Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

エレンの「自由」

2021年03月31日 06時30分31秒 | Weblog
進撃の巨人(33) 地鳴らし
 エレン「きっと外の世界はこの壁の中の何倍も広いんだ それを見た者は この世界で一番の 自由を手に入れた者 これが自由だ
    「壁の外で人類が生きてると知って・・・オレはガッカリした ・・・すべて消し去ってしまいたかった・・・

 ここでエレンは、2種類の「自由」について語っているように思われる。
 一つは、「壁」という障害から脱する「自由」、つまり妨害排除的な自由である。
 もう一つは、他者を「消し去る」自由、つまり攻撃的・他害的な自由、極端な言葉でいえば「人を殺す自由」である。
 これを、法的にはどう考えるべきだろうか?
 憲法の講義などで、繰り返し議論がなされてきた問題である。

[笑うケースメソッドⅢ]現代日本刑事法の基礎を問う
 「「人権が制約される」と捉え、制約内在説、外在説を論じ、公共の福祉に達する、そのようなディスコースは、それ自身的がはずれている。なぜならば、人権ないし自由は概念の理論的性質としては占有にほかならず、したがって決して攻撃的には使えないからである。よく挙げられる「人を殺す自由はなぜ制約されるのか」というトポスは意味をなさない。もちろん、法は「人を殺してはいけない」といっていない。「殺したならば、かくかくしかじかである」といっているだけである。」
 (「人を殺す自由」はあると言うことも可能だが)「ただしこのような言い方は日常的なものであるにすぎず、厳密には、「人を殺してはならない」という倫理的規範に法はかかわらない、といわなければならない。」(p11)

 例によって目の覚めるような解説で、エレンは「自由」=「占有」の意味を正確に理解していなかったようである。
 それだけでなく、彼は、「エルディア人 対 マーレ人」という、集団思考にとらわれてしまっている。
 第一話の冒頭のシーンから、このマンガがハッピーエンドをむかえることはないと分かっていたが、さて、どのようなラストシーンになりますことやら?
 
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クイズ感覚、ゲーム感覚(3)

2021年03月30日 06時30分47秒 | Weblog
東大合格者40年連続1位の開成高校 官僚になぜ、出身者が多いのか? OB「官僚向きの人を選抜」〈週刊朝日〉
 「開成は組織的で集団が好きと言われますが、一部は当たっています。下町の学校ゆえ、サラリーマン、商店の子弟が多く、ハングリーさがあり、自分が良ければいいではなく、みんなで日本をどうにかするという大きな志を抱いています。そんな開成のカラーが大好きでした。個人が際立つ麻布との違いでしょうか。麻布とは勉強でも遊びでもよくケンカしました
 「開成に入学すると、初日から理不尽なことを言う先輩がやってきます。自分たちが上級生になれば、後輩にも同じことをします。ここでタテの関係ができる。同時に同級生というヨコの存在も築かれ、タテヨコいずれも『あいつは成績優秀』というより『あいつはいいヤツ』が評価基準となって深く付き合い、それが卒業後も続くのです。いまでもすぐ飲みに行ける仲間は100人います。それぐらいみんな開成愛が強く、仲間を大切にして助け合います

 「クイズ感覚、ゲーム感覚」で受験・就職を乗り切った”エリート”の内面を知れば知るほど、危機意識も強まるのではないかと思う。
 というのも、この種の集団志向・集団思考は、かつての陸軍などで見られたものと基本的には同じだからである。

歪んだエリートを生む? 官僚の「非合理」な新人教育とは
 「筆者がいた外務省に劣らぬくらい、財務省も独自のローカル・ルールが幅をきかす「不思議の国」のようだ。この種の理不尽さは、旧陸軍の内務班での「新兵いびり」につながるものがある。「鍛える」という類の過度に非合理な新人教育からは、歪んだエリートしか生まれないと思う。

 抜きんでた「クイズ感覚、ゲーム感覚」を備え、かつ「新兵いびり」を経た”エリート”は、かつての陸軍士官学校卒の”エリート”、例えば牟田口廉也のようになってしまいかねないのである。
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マゾヒズム・アピール

2021年03月29日 06時30分01秒 | Weblog
 肉食動物(2)で思い出したが、新入社員のころ(およそ四半世紀前)、一つ上の先輩の言葉を聞いて驚愕した経験があった。
 それは、
 「営業マンたるもの、決して日焼けをしてはならない
というものである。
 本人に聞いて確かめたわけではないが、おそらくは、「日焼けをしているような人間は、プライベート優先で仕事をおろそかにしているという印象を顧客に与えるため、営業マンにはふさわしくない」というくらいの意味だろう。
 およそ「ワーク・ライフ・バランス」の考え方とは相容れない発想である。
(そういえば、当時の銀行は、「ゴルフの腕前がシングルの人は、経営をおろそかにするので、そのような社長がいる会社には融資しない」と言われていたが、似たような発想だと思う。)
 この人は、決して変わり者というわけではなく、きちんと仕事をこなす模範的な若手社員なのだが、ここで私が問題にしているのは、そのような若手社員をして上のように言わしめた、当時の社会的な風潮である。
 私見では、上に挙げた言葉は、バブル期以降の「自己犠牲強要社会」の一例にほかならない。
 ここでは、組織の「自己犠牲強要」を先取りした若手社員が、自分は自己犠牲をいとわない滅私奉公型の人間であることを周囲にアピールしているわけで、要するに「マゾヒズム・アピール」である。
 こうした不健全な思考が、古手の幹部社員ではなく、新入社員や学生のレベルにまで浸透していたという事実は恐ろしく、当時の社会がいかに病んでいたかが分かる。
 
 
 
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自然人と法人

2021年03月28日 06時27分29秒 | Weblog
 法人の破産事件(申立て代理人、管財人)を受任すると、いつも大学2年生のころの民法の講義を思い出す。
 それは、大村敦志先生による、「自然人と法人の違い」についての解説のくだりである。
 自然人(これを先生の奥さんは、「ターザンみたいな人」と解釈したそうである。)というのが「ヒト」であり、「法人」は「ヒト」以外の法によって人格を与えられた主体なのだが、先生によれば、両者の主な違いは、① 成熟する(すなわち行為能力を獲得する)のに時間を要するか、② 「死」を概念出来るか、にあるという。
 自然人の場合、成熟に時間を要するため、「成人」という儀礼を経なければ行為能力を獲得できないが、法人は設立と同時に行為能力が認められる。
また、自然人は「死すべき存在」だが、法人は永続的なもの、すなわち「不死の存在」と想定されている。
 ところが、現実の社会では、法人も死を迎えることが珍しくなく、その典型が破産なのである(厳密に言えば、清算決了時が死亡時ということになる。)。
 要するに、「法人の永続性」はフィクションに過ぎないのである。
 
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転勤を疑う(2)

2021年03月27日 06時30分23秒 | Weblog
総合職へ転換、女性に認めないのは差別 横浜地裁が認定
 「原告の女性の1人は会見で、事務職の求人の選考を経て採用されたが、入社してはじめて男性が総合職、女性が一般職になっていることを知ったと説明。「同じ試験なのに、納得できなかった」と当時から違和感を感じていたと訴えた。
 もう1人の女性は「業務は男性と変わりがないのに、なぜ総合職になれないのかと伝えても、社長に『女性はなれない』と言われ、怒りを覚えるしかなかった。このような結果が出てとてもうれしい」と話した。


 この事案は男女差別としか言いようがないが、それだけで問題は終わらない。
 だいたい、総合職と一般職の区別は合理的なのだろうか?
 一般職は、転勤がない代わりに幹部にはなれないというのが一般的な理解ではないかと思う。
 また、先日の研修では、ある著名な経営法曹の方が、「転勤はしたくないという労働者」=「非正規雇用社員」という説明をしていた。
 非正規社員(転勤なし)<一般職(転勤なし)<総合職(転勤あり)というヒエラルキーがあるかのようである。
(但し、「エリア総合職」というものもあるそうだ。)
 こうした構造の下で、「転勤を受け入れるのであれば正社員として守る」というのが了解事項となっているようなのだが、この発想がそもそもおかしいのではないか?
 これは、会社が社員を将棋の駒のように配置できるようにするためのトリックのような気がしてならない。
 「転勤を疑う」ことも大事なのではないかと思うわけである、。 
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反社認定(6)

2021年03月26日 06時30分35秒 | Weblog
文書改ざん 自殺職員の“ファイル” 提出を国に促す 大阪地裁
 「原告側によりますと、この中で裁判官はファイルについて、「証拠調べの必要がないとは考えていない」としたうえで、国に対して提出命令を出さなくても任意で開示するよう促したということです。
 一方、国側は「ファイルは探索中」として存在するかどうか明らかにせず、申し立てに対する主張は、5月6日までに書面で出すと改めて答えたということです。


 「探索中」というのは理解しかねるが、裁判所の言いぶりからは、「ファイルを提出しない場合には文書提出命令を出しますよ」という意思が窺える。
 ちなみに、裁判官の中には、文書提出命令を出すのを嫌がる人も多いようである。
 その理由としては、即時抗告をされて結論が変わると一大事だし、そうでなくとも、訴訟手続がしばらくストップしてしまい、「長期滞留案件」の発生原因となって、ひいては人事評価に悪影響を与えかねないからである。
 だが、大阪地裁の裁判官は、こうした懸念を抱いていないようである。
 国側は、仮に決定が出たら即時抗告をするつもりなのだろうか?
 
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杉田ロス、ヘザーロス(2)

2021年03月25日 06時37分52秒 | Weblog
 「ラジオビジネス英語」(4月号)を買ってみたが、良くない予感が的中した。
 杉田さん(企業経営者でもある)のようなマクロの視点(最新のアメリカ情勢や人々の暮らしなど)は薄れ、社内ミーティングのやり方や「逆光で顔が見えにくい」を英語でどう表現するかなどといった、ミクロの視点が前面に出ている。
 気になって講師の経歴をみたところ、案の定、「他人の金」で留学したと思われる人物だった。
 「自分の学費を他人からの無償資金に頼る人間は、自由独立の経営者たるにふさわしくない」というのがアメリカ社会の本音なので、「ビジネス英語」というよりは、「サラリーマン英語」と呼ぶべきかもしれない。
 もっとも、留学する人も、海外で就職・起業する人も少なくなった現在では、この種の英語の方が需要があるのかもしれない。
 いずれにせよ、「杉田ロス、ヘザーロス」が募りそうな気配である。
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杉田ロス、ヘザーロス

2021年03月24日 06時33分10秒 | Weblog
「杉田ロスにはさせません!」──放送終了となるNHKラジオ「実践ビジネス英語」に代わり、講師の杉田敏先生による新作ムック『杉田敏の現代ビジネス英語』が発売決定!
 「国の新聞社やPR企業でキャリアを積んできた私が出した本がNHKの担当者の目に留まり、『やさしいビジネス英語』という講座を引き受けたのが1987年のことです。NHKでは初めてのビジネス英語講座でした。経営者としての仕事もあり、6か月だけのつもりだったのですが、気づいたら30年以上が経っていました。この間、複数の仕事をこなしてきたため一日15時間近く働くこともざらでしたが、最新のテクノロジーも駆使して情報収集に努め、最新の話題を皆さんにお伝えしてきたつもりです。そして、私が一貫して掲げてきたテーマが、Love & Profit(愛と利益)です。社員や顧客や社会に対して愛を持って接しながら、利益もしっかりと出し、社員や株主などに還元する、という考え方です。読者の皆さんの心の中に『実践ビジネス英語』の理念が残ったらうれしく思います。

 「実践ビジネス英語」の4月号を買おうと本屋にいったら見当たらない。
 調べたら、なんと3月で終了となっていた。
 「やさしいビジネス英語」(やさビズ)から通算すると33年という長寿番組が突然終了し、ショックを覚えている人も多いだろう。
 あの山中伸弥教授も「やさビズ」で英語を学んだそうで、「番組のおかげで留学を実現し、iPS細胞につながる研究を始めることができた。帰国後もジョギングの友となった。終了は本当に寂しい」と、杉田さんにメッセージを寄せたらしい。
 こうなると、「杉田ロス」は避けられないところだが、幸いにも「杉田敏の現代ビジネス英語」が発売されるそうで、一安心。
 個人的には、ヘザー・ハワードさんの声も聞き続けたいところである。
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誤解を招く

2021年03月23日 06時37分37秒 | Weblog
家庭の法と裁判 2020年4月号 vol.25 離婚訴訟における関連損害賠償請求の範囲と審理 丹羽敦子(東京家庭裁判所判事)
 「慰謝料請求の認容額について、認容率が37%であり、平均認容金額が153万円、最高認容金額が700万円、最低認容金額が10万円、最も多い認容金額が100万円(27件)、次に多いのが200万円(13件)であったと報告している。」(p45)

 離婚事件に限らず、慰謝料の見通しについて依頼者に説明するのは結構難しい。
 交渉・調停及び訴訟上の和解における慰謝料額は一般には公表されていないし、判決では裁判官の裁量で金額が決まるため、予測可能性が低いからである。
 また、あまり正確でない情報がネットなどで飛び交っていることもある。
 例えば、ある行政書士事務所のサイトに「モラハラ事案:慰謝料は〇〇万円~〇〇〇万円」などとあるのを見て、「私の場合、最低でも〇〇万円くらいの慰謝料をもらって当然だと思う」とおっしゃる依頼者がいて、出来るだけそれに沿う内容の訴状を書いたところ、家裁の裁判官が、第1回期日で「本件のような事案では慰謝料は認められない」と断言した事件があった(最終的には数十万円の解決金で和解)。
 上で引用した記事は、判決に至ったケースに関するものなので、あらゆる事案で妥当する話ではないが、不要な誤解を生じさせないための、依頼者への説明用資料としては有用だと思う。
 

 
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クイズ感覚、ゲーム感覚(2)

2021年03月22日 06時38分27秒 | Weblog
 先日、たまたま新国立劇場の研修所での講義の映像を観る機会があった。
 研修生は、一般人であれば高校生の年齢なのだが、その姿を見ていると、ふと、私自身の高校時代について、いろいろと考えさせられることが出てきた。
 中でも、痛感したのは、自分のやりたいことを明確に理解していれば、「やりたくないこと」も明確に分かるということだった。
 分かりやすく言うと、演劇に没頭したい若者にとって、微積分の問題に一日の大半を費やすことは無意味だということである。
 私の高校時代のことだが、「センター試験対策」と題する数学の授業の中で、教師が次のように発言した。
 念のため説明すると、当時、センター試験の数学は、確か1から5までの選択肢があったところ、どの選択肢を選ぶべきかという点についての説明である。

① 「ルート」の中に入るのは、2か3か5。1や4というのはまずあり得ない。あえて言えば3が多い。
② 分からないときは、「ゲリラ作戦」が有効。1から5まで代入して試してみろ。

 
 ある意味では合理的な説明なのだが、今にして思えば、この種の下らない授業に青春時代の貴重な時間を費やしてしまったことは、悲劇以外の何物でもない。
 ましてや、演劇に打ち込みたいという高校生にこうした授業を強制することは、刑罰に等しいような気がする。
 ところが、この種の授業が今でも確実に行われているであろうことは、「クイズ感覚、ゲーム感覚」で社会に出てくる人間が後を絶たないことから明らかである(私見では、内容の下らなさ・つまらなさを糊塗するため、あえてクイズやゲームのような形式で教える教師も多いのではないかと思う。)。
 だから、私などは、若い人たちには、「やりたくないこと」を明確に意思表示してもらいたいと思うのである。
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