ヴァイオリン=中野りな
チェロ=佐藤桂菜
ピアノ=進藤実優
ほぼ毎年聴いている《三大協奏曲》だが、今年の場合、ソリストの顔ぶれに主催者側の狙いが明瞭にあらわれていると感じる。
そう、「ルッキズム路線」である。
案の定、お客さんは(主に中高年の)男性が多く、前から1~3列目などは7~8割が男性である(但し、ミュージカル「ミス・サイゴン」のように、「最前列のほぼ全員が男性」というほどではない)。
メンコンの中野さんは、クセのない素直な演奏で気持ちよく聴けた。
ところが、次のドヴォ・コンでちょっとした問題が発生する。
佐藤桂菜さん(超絶美人!)の「深みのある温かい音」(公演チラシの表現)をオーケストラ(特にトゥッティの時と管楽器)が減殺してしまう、つまり、 「ソリストが「繊細さ」を追求しているのに、オケが「威勢の良さ」を発揮してしまう」
というミスマッチが生じたのである。
ドヴォ・コンを「優しく、繊細に」弾くこと自体は問題ないと思うが、その場合、オケはトゥッティでのヴォリュームを抑えるべきだし、管楽器は客席にどう響くかを考えて演奏すべきではないかと思う。
例えば、フルート奏者が、チェロと同じメロディを普通に吹いてしまうと、客席では「チェロの音とフルートの音がケンカしている」、あるいは、「フルートの音がチェロの音を『殺している』」ように聴こえる(これは、演奏している人にも指揮者にもおそらく分からないと思う)。
ラストのチャイ・コンだが、進藤さんは、ソロ・パートでテンポを落とす(やや「タメる」)特徴のある弾き方なので、必然的にオケと息を合わせる必要性が高まる。
例えば、ソロからオケとの協奏に切り変わる「入り」のタイミングなどは注意する必要があるだろう。
こうしたところは、おそらく十分なリハーサルによってカバーするしかないのだろうが、今回はそのような余裕が乏しかったのではなかろうかと推測する。
とはいえ、全体的には力のある良い演奏だったと思う。
J. S. バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV 825
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op. 31-2 「テンペスト」
ショパン:ポロネーズ第7番 変イ長調 Op. 61 「幻想」
フォーレ:ノクターン第8番 変ニ長調 Op. 84-8
フォーレ:ノクターン第13番 ロ短調 Op. 119
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第2番 ニ短調 Op. 14
<アンコール曲>
ラヴェル/務川慧悟編曲:『マ・メール・ロワ』より「妖精の園」
ショパン:英雄ポロネーズ
先日「サマー・フェスタ・ミューザ」でラフ・コン3番を完璧に弾いたばかりの務川さんのソロ・リサイタル。
この人は、弾き方が優雅で見栄えがよい。
ちなみにお客さんの約7割が(主に中年以上の)女性であり、スタンディング・オベーションをしたのも殆どが(主に中年以上の)女性であった。
私の前の席の女性は、ピアノから10メートルも離れていないPブロックの席だというのに、オペラグラスでひたすら務川さんの手の動きを観察していた。
私見だが、ピアニストの手の動きを観るのが好きな人は、ピアノを習ったことのある人か、人間の手が「可愛らしい小動物」のように見えてしまう人ではないかと思う。
さて、「パルティータ」を滑らかに、「テンペスト」を情感豊かに弾いた後、「幻想ポロネーズ」の終盤で、ちょっとした違和感を感じた。
和音が割れてしまい、音と音が”ケンカしている”ように聴こえるのだ。
「そのように聴こえる和音なのだから当然なのだ」という見解もあるだろうが、全面的には賛成しかねる。
例えば、ブルース・リウの演奏を聴いていると、和音が割れて聞える場面は殆どない(
リーとリウ)。
もちろん、これは、そう聴こえるように意図して弾いているのである。
「ふたつの音を同時に鳴らしたとき、そこに響きが生まれます。響きには協和と不協和とがあり、協和な響きを「ハモる」、不協和な響きを「アタる」といいます。同時になるふたつの音程には、「ハモる」音程と「アタる」音程のふたつしかありません。」(p40)
「「アタる」音は、ほかの音に比べて弱く弾くのが、演奏の基本となります。この基本がよい響きを演出する原点です。」(p58)
この後のフォーレ「ノクターン」13番とアンコール1曲目の「妖精の園」は出色の出来栄えで、特に後者は別世界を垣間見させるような逸品だった。
というわけで、務川さんのラヴェルのCDが欲しくなってきた。