Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

矢面に立つ

2022年08月31日 06時30分29秒 | Weblog
松原のぶえさん「腎臓をくれた事務所社長には本当に感謝」YouTubeで歌唱指導も【あの人は今】
 「「若い頃は堂々と歌えたのですが、年々失敗することが怖くなって、うまく歌えるかなあ、間違えないかなあと不安を抱えながら歌うことが多くなっています。『おんなの出船』はとくにキーの幅が広いのでプレッシャーも強い。歌い終わった後も、あれで良かったのかな、リハーサルの方が良かったな、と思ってしまって、歌うことを楽しむ、という感覚ではないですね。だから、自分が出演した歌番組もあんまり見ないようにしています」
 2002年、マネジャーだった夫と独立したが、翌年離婚。以後は実弟と二人三脚で活動してきた。
「独立後は、自分が矢面に立たないといけないので大変でした。後に北島先生にお目にかかったとき、『ずっとオレんとこにいた方が良かったんじゃないの?』と笑いながら声をかけてくださり、ありがたかったです」


 私は「独立」とか「フリー」という言葉が大好きで、組織に属さない人を無条件で応援するような人間の一人である。
 だが、フリーであることには、不安や苦労がつきまとうわけで、松原のぶえさんもその例外ではないようだ。
 松原さんは、2002年に北島音楽事務所から独立(マネジャーも一緒に北島事務所から独立したのだろう。)した後、離婚や腎移植など、相当な苦労を経験されたようだ。
 「失敗することが怖くなって」とか、「自分が矢面にたたないといけない」という状況は、”フリー”であることと表裏一体である。
 つまり、「失敗」しても自分以外にカバーする人がいないだけでなく、その後は当該クライアントから仕事が来なくなるかもしれないし、(芸能界ではおそらくありがちなことかもしれないが)例えば、反社的な人物が近寄ってくれば自分で対処しなければならないわけである。
 ちなみに、「ずっとオレんとこにいた方が良かったんじゃないの?」とおっしゃる元ボスには、こんな問題(あの超有名歌手、『NHK紅白歌合戦』出場直前に辞退に追い込まれていた)があった。
 こういう背景を知っていると、「矢面に立つ」という松原さんの言葉が、含蓄に富む、非常にリアルなものに感じられるのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少女とおばさん

2022年08月30日 06時30分35秒 | Weblog
TUGUMI 吉本ばなな 著
(以下、ネタバレご注意!)

 存命中の作家の小説は、基本的に筒井康隆・池澤夏樹の2人の作品を除いて読まない主義の私だが、先日約30年ぶりに再読した「キッチン」が非常に良かったので、当時のベストセラーだった「TUGUMI」を読んでみた。
 序盤を読むと、設定が奇抜なように見えて、必ずしもそうではなさそうであることに気付く。
 つまり、「意地悪で粗野で口が悪く、わがままで甘ったれでずる賢い」(p11)つぐみという美少女は、ピカレスク小説における「悪漢」を少女に置き換えただけのように見える。
 それだけの単純な小説であれば、私などはあとは斜め読みして済ませるところだが、我慢して読んでいるうちに、もう一つの試みが隠れていることに気付いた。

 「・・・それがいくら自然の産み出したやむをえないこととはいえ、つぐみのこわれた肉体に、つぐみの心が宿っているというのはひどく切ないことだった。つぐみには誰よりも深く、宇宙に届くほどの燃えるような魂があるのに、肉体は極端にそれを制限しているのだ。」(p116)
 「・・・私の声は波音と重なり、闇と吹きわたる風と、ほほを打つ冷たい水滴の中にくっきりと、つぐみの面影を浮かび上がらせた。まるで点々と海をふちどる船明かりのように、つぐみの行動を言葉にすればするほど、つぐみの生命の光が今ここにあるみたいな強烈さで話のそこここに輝きはじめるのだ。・・・つぐみはただそこにいるだけで、何か大きなものとつながっているのだ。」(p194~196)

 ここまで読めば、さすがに作者の意図が分かる。
 執拗な「海」の描写が示しているのは、つぐみが「海」(ないし自然)の化身であり、いまだ「社会化」されない存在であるということなのだ(この解釈は、作者自身による「文庫版あとがき」(p232~235)によってお墨付きを得る)。
 ここで私は、「白鯨」についてのトーマス・マンの解釈(確か「ゲーテとトルストイ」だったという記憶)を思い出す。
 マンは、白鯨(モービー・ディック)を「無垢な自然」の象徴と解したうえで、それは人間社会の尺度からすれば、”悪”に近いということを指摘している。
 つまり、「無垢な自然」は人間(ないし社会)に対立するものであり、つぐみがそうであるように、”悪”に見えるわけである。
 ところが、「海」を化体した孤独なつぐみは、恭一というボーイフレンドに出会い、ようやく人間(ないし社会)に心を開く。
 つぐみが暮らしていた海沿いにある旅館は閉鎖され、つぐみは、恭一の父が経営する山の上にあるホテルに引っ越すことになった(p222)。
 ここでは、「つぐみ」及び「海」(自然)と、「恭一」及び「山」(人間・社会)との対比が鮮やかである。
 ・・・問題は、「社会化」された後のつぐみがどうなったかである。
 作者によれば、「つぐみは私です」(p230)ということなので、ばなな氏の最近の小説を読めばよいのかもしれない。
 さて、「少女」(自然)から「おばさん」(人間・社会)への変貌の結果はいかに・・・?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少年とおやじ

2022年08月29日 06時30分31秒 | Weblog
香川照之による性加害 「胸を直に触り、キスもしていた」同席者が証言
 「極め付きが、途中から香川の隣に座った美麗さんをターゲットにした乱暴狼藉だったという。
「30代の彼女は明るく、酔ったお客さんをあしらうのが上手で、だから余計にいじられたのでしょう。間もなく香川さんは美麗さんのブラジャーを剥ぎ取り、その匂いを嗅ぎながら彼女をはやし立て、ブラジャーをほかのお客さんに手渡す素振りまでしていました。さらには美麗さんの胸元に手を突っ込んで、胸をもみはじめた。キスまでしていましたからね」
 このホステスはその晩の香川の行為を、
 「銀座のクラブではありえないほどの狼藉ぶり」
 と断じるが、それほど論外な行動なら、止めることはできなかったのか。


 香川氏の行為は、「銀座のクラブ」では御法度だったということだ(もっとも、この書きぶりだと、銀座でなければ許容されるところもあるように読めてしまうが・・・)。
 「香川照之の昆虫すごいぜ!」などを観ていると、彼が純真な少年のような心を持っていることが分かる。
 だが、今回の騒動によって、その彼が”セクハラおやじ”(というよりは、本件では強制わいせつ)の側面も併せ持っていることが判明したということになるだろう。
 「純真な少年」と「セクハラおやじ」、「昼は昆虫を可愛がり、夜はホステスをいたぶる」というジキルとハイドのような人間の二面性は、程度の差こそあれ、誰にでもあるのだろう。
 ここで、”ハイド”の側面を一掃してしまおうとすれば、例えば、(去勢などにより)リビドーを徹底的に弱体化することが考えられる。
 このことを、筒井康隆先生も「聖痕」という長編小説で提示していらっしゃる(最後の長編)。
 まあ、これは現実的には無理な話だろうが、例えば、将来的には、「性欲を抑える薬」などが開発され、強制わいせつの常習犯などに供与されるようになるのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プーチンとローレライ

2022年08月28日 06時30分40秒 | Weblog
プーチンの「呪い」だ…! ドイツの「ライン川」でいま起きている「ヤバすぎる危機」
 「フランスでも原子力発電所の出力低下を余儀なくされているが、最も深刻な事態に陥っているのはドイツだ。
 物流の大動脈であるライン川の水位が記録的な水準にまで低下しているからだ。
 スイスの山岳地帯に源流を発するライン川の総延長は1200キロメートル超。ドイツの主要都市をめぐり、最後の欧州最大の港湾都市ロッテルダム(オランダ)から北海へ注ぐライン川は、石炭や石油製品、鉄鉱石、化学製品、自動車部品などを運ぶ役割をはたしてきた。
 ウクライナ危機後はロシアからのエネルギー供給減少を補うルートの1つとして重要性が高まっていたのだが、水位の低下で石炭や石油製品などを運ぶ船の航行が困難になり、エネルギー価格の高騰に拍車をかける懸念が生じている。


 ドイツでは、大干ばつによるライン川の水位の低下で石炭や石油製品などを運ぶのが困難となり、エネルギー価格の高騰に拍車をかけると懸念されている。
 これについては、「プーチンの呪い」という声が出ているそうだ。
 もっとも、水位の低下で困っているのはドイツ国民だけではない。
 おそらく、獲物が来ないのでローレライも困っているだろう。
 プーチンとローレライは、利害が対立しているわけだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤクルトとアーサー王

2022年08月27日 06時30分57秒 | Weblog
【村上は絶対に曲げない‼︎】村上宗隆の「本当の凄さ」とヤクルトを支えるベテランの存在について語ります!【プロ野球】
 上田「・・・こういう風な(円形の)ロッカーなんで、みんなが顔を向き合ってます。・・・」(0:27~)

 ヤクルトが絶好調である。
 その背景には、チーム内の人間関係が良好だという事情があるようだが、その秘訣はロッカールームにあるかもしれない。
 というのは、ヤクルト球団は、2018年くらいにロッカールームを円状の配置に変えて以降、みんなが向き合ってコミュニケーションをするようになったらしいからである。
 この話を聞いて、私はアーサー王の円卓のことを思い出した(円いのか、四角いのか、そもそもテーブルなのか?)。
 「彼らはテーブルに平等に場所をあてがわれ
  同じように給仕を受けた。
  誰も、仲間よりも良い席に着いていると
  自慢することはできなかった。


 「ロッカールームの中では、チーム内の地位や上下関係などはいったんリセットされ、対等のメンバーとして話が出来る」・・・というのは、やや美化しすぎた見方だろうか?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手段を選ぶ

2022年08月26日 06時30分20秒 | Weblog
クリミア奪還へ手段選ばず 大統領「停戦の用意はない」
 「ウクライナのゼレンスキー大統領は23日の記者会見で、ロシアが2014年に強制編入したウクライナ南部クリミア半島について「他国との相談なしに、自ら正しいと決めたあらゆる手段で取り戻す」と述べ、奪還への強い決意を示した。

 さすがにこれは言い過ぎ。
 占有原則を否定するかのような発言だからである(譲渡担保を巡るエトセトラ(8))。
 これだと、プーチンと同じ次元に落ちてしまう。
 しかも、「自衛権の行使」の名目で、ロシアによる(核を含む)反撃の口実を与えてしまいかねない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危ない発言

2022年08月25日 06時30分34秒 | Weblog
運行会社社長「運転手のミスあった」 名古屋高速バス炎上事故
 「松浦社長はバスが分離帯に衝突していることから「当然、運転手のミスがあったと考えている」と述べた。

 これは危ない発言だと感じる。
 私見だが、捜査当局は社長のこの発言を苦々しく思っているはずだ。
 というのも、まだ事故原因は特定されておらず、警察が運行会社を捜索していること(バス炎上、運行会社を捜索 過失運転致死傷容疑―車両には異常なし・愛知県警)から分かるとおり、管理体制や勤務状況の問題など、運行会社側の責任についても捜査が進行中だからである。
 したがって、例えば、今後仮に運行会社側の責任を裏付けるような証拠が見つかった場合、捜査機関は、社長の上記発言をもって「容疑を否認しており罪証隠滅の恐れあり」として、逮捕・勾留の要件に該当すると主張してくる可能性が考えられるのである。
 亡くなった方に合掌。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

批判と中傷の間

2022年08月24日 06時30分04秒 | Weblog
相手方弁護士を“誹謗中傷” 仙台弁護士会の男性弁護士を業務停止“15日”
 「民事訴訟の相手方の弁護士を誹謗中傷したとして、仙台弁護士会は22日までに、所属の男性弁護士を業務停止15日の懲戒処分としました。・・・  
 仙台弁護士会によりますと井上弁護士は2020年10月、民事訴訟の被告側弁護士として活動する中で、裁判所に提出する書類に、相手方の弁護士を誹謗中傷する内容を記載しました。


 私の記憶では、相手方当事者について「極悪非道」うんぬんと準備書面に書いて戒告を受けた弁護士がいたはずである。
 そのとき私は、その程度で懲戒対象になるというのは意外だと感じた。
 なぜなら、「笑止千万の主張である」、「このような主張は法的には無意味であり、本件の審理においては無視すべきである」などと書き連ねる相手方代理人を見たことがあり、そのときは「誹謗中傷」などとは感じなかったからである。
 普通に業務をしていても、激しい対立のある事案だと、「批判」と「中傷」の境目が微妙なこともある。
 特に家事事件では注意が必要で、例えば、「日常的なDV」くらいならよいが、「サディズム的傾向」となると、「中傷」に近づく。
 やはり、「事実を淡々と書く」という基本姿勢が重要なのだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蝶々さんの計画

2022年08月23日 06時30分51秒 | Weblog
ミュージカル「ミス・サイゴン」
 「1970年代のベトナム戦争末期、戦災孤児だが清らかな心を持つ少女キムは陥落直前のサイゴン(現在のホー・チ・ミン市)でフランス系ベトナム人のエンジニアが経営するキャバレーで、アメリカ兵クリスと出会い、恋に落ちる。お互いに永遠の愛を誓いながらも、サイゴン陥落の混乱の中、アメリカ兵救出のヘリコプターの轟音は無情にも二人を引き裂いていく。・・・

(以下、ネタバレご注意!)

 「ミス・サイゴン」が「蝶々夫人」を基に作られたことはよく知られている。
 ところが、我が子への対応について言えば、キムと蝶々さんは正反対である。
 キムは、バンコクを訪れた夫(クリス)に、「この子をアメリカに連れて行って」と縋るものの、「金銭的援助をするから、タイでアメリカンスクールに通えばよい」とクリス夫妻に拒否される。
 これに対し、蝶々さんは、ピンカートン夫妻から我が子の引渡しを求められ、最後はそれに応じるものの、別離に耐えられず自死する。
 表面だけを見ると、「別離をいとわず、我が子を夫に差し出すキム」と「我が子を奪われ、悲嘆の余り自殺する蝶々さん」という対立の構図が浮かび上がってくるのである。
 これには、例えば、自国で平和に暮らす蝶々さんに対し、キム母子は戦火を逃れて隣国(タイ)でなんとか暮らしているという境遇の違いがあるのは確かだが、やはり、蝶々さんが抱いていた人生計画を押さえておくのが重要だと思う。
 蝶々さんは、ピンカートンと結婚して、我が子と一緒にアメリカに渡るつもりだったのだろうか?
 おそらくそうではないだろう。

簡単にわかる「蝶々夫人」あらすじと相関図
 「必ず、ピンカートン様は戻ってくるわ。最後の日にこう言っていた。「コマドリが雛をかえすころに戻ってくる」と。「バラの花を持って帰る」と。

 何とも言い難いところだが、蝶々さんは、「通い婚」のようなイメージを持っていて、ピンカートンは日本に「戻って」きて、当面の間、日本で妻子と暮らすのだと考えていたのではないだろうか。
 もっとも、その前提として、ピンカートンは、世界中に転勤しなければならない軍隊を辞めていないといけないのだろうが・・・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルサンチマン(2)

2022年08月22日 06時30分15秒 | Weblog
 「真夏の夜の夢」コンサートのパンフレットに、こういう文章が載っていた。

 「ドイツ・ハンブルク生まれのメンデルスゾーン(1809~1847)は、銀行家の父を持つ。だから生活に困ることが少なくて音楽は甘い。ーこんな説明がされることがあるが、果たしてそうだろうか。

 こういう説明をする評論家が多いとは、初耳だった。
 普通に考えて、ピアノやヴァイオリンをたしなむことが出来る家庭はそれなりに裕福だと思われる。
 対して、その日を暮らすのもギリギリの生活を送っている作曲家が作る音楽だけが「本物の(甘さのない)音楽」だという主張もおかしい。
 上に引用した批評は、単なるルサンチマンに過ぎないという気がするし、これをつき進めると、中国共産党(清貧芸術家)、あるいは「共苦」(Mitleid)の押し付け(「共苦」の正体)になってしまいそうである。
 こういう音楽評論がまかり通ってきたとは・・・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする