は、京極夏彦原作の新作「狐花」。
 筋書の冒頭を引用すると、
 「時は江戸末期。風が吹き荒れるある夜のこと。
 神職を生業とする信太家に何者かが押し込み、家の者は次々に殺されてしまう。その惨劇の中、信太の妻美冬(笑三郎)は、我が子を下男の権七(錦吾)に託して逃がす。そこへ覆面をした男らが現れ、屋敷に火をかけ、美冬を攫ってしまう。
 
 新作であり、小説も同時発売されているため、これ以上あらすじを書くのは控えることとするが、表題(狐花)と設定(信太家)から分かるとおり、「芦屋道満大内鑑」へのオマージュとなっている。
 ちなみに、二代目河竹黙阿弥の「グロテスク路線」(7月のポトラッチ・カウント(6))とは路線が全く異なるので、安心して観ていられる。
 あらすじの大部分を省略し、ポトラッチの結論だけ述べると、信太家の虐殺に関与した二人の人物が、いずれも自分の娘によって殺されるため、やや強引だがポトラッチ・ポイントは、5.0×2=10.0と認定。
 ・・・というわけで、8月のポトラッチ・カウントは、
「ゆうれい貸家」・・・5・0:★★★★★
「髪結新三」・・・6.0:★★★★★★
「狐花」・・・10.0:★★★★★★★★★★
の計21.0:★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 やや少なめなのは、例によって国立劇場の文楽の東京公演がなかったことと、歌舞伎座が時代物を上演しなかったことによる。
 だが、9月の演目を瞥見したところ、ポトラッチが炸裂しそうな予感がする。

 
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8月のポトラッチ・カウント(4)

2024年08月30日 06時30分00秒 | Weblog
・新三の家。お嬢さんは閉じ込めてある。身代金をもらったら髪結いをやめて遊んでくらずぞ!!
・値段が高い初鰹とか買って前祝い。
・さっきのヤクザさんがやってきて10両でお嬢さんを返せと言うが、新三は断る。すごすご帰るヤクザさん。
・白子屋の関係者に頼まれて、新三の住む長屋の家主さん(管理人さんみたいの)が調停に乗り出す。
・家主さんは新三の言葉尻をとらえて「長屋を追い出すぞ」とか脅すので、新三はあきらめて30両で手を打つ。
・お嬢さんは家に返してもらえる。よかったね。
・大家さんは新三の買った鰹を半分と、30両の半分まで持って行ってしまう。えー。
・しかし、その間に大家さんの家に泥棒が入ったのだった。ざまあwwww
・数ヶ月たった。
・新三は売出し中のヤクザさんになった。
・あのとき新三に追い返されたヤクザさんは落ち目になってしまって新三を恨んでいる。
・ある晩、道端で新三に襲いかかる。
・本当はここで新三は死ぬけど、今は死ぬところまで出なくて、かっこよく斬り合ってるところでおわります。
 

 新三は自分の長屋で一晩お熊を慰み、その後縛って押し入れの中に監禁している。
 完全に強姦と監禁の犯罪が成立しているが、新三は、娘に傷がついたことを世に知られては困るお常が訴人しないことを見抜き、身代金をとる腹づもりである(このシチュエーションは現代でもありそう)。
 ヤクザの源七と白子屋に恩のある車力の善八がお熊を連れ戻しにやって来る。
 源七は身代金の10両を渡すが、新三はこれを叩き返す。
 実は、新三は前科者であり、50歳を越えている地元のヤクザなど恐れていないのである。
 そればかりか、「たがの緩んだオジさん」などと源七をさんざん馬鹿にする。
 恥をかかされた源七は腹を立てるが、ぐっとこらえて帰っていく。
 「よくも恥をかかせたな!この一件が済んだなら、今日のお礼に来るとしよう
 もちろん、「万座(といっても、ここで居合わせたのは善八だけだが・・・)で恥をかかされた男」の常で、この後に復讐劇が待っている。
 次に登場するのは家主の長兵衛だが、「ゆうれい貸家」でもそうだったように、店子に対し絶大な権力を持っている。
 長兵衛いわく、
 「大家は平和だと儲からねえ
というわけで、店子を巡るトラブルは、大家にとっては金儲けのタネだったのである。
 長兵衛は、30両で手を打つことを提案するが、もちろん新三は承服しないばかりか、
 「きざなことだが、獄中(なか)へも行き、物相飯(もっそうめし)も食ってきた上総無宿の入墨新三だ!
と凄んで見せる。
 ところがこれは失言で、長兵衛は、
 「入墨者と聞いた日には、一日でも店は貸さない。どこに家主の前で、隠すべき入墨を、自慢げに言うやつがある。悪いと気が付いたら、30両で承服しろ!
と反撃する。
 当時、前科を秘して長屋を借り、後にその事実がバレると、どうやら賃貸借契約の解除が可能だったようである(現在の「反社条項」に似ている。)。
 こうなると圧倒的に長兵衛が有利であり、最終的には13両で決着することとなる。
 ・・・後日、深川閻魔堂橋で、賭場帰りの新三は、待ち伏せしていた源七に遭遇する。
 二人が互いに切り結ぶところで幕となるが、原作では新三は源七に殺される結末となっている。
 新三は、「万座で恥」の代償として命を奪われたので、ポトラッチ・ポイントは5.0。
 
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8月のポトラッチ・カウント(3)

2024年08月29日 06時30分00秒 | Weblog
 第一部のラストは、往年の名アナウンサー:山川静夫氏原案の「鵜の殿様」(【舞台映像】歌舞伎座『鵜の殿様』初日ダイジェスト)。
 所作事なので、本来は法学的・社会学的分析の対象外なのだが、今回は例外。
 このところ、白鸚→幸四郎→染五郎の活躍ぶりが目覚ましいので、丸山眞男先生も目を丸くしているだろう。
 歌舞伎座に行くと、「つぎつぎ」と「なる」イエ(高麗屋)の「いきほひ」、つまり、丸山先生が見事に指摘した、日本の歴史意識の「古層」(「つくる」、「うむ」、「なる」?)の見事な表現を見ることが出来るのである。
 もっとも、これこそが、他の業界(政界はその筆頭)をダメにしている大きな要素の一つなのだが・・・。

・「白子屋(しらこや)」は材木屋さん。ぶっちゃけつぶれそう。
・娘は美人なので、金持ちが婿になりたいと言ってくる。
・娘は好きな人がいる。両想い。お店の従業員の忠七。だから結婚なんてしなくない。
・これを聞いていたのが、髪結いの「新三(しんざ)」。忠七をそそのかしてお嬢さんと駆け落ちさせる。
・お嬢さんは先に新三の家に逃げた。
・忠七も新三に連れられて家に行こうとしたら、ここで新三が裏切る。
・忠七を蹴り飛ばして置き去りにして行ってしまう。もちろん家は教えていない。
・困った忠七。お嬢様をさらわれてしまった!!
・責任取って死のうとするのを、土地のヤクザさんが引き止める。どうにかしてくれることになる。

  第二部のメインは「髪結新三」。
 借金を抱えてつぶれそうな材木問屋「白子屋」の一人娘:お熊は、奉公人の忠七と夫婦の約束を交わしている。
 ところが、お熊の母で後家のお常は、イエ存続のためには「五百両の持参金付きの婿」が必要であるとして、勝手に結納を交わしてしまう。
 この「『イエ』存続のための échange」という設定は、「曾根崎心中」(3月のポトラッチ・カウント(1))や「新版歌祭文」(2月のポトラッチ・カウント(1))とも共通しているが、「髪結新三」の場合、échange の対価が露骨に「五百両」となっているところが特色と言える。
 当然お熊はこれに抵抗するが、お常は、
 「この縁談がまとまらなければ、申し訳に川に身を投げるしかない
と脅し、お熊を屈服させようとする(お常によるポトラッチだが、これは未遂なので0.5ポイント)。
 この話を聞いた忠七は、「親孝行」のため(!)この縁談を受け容れるよう説得するが、お熊は泣いて嫌がる。
 忠七は、名前が示すとおり、そう勧めることこそがお世話になっている白子屋に対する「忠」に適うと考えたのである。
 つまり、お熊にとっての「孝」が、忠七にとっての「忠」に対応しているのである。
 そこに登場した髪結の新三は、忠七の髪を撫でつけながら、
 「もしお熊が思い詰めて身投げでもしたら、かえって『不忠』になる、行き先がないのなら、うちの長屋に来ればよい
と言葉巧みに駆け落ちを唆す。
 新三は、忠七の行動原理が「忠」に尽きることを見抜いた上で、これを逆手にとっているわけである。
 忠七は、新三の勧めに従い、お熊を連れ出して新三に引き渡す。
 ところが、新三の長屋に付いて行こうとする忠七に、新三はこう言い放つ。
 「あのお熊は、俺のいろだから、連れて来てやったんじゃ
 実は、新三は、最初から忠七を騙して、お熊をかどわかす魂胆だったのである。
 新三の謀略を知った忠七は新三に打ち掛かるが、逆に叩きのめされる(このあたりは「曾根崎心中」のパクリかと思ってしまう。)。
 主人を裏切るという「不忠」をはたらいた上、この上ない辱め(「恥」)を受けた忠七には、もはや自殺というポトラッチしか残っていない。
 忠七が川に身を投げようとしたところ、乗物町の親分(つまりヤクザ)の弥太郎源七が通り掛かり、事情を聞いて身投げをやめさせる(忠七のポトラッチは未遂に終わるので、0.5ポイント)。
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8月のポトラッチ・カウント(2)

2024年08月28日 06時30分00秒 | Weblog
 突然、弥六の前に、生前辰巳芸者であったゆうれいの染次が現れる。
 染次は、ある男から請出しの約束を取り付けて正妻の座に収まるはずであったが、男の裏切りに遭い、捨てられてしまう。
 男は、御家人の家に婿養子に入り、染次との約束を反故にしたのである。
 このあたりも山本周五郎の風刺が効いている。
 江戸時代の社会は、実は、完全に「絶望の社会」というわけではなく、大家の平作のように、チャンスを掴めば「不労所得」で生きていけるし、染次を裏切った男のように、「婿養子」の地位を得ればイエの当主になることも可能な世の中だったのである。
 染次は、どうやら恨みの余り死んでしまったようであり、自分を捨てた男も、その男の妻になった女も、さらには男の家族も、みな憑り殺してしまったという。
 もう憑り殺す相手はいなくなったのだが、身内の人間が供養してくれないので、成仏出来ないのである(というわけで、染次は恨みの余り命を失ってしまったので、この時点でポトラッチ・ポイントは5点)。
 染次は、弥六がケンカの仲裁をする様子を見て惚れてしまい、「女房にしてくれ」と申し出る。
  半信半疑の弥六は、染次の機嫌をとるために般若心経を唱えようとするが、なぜか唱えることが出来ない。
 染次いわく、坊主がお経を読んでも効果はないが、
 「身内の人間に読経されると成仏してしまう
ため、染次が弥六を妨害していたのである。
 私見だが、このセリフを絶対に見落としてはならないと思う。
 古今東西、「血食」は"血を分けた子孫"、つまりゲノムの承継者が行なうものとされ、日本においても、
 「血を分けた子孫によって祀られない霊は成仏出来ない
という迷信が流布していた。
 ところが、どうやら江戸時代のある時点までに、ゲノムの承継者でなくとも、同じイエの(つまり苗字が同じ)人間であれば、祭祀承継を行う資格が認められるようになったようだ(というか、これは、宗教の一種である『イエ』の確立とほぼ同義である)。
 そのため、上に挙げた染次のセリフが出て来るのである。
 配偶者はゲノムを共にしてはいないけれども、同じイエのメンバーだからである。
 さて、染次の発案で、弥六はゆうれいたちを貸して賃料をとる商売を始めた。
 またしても「不労所得」である。
 この商売はかなり繁盛するが、ある時、仕事で失敗したゆうれいの又蔵が、
 「浮世も金、あの世も金だが、生きていればこそ。もう沢山だ
と呟くのを聞いて、弥六はようやく改心する。
 弥六は、大家の平作に、「これからは一所懸命に働くので、自分と一緒に般若心経を唱えてくれ」と頼み、戻って来た妻にもこれまでのことを詫びる。
 平作に一緒に般若心経を読んでもらって染次を成仏させ、お兼とやり直すことを誓ったところで幕となる。
 

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8月のポトラッチ・カウント(1)

2024年08月27日 06時30分00秒 | Weblog
 「8月は、三部制の興行です。通常の歌舞伎公演では演目が3つくらいあって、間に休憩が2回もあって、半日かけて歌舞伎見物を楽しむ・・・というスタイルが多いのですが、三部制の場合は各部の上演時間が短くなります。忙しい現代人にとっては、こちらのほうが観やすい興行形態かもしれません。少し歌舞伎を観てみたい、という方にとってもおすすめです。
 「「ゆうれい貸屋」というタイトルの通り、主人公の弥六(大河ドラマ『光る君』で円融天皇を演じていた坂東巳之助さん!)が、ゆうれいを貸し出すという商売を思いついたところからお話は展開します。この「設定」だけでも、もうだいぶ面白いです。きっとその期待通りのものになるはずです!

 今月の歌舞伎座公演は、「8月納涼歌舞伎」で、3部制の構成である。
 演目は、怪談的なものが主体で、かつ初心者向けとなっており、導入としてふさわしい。
 第一部の最初の演目は、「ゆうれい貸家」で、山本周五郎の短編小説に基づく作品。

 「弥六はもとから、勤勉とはいえなかった。だが母親が亡くなると、初めて本性を現わした。仕事をすれば慥たしかな腕をみせるが、だんだん仕事をしなくなっていった。そうかといって、道楽をするわけでもなかった。父親と違って彼は酒を飲むし煙草もすう。おんなあそびも避けはしない。だが、無ければ無いでも済んだ。
「浮かない顔をしてるわね、あんた、お酒でも買って来ようか」
 女房がそう云うと、彼は欠伸あくびをする。
「うん、酒か、そうさな」そしてだるそうにどこかを掻かいて云う「まあそんなことにでもするか」
 酒を買って来て、燗かんをして出してやれば、出してやるだけ飲む。黙って飯にすれば、彼は黙って飯を食う。もう一本つけろとか、これでやめようなどと云うことは決してない。煙草も同様であり、遊蕩も同様であった。
「仕事はどうするのさ、仕事をしてくれなくちゃ困るじゃないか、伊勢屋さんからせっつかれて、あたしゃ返辞のしようがありゃしない、いったいあんたどうする気なのさ」
「どうもしねえさ」弥六は欠伸をする、「どうもしねえし、またしたくもねえさ」

 普通に読むと、弥六(仕事をしない桶職人)は、母親の死をきっかけにうつ病を発症し、近年よく見られる「セルフネグレクト」状態に陥ったように思える。
 意見をしにきた家主の平作に、弥六はこう答える。
 「そう仕事仕事ったってしようがねえ、おれの親父なんぞは寝るまを惜しんで仕事をした、大家さんなんぞも褒めていたから知ってるだろうが、まるで仕事の亡者みてえに稼かせいだもんだ、それでどうしたかってえば、やっぱり年中ぴいぴいだったからね、酒も煙草ものまねえ、これが楽しみってえことをなんにも知らず、くそ働きに働きどおしで、それでも貧乏からぬけることができねえで、そうして四十六なんて年で死んじまったからね、……おんなじこったよ大家さん、せいぜい稼いだところで、また稼がねえでいたところでよ、どうせぬけられねえ貧乏なら、あくせくするだけ損てえ勘定さ

 ここは大事なところで、江戸時代における不動産所有の実態が関係している。

 「江戸時代中期以降は、産業が著しく発達し、職人や商人の数が増え、江戸をはじめとする都市部では人口が急増。江戸時代は、幕府が直轄する江戸・京都・大阪の三都と、大名が支配する城下町があり、それらの土地は基本的に幕府や大名が所有していました。土地面積の大部分は武家が所有し、町人地の土地の面積は非常に狭いものだったのです。
 「そして町人たちは私有した土地に店を構え、そこで商いを開始。前述の通り、町人地で私有化された土地は富裕商人のほか「地主」が所有していましたが、地主は所有する土地には住まず、家守という別の者に貸して賃料(地代)を得るようになります。
 土地を借りた家守は、1棟の建物を区割りした住居形式の建物となる長屋の管理を任され、小商いをする町人や、庶民たちに貸すようになりました。これが現在の「賃貸経営」の前身であり、借家経営の始まりです。

 町人による土地所有が解禁されたことにより、富裕商人と「地主」による賃貸経営が始まったのだが、これが貧富の差を固定化させてしまったことが容易に推測出来る。
 そういえば、首都圏ではもう長いこと、「一般人の年収では家が買えない」一方で、マンションが外国人富裕層などの投機の対象となるという、不可思議な状況が続いている。
 私などは、弥六の気持ちが理解出来ないでもないのだが、その弥六に救いの手を差し伸べるゆうれいが現れた。
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英国演劇と幽霊の役割

2024年08月26日 06時30分00秒 | Weblog
ストーリー「1984年、炭鉱不況に喘ぐイギリス。幼い頃に母を亡くしたビリーは、炭鉱夫の父と兄、認知症の祖母の4人暮らし。父はビリーに逞しく育ってほしいと、ビリーにボクシングを習わせるが、バレエ教室のレッスンを偶然目にしたビリーは、戸惑いながらもレッスンに参加することになる。
ウィルキンソン先生は、ビリーの才能をいち早く見抜き、ビリーもバレエに熱中していくが、父は大反対。しかし、諦めきれないビリーの夢が、やがて寂れた炭鉱町をも動かすことにーー

 3回目の日本公演だというが、私はこれを観るのは初めて。
 原作の映画からミュージカル化されたというが、映画を製作したのはイギリスの舞台関係者なので、もともと演劇的な構成・内容であったと見てよさそうである。
 ちなみに、映画とミュージカルの詳細な比較分析がある(「ビリー・エリオット/ミュージカルライブ第1幕」、「ビリー・エリオット/ミュージカルライブ第2幕」)。
 ストーリーは、アメリカン・ドリームならぬ”ブリティッシュ・ドリーム”で、炭鉱夫の息子がバレエの才能を発揮し、ロイヤル・バレエ・スクールに入学するまでを描いたもの。
 80年代に始まる世界的な「資源獲得競争」の影で、こういうサクセス・ストーリーが本当に生まれていたかどうかは定かではない。
 だが、ストーリーは、日本における小説「キッチン」などと同様に、「テストストロンの充満する社会に対するアンチ・テーゼ」(台所からキッチンへ(18))として位置づけられ、「経済(力)至上主義」への批判がより明確に出ていると言えそうである。
 実際、物語の要所要所では、亡くなったビリーの母の幽霊が登場する。
 母の幽霊は、将来のない故郷イージントン(イングランド北部の炭鉱町)に残って無益な「闘い」を続けることではなく、ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールに入学することを選んだ息子ビリーを励ますとともに、最後にこう告げる。
 「もうたぶん会うことはないでしょう
(記憶が曖昧だがこういうセリフだったと思う。)
 ・・・それにしても、英国人はつくづく幽霊が好きである。
 先月観た「彼方からのうた」には主人公の弟が幽霊として登場するし(限りなく低い「愛」のハードル(5))、バレエ「No Mans Land」の夫役も幽霊である(ダンス月間(2))。

 「ヨークは幽霊の街として有名だ。古代ローマ人が約2000年前に要塞(ようさい)を造り、その後もバイキング、ノルマン人と次々に支配者が代わった。歴史が古い分、怪談も多く、誰が数えたか「500体」(英紙デーリー・ミラー)の幽霊がいるとされ「古代ローマ兵の霊」も出るという。映画「ハリー・ポッター」シリーズに登場する小道「ダイアゴン横丁」のモチーフとされる「シャンブルズ」通りも市内にあり、観光客でにぎわっている。
 セローブ氏によると、英国では近年、従来の宗教に代わって魔術やオカルトへの関心が高まっているという。それを裏付ける調査もあり、21年実施の国勢調査によると、イングランドとウェールズでは古代宗教や魔術的な儀式を信じる人々が増加。中でも先祖霊と交渉する原始宗教シャーマニズムの信者は、11年の650人から8000人に増え、10倍以上になった。

 この記事によれば、イギリスには長らく「幽霊好き」の伝統があり(演劇の世界では、何といっても「ハムレット」の存在が大きい。)、近年オカルト指向はますます強まっているようだ。
 ということは、今後も演劇を含めいろんなところで幽霊が登場する物語が頻出しそうである。
 
 
 
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音と音のケンカ

2024年08月25日 06時30分00秒 | Weblog
 ヴァイオリン=中野りな
 チェロ=佐藤桂菜
 ピアノ=進藤実優
 

 ほぼ毎年聴いている《三大協奏曲》だが、今年の場合、ソリストの顔ぶれに主催者側の狙いが明瞭にあらわれていると感じる。
 そう、「ルッキズム路線」である。
 案の定、お客さんは(主に中高年の)男性が多く、前から1~3列目などは7~8割が男性である(但し、ミュージカル「ミス・サイゴン」のように、「最前列のほぼ全員が男性」というほどではない)。
 メンコンの中野さんは、クセのない素直な演奏で気持ちよく聴けた。
 ところが、次のドヴォ・コンでちょっとした問題が発生する。
 佐藤桂菜さん(超絶美人!)の「深みのある温かい音」(公演チラシの表現)をオーケストラ(特にトゥッティの時と管楽器)が減殺してしまう、つまり、  「ソリストが「繊細さ」を追求しているのに、オケが「威勢の良さ」を発揮してしまう
というミスマッチが生じたのである。
 ドヴォ・コンを「優しく、繊細に」弾くこと自体は問題ないと思うが、その場合、オケはトゥッティでのヴォリュームを抑えるべきだし、管楽器は客席にどう響くかを考えて演奏すべきではないかと思う。
 例えば、フルート奏者が、チェロと同じメロディを普通に吹いてしまうと、客席では「チェロの音とフルートの音がケンカしている」、あるいは、「フルートの音がチェロの音を『殺している』」ように聴こえる(これは、演奏している人にも指揮者にもおそらく分からないと思う)。
 これは、推測であるが、チェロの音が正面とやや下に拡散的に向かう(第8章 チェロから出る音の方向について)のに対し、フルートの音は正面にほぼ直線的に向かう(本番の立ち位置、音の方向)ことによるものと考えられる。
 ラストのチャイ・コンだが、進藤さんは、ソロ・パートでテンポを落とす(やや「タメる」)特徴のある弾き方なので、必然的にオケと息を合わせる必要性が高まる。
 例えば、ソロからオケとの協奏に切り変わる「入り」のタイミングなどは注意する必要があるだろう。
 こうしたところは、おそらく十分なリハーサルによってカバーするしかないのだろうが、今回はそのような余裕が乏しかったのではなかろうかと推測する。
 とはいえ、全体的には力のある良い演奏だったと思う。

J. S. バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV 825
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op. 31-2 「テンペスト」
ショパン:ポロネーズ第7番 変イ長調 Op. 61 「幻想」
フォーレ:ノクターン第8番 変ニ長調 Op. 84-8
フォーレ:ノクターン第13番 ロ短調 Op. 119
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第2番 ニ短調 Op. 14 
<アンコール曲>
ラヴェル/務川慧悟編曲:『マ・メール・ロワ』より「妖精の園」
ショパン:英雄ポロネーズ

 先日「サマー・フェスタ・ミューザ」でラフ・コン3番を完璧に弾いたばかりの務川さんのソロ・リサイタル。 
 この人は、弾き方が優雅で見栄えがよい。
 ちなみにお客さんの約7割が(主に中年以上の)女性であり、スタンディング・オベーションをしたのも殆どが(主に中年以上の)女性であった。
 私の前の席の女性は、ピアノから10メートルも離れていないPブロックの席だというのに、オペラグラスでひたすら務川さんの手の動きを観察していた。
 私見だが、ピアニストの手の動きを観るのが好きな人は、ピアノを習ったことのある人か、人間の手が「可愛らしい小動物」のように見えてしまう人ではないかと思う。
 さて、「パルティータ」を滑らかに、「テンペスト」を情感豊かに弾いた後、「幻想ポロネーズ」の終盤で、ちょっとした違和感を感じた。
 和音が割れてしまい、音と音が”ケンカしている”ように聴こえるのだ。
 「そのように聴こえる和音なのだから当然なのだ」という見解もあるだろうが、全面的には賛成しかねる。
 例えば、ブルース・リウの演奏を聴いていると、和音が割れて聞える場面は殆どない(リーとリウ)。
 もちろん、これは、そう聴こえるように意図して弾いているのである。

 「ふたつの音を同時に鳴らしたとき、そこに響きが生まれます。響きには協和と不協和とがあり、協和な響きを「ハモる」、不協和な響きを「アタる」といいます。同時になるふたつの音程には、「ハモる」音程と「アタる」音程のふたつしかありません。」(p40)
 「「アタる」音は、ほかの音に比べて弱く弾くのが、演奏の基本となります。この基本がよい響きを演出する原点です。」(p58)

 この後のフォーレ「ノクターン」13番とアンコール1曲目の「妖精の園」は出色の出来栄えで、特に後者は別世界を垣間見させるような逸品だった。
 というわけで、務川さんのラヴェルのCDが欲しくなってきた。
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ダンス月間(7)

2024年08月24日 06時30分00秒 | Weblog

◆雪「ゆきひめ」
振付:関直人
主演:菅井円加、福田圭吾
怪談「雪女」をモチーフに創られた作品 
◆月「月夜に集う民の詩」
振付:二見一幸
日本のコンテンポラリーダンスを牽引してきた二見一幸の新作 
◆花「桜の森の満開の下」
振付::池上直子
主演:藤間蘭黄・本島美和
坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」をモチーフに展開する新作 

 今年のサマー・コンサートは、昨年(夏のダンス・ウィーク(10))とは打って変わって、”和”の世界が展開される。
 こうしたコンセプトの転換は、昨年の「宗達」から始まったようなのだが、残念なことに日程があわず、「宗達」は観られなかった。
 最初の「ゆきひめ」は、もともと日本舞踊を中心に構成されたバレエ作品。
 日本舞踊の動きの大きな特徴の一つは、私見では、「重心の平行移動」にあるのではないかと思う。
 なので、日舞の踊り手は、移動する際、基本的に頭が上下にブレない。
 あと、これも私見だが、「『象徴』としての仕草」、要するに仕草の「言語性」も大きな特徴だと思う。
 「ゆきひめ」では、こうした日舞の特徴を、バレエダンサーがどう解釈しどう表現するのかが注目ということになる。
 観たところ、菅井さんは「ジャンプの抑制」で対応したようだが、一番楽しそうだったのは「雪女」の表情のように見える。
 つまり、「静かで怪しい微笑みの持続」(これもある意味では舞踊の一種)というところが大きなポイントだったようだ。
 次の「月夜に集う民の詩」は、ベートーヴェンの「月光」などの音楽に合わせた典型的なハイ・テンポのダンスで、ストーリー性はない。
 なので、音楽に親和的なはずなのだが、そこで意表を突くのが、途中からメロディーを欠く単なる「音」の連打に合わせたダンスに変わるところ。
 ここで一挙に集団的一体性が動揺するのが面白い。 
 実は、集団的一体性は、メロディによって保たれていたのである。
 ラストは「桜の森の満開の下」で、主役は、日舞の藤間 蘭黃さんと新国立劇場の本島 美和さんという異色のコンビ。
 藤間さんは、普段は動きは抑制的なはずだが、この演目では活発に動き回り、ジャンプも頻発する。
 なので非常に若々しく見えて、おそらく従来の彼のファンも驚いたのではないだろうか。
 対する本島さんは、「人間の首が大好物」という魔女的な役柄で、三浦雅士さんが「ダンス・マガジン」8月号で指摘した、「ある種の不穏さ」を前面に出してきている。
 例えば、「マクベス」のマクベス夫人(主役は誰?)のような役もうってつけだと思うのだが、三浦さんによれば、「新国立劇場バレエ団では彼女の良さを完全には生かすことができなかったようだ。
 ・・・というわけで、私にとっての今年の「ダンス月間」は、ひとまずこの公演で終了。
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ダンス月間(6)

2024年08月23日 06時30分00秒 | Weblog
第17回 世界バレエフェスティバル 「ラ・バヤデール」特別版
 総演出:マルセロ・ゴメス
  監修:オルガ・エヴレイノフ
    ニキヤ(神殿の舞姫):マルセロ・ゴメス、キム・キミン
       ソロル(戦士):ロベルト・ボッレ
 ガムザッティ(ラジャの娘):ダニ―ル・シムキン
マグダヴェーヤ(苦行僧の長):シルヴィア・アッツォーニ
 ハイ・ブラーミン(大僧正):マリーヤ・アレクサンドロワ
       ラジャ(国王):ヤスミン・ナグディ
 アヤ(ガムザッティの召使):ドロテ・ジルベール
 【影の王国】
 ヴァリエーション:ガブリエル・フェゲレド
 ブロンズ像:マッケンジー・ブラウン、エリサ・バデネス、菅井円加
   ほか総出演

 本編が終わり、「眠れる森の美女」のアポテオーズの冒頭部分が演奏された後、NBSの高橋専務理事が舞台に登場。
 高橋さんは、この後はじまる「ファニー・ガラ」の準備のための”つなぎ”だと言い訳した上で、第2回の最後に男性ダンサーたちが「パ・ド・カトル」の衣装で登場した時、アリシア・アロンソが、「神聖なバレエを冒涜するもの!」と激怒したエピソードを挙げつつ、以降、「ファイー・ガラ」は第15回まで毎回開催されてきたことなどを説明する。
 最後に、「『ラ・バヤデール』をやるらしいですよ」、「全員出演します!」(ここを強調)という言葉が出た際、歓声が挙がった。
 この演目は、今回の全幕特別プログラムで上演されていたからである。
 さて、本番はどうかというと、全員出演するので人数が多い上、ほぼ全員が仮装しているため、私の席からだと、人物を特定するのも難しい状況であった。
 というわけで、内容に関する解説を探したところ、非常に親切な記事を発見した。

 
 私が個人的に感動したのは、ガブリエル・フィゲレドによる完璧なヴァリエーション(本日いちばんの拍手喝采)と、赤い小さなちゃぶ台の上で、ジル→ボッレ→フォーゲル→ドロテ→ユーゴ→ジェルマン→ヴィシニョーワ→大橋さんが踊る、8人リレー方式による「ボレロ」(これはおそらく二度と見られないだろう)であった。 
 「全員出演」という言葉通り、二人の指揮者もレッスン担当のオリガ先生も出演していたが、基本的に素のままの姿で登場していたのは、このオリガ先生と、ソロル役のボッレだけだったと思う。
 この2人はやはり別格、というか元締めということなのだろうか?
 
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ダンス月間(5)

2024年08月22日 06時30分00秒 | Weblog
① 「眠れる森の美女」より第3幕のグラン・パ・ド・ドゥ
 振付:マリウス・プティパ 音楽:ピョートル・チャイコフスキー
 マリアネラ・ヌニェス、ワディム・ムンタギロフ
 「コンセルト・アン・レ」
 振付:モーリス・ベジャール 音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー
 大橋真理、アレッサンドロ・カヴァッロ
「ロミオとジュリエット」より第1幕のパ・ド・ドゥ
 振付:ケネス・マクミラン 音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
 ヤスミン・ナグディ、リース・クラーク
「アダージェット」
 振付:ジョン・ノイマイヤー 音楽:グスタフ・マーラー
 シルヴィア・アッツォーニ、アレクサンドル・リアブコ
「シルヴィア」
 振付:リセット・ダルソンヴァル 音楽:レオ・ドリーブ
 オニール八菜、ジェルマン・ルーヴェ
「スプリング・アンド・フォール」
 振付:ジョン・ノイマイヤー 音楽:アントニン・ドヴォルザーク
 菅井円加、アレクサンドル・トルーシュ
「ブレルとバルバラ」
 振付:モーリス・ベジャール 音楽:ジャック・ブレル、バルバラ
 ジル・ロマン 小林十市
「ジゼル」
 振付:ジャン・コラーリ、ジュール・ペロー 音楽:アドルフ・アダン
 ドロテ・ジルベール、ユーゴ・マルシャン
「悪夢」
 振付:マルコ・ゲッケ 音楽:キース・ジャレット、レディー・ガガ
 マッケンジー・ブラウン、ガブリエル・フィゲレド
「ル・パルク」
 振付:アンジュラン・プレルジョカージュ 音楽:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
 ディアナ・ヴィシニョーワ、マルセロ・ゴメス
「海賊」
 振付:マリウス・プティパ 音楽:リッカルド・ドリゴ
 永久メイ、キム・キミン
「カジミールの色」
 振付:マウロ・ビゴンゼッティ 音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ
 エリサ・バデネス、フリーデマン・フォーゲル
「レ・ブルジョワ」
 振付:ベン・ファン・コーウェンベルク 音楽:ジャック・ブレル
 ダニール・シムキン
「シンデレラ」
 振付:フレデリック・アシュトン 音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
 サラ・ラム、ウィリアム・ブレイスウェル
「作品100~モーリスのために」
 振付・演出:ジョン・ノイマイヤー 音楽:サイモン&ガーファンクル
 ロベルト・ボッレ、アレクサンドル・リアブコ
「ドン・キホーテ」
 振付:マリウス・プティパ 音楽:レオン・ミンクス
 マリーヤ・アレクサンドロワ、ヴラディスラフ・ラントラートフ


 6年ぶりに開催されるガラは、人気が高いためチケットは抽選制。
 何とか当たりを引いたが、前方・中央ブロックはさすがに取れず、やや前方・右ブロックの席となった。
 演目は上記のとおり盛りだくさんで、上演直後の感想メモ(目立ったところだけ)は以下のとおり(番号は上記に対応)。
① ヌニェスさん、床に手がつくまで体を折り曲げてる。
③ 完璧な感情表現。
⑤ オニールさん、前半でちょっとつまずくも、リカバリー。
⑧ ドロテさん、まだまだやれる。
⑨ 新たに「鳥」の動きを発見。
⑬ 最後のジャンプで決める。
⑮ 急仕上げっぽいが、一生懸命さが光る。
⑯ グラン・フェッテしないで盛り上げる。

 ⑨「悪夢」を観るのは3回目だが、思考がだんだん「脱”ヒト”化」してきて、動物や虫などの動作を発見しようとしてくる。
 すると、今回は「鳥」の動きを発見した。
 ちなみに、ガブリエル・フィゲレドは、この後の番外編で天才的な才能を見せつけることになる。
 強い印象を与えたのは、やはり⑯「ドン・キホーテ」のアレクサンドロワ。
 グラン・フェッテの代わりにピケ・トゥールが出て来たのだが、これがえんえんと2分くらい続いて会場は大盛り上がりとなった。
 「テクニックを見せつけるだけがバレエではない」ということなのだろう。



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