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Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

パクリ疑惑(6)

2025年03月31日 06時30分00秒 | Weblog
 「国立能楽堂では2年おきに、復曲や新作を主催公演で上演していて、今年度は3月28日、29日に復曲能「武文(たけぶん)」が演じられます。
「武文」は1987年に国立能楽堂が初めて復曲しました(能本作成・演出/横道萬里雄、演出補佐/羽田昶・松岡心平。2年後にも上演)。
今回は演出を見直し、実に35年ぶりの再演です。
 「鎌倉幕府打倒のため挙兵した後醍醐帝の第一皇子である一宮は土佐に流されます。そのため、京に残された妻の一宮御息所は、臣下の秦武文を警護に伴い夫をたずねる旅に出ます。
 二人が大物の浦の船宿に着くと、この浦に来ていた筑紫国の松浦氏の武士が御息所を垣間見て一目惚れをします。
 なんとか御息所を奪いたい松浦某は、船宿の亭主を脅して策略を練らせ、浦の並びの家に火を放って騒ぎを起こします。武文は御息所を守るため近くの船に退避させますが、その船が松浦某の船だったのです。
 御息所を乗せた船は逃亡し、気づいた武文はこれを追いますが、小舟では追いつけず、屈辱のあまり腹を掻き切って海に身を投げます。
 それを知った松浦某たちは喜んで船を進めますが、武文は怨霊となって海から浮かび上がり、松浦某を海中へ引きずり込んだのでした。

 毎回発売とほぼ同時に売り切れとなる国立能楽堂の特別公演だが、今月は35年ぶりの再演となる「武文」。
 怨霊=武文が主人公となる「鬼神能」で、シテが前後で変身(後シテは面を付けた怨霊)して仇討を行うというドラマティックで見どころの多い演目である。
 ラストの復讐の場面では、「仮名手本忠臣蔵」の11段目を観ているようなカタルシスを覚えたお客さんも多いことだろう。
 なのに、上演されるのが稀であったのは不可解というほかない。
 その理由として私が思いつくのは、一つしかない。
 それは、「パクリ疑惑」である。
 ポイントは、

 「御息所を乗せた船は逃亡し、気づいた武文はこれを追いますが、小舟では追いつけず、屈辱のあまり腹を掻き切って海に身を投げます。

とあるくだりである。
 生きたままでは御息所の船には追い付けないと観念した武文は、”空間を超越する”ために自殺する、つまり、身体(corpus)から魂(animus)を開放する。
 これによって、武文の魂・怨霊(animus)が松浦某らへの復讐を遂げるわけである。
 だが、この「”空間を超越する”ための自殺」という筋は、オリジナルではない。
 いや、正確には、オリジナルでは「なくなった」というべきか?
 「武文」の上演記録の古いものは1512年があるのに対し、同じく「”空間を超越する”ための自殺」をテーマとする「菊花の約」を含む「雨月物語」が成立したのは1768年とされているからである。
 つまり、後発の「菊花の約」の感銘力が余りにも強すぎ、ストーリーとしての美しさや余韻も上回っているために、先発の「武文」が余り上演されなくなったのではないだろうか?
 ・・・・・・以上は私の全くの推測である。

引っ越しのできない隣人同士

2025年03月30日 06時30分00秒 | Weblog
 「日本商工会議所・・・は、北京訪中代表団を派遣した。・・・
 日本側の発言を受けて何副首相は、過去最大規模の代表団による訪中を歓迎し、「両国は引っ越しのできない隣人同士であり、経済協力も緊密。常に利益を分かち合うという姿勢を持つことが理想的だ」と述べた。

 トランプ大統領の言動を見てアメリカ依存はまずいと考えたのか、3つの経済団体は、過去最大規模の代表団を北京に派遣した。
 もっとも、中国側は、国家主席ではなく副首相と商務部長が対応したにとどまるし、上に挙げた発言からも、日本との経済協力には余り積極的ではないことが窺えそうだ。
 多くの論者が指摘するとおり、従前から中国は経済的な危機にあるとみられていた上、トランプ政権の関税政策などがマイナス要因として加わり、5%の経済成長率維持は難しいという見方が出て来た。
 常識的に考えると、差し当たり金融機関の不良債権処理に手を付けるべきタイミングなのだろうが、これが難しい。
 
グローバルインフレーションの深層 河野 龍太郎 著
 「5%弱の滞在成長があれば、中国経済はハードランディングも、そして日本化も避けられると、筆者は考えている。ただ、一つ懸念されるのは、経済データの信頼性である。それは実態が対外的に隠蔽されているということではなく、意思決定者を含め、誰も真の経済の姿を掴んでいないというリスクである。」(p202~203)

 そういえば、かつてのそごうも、(当時の)水島社長ですらグループ全体の財務状態を把握していなかったと言われている(私が担保だ!)。 
 こうなると、不良債権を処理するにしても、いくら資金を投入すればよいか見込みがつかないので、しり込みしてしまう訳である。

対立的一元主題法、あるいは相討ちというエンディング

2025年03月29日 06時30分00秒 | Weblog
スクリャービン ピアノ・ソナタ第9番 「黒ミサ」
藤倉大 ピアノ・ソナタ(長谷川綾子委嘱作品・日本初演)
ベルク ピアノ・ソナタ op.1
リスト ピアノ・ソナタ ロ短調
<アンコール曲>
リスト ノクターン「夢のなかに」

 久々に行く小菅優さんのソロ・コンサートだが、曲目が強烈。
 曲者揃い、というか、毒を含んだ曲ばかりで、ベルクがなぜか正常に思えてしまう。
 予想通り、聴いている方はだんだん毒に冒されてくるのだが、よくもまあこういう曲を弾く気力・体力があるものだと感心する。
 スクリャービンの「黒ミサ」は、彼曰く「音による呪文」であり、私見では「静かな不安」を喚起・刺激する曲のように思える。 
 藤倉大「ピアノ・ソナタ」は日本初演だが、これまた不気味なテーストの曲。
 初めは森の中の小川の流れのようでちょっと安心するが、気づかないうちに冥界へと誘われているという、”並行的なカタバシス”という印象である。
 続くベルクの「ピアノ・ソナタop.1」は一番正常(健全)な曲で、万華鏡のようにニュアンスを変えつつも、基本的には強烈な哀しみを表現しているように思える。
 さて、メインディッシュのリスト・ロ短調ソナタについて、阪田知樹さんは、かつてこう語ったことがある。
 
 「クラシック界にリストが嫌いな人はたくさんいるのですが、そういう人でも、このロ短調ソナタだけは評価する、そういう曲なのです。

 初っ端から悪魔的な雰囲気をたたえたこの曲は、案の定、ファウストとメフィストフェレスをイメージした曲らしい。
 野元由紀夫氏によれば、両者の対立性が一つのテーマに組み込まれた「対立的一元主題法」という手法がとられているそうだ。
 ちなみに、私には、ラストでファウストとメフィストフェレスが相討ちで死んでしまうように思われた。
 いずれにせよ凄い曲で、聴く方もエネルギーが必要とされるようだ。

 

短調は長調より強し?(3)

2025年03月28日 06時30分00秒 | Weblog
モーツァルト
ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
交響曲第40番 ト短調 K.550
オペラ「ドン・ジョヴァンニ」K.527 序曲
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
<アンコール曲> 
・J.S.バッハ:ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 BWV1052より 第1楽章
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K491より 第2楽章
・シューベルト:4つの即興曲 D935より 第2番(シフ独奏)
・シューマン:楽しき農夫(シフ独奏)

 プログラムBはモーツァルトのデモーニッシュな側面にフォーカスした選曲らしいが、とはいえ長調の曲を1曲と、アンコールも長調主体の選曲となっている。
 推測だが、お客さんに気持ちよく帰ってもらうには、こういう並びが良いのだろう。
 冒頭のピアノ協奏曲23番だが、意外なことに、モーツァルトはパトロンにはスコアを
 「他人の手にお渡しにならないように
と依頼しており、公刊を望んでいなかった。
 これは、ショパンの「幻想即興曲」にまつわるエピソードを彷彿とさせる(遺言不執行)。
 私は、最近3カ月でこの曲を既に3回聴いていて、もちろんシフの演奏は素晴らしいのだが、個人的には、藤田さんの「時が止まる」タッチが一番好きである(疾走しないモーツァルト)。 
 「ドン・ジョヴァンニ」序曲とピアノ協奏曲20番はいずれも二短調だが、前者では二短調は「死を暗示する調」として機能しているそうである。
 後者もやはり肉親、配偶者や親友などの死を表現しているような気配があり、何となくバッハの「シャコンヌ」に通じるところがある。
 さて、アンコールを2曲聴いて多くのお客さんが家路についた。
 照明が明るくなり、オケの団員さんが舞台袖に引き上げたからである。
 ・・・ところが、翌日ホームページでアンコール情報を確認してみると、アンコール曲は4曲演奏されている!
 どうやら、シフだけ再登場して、ソロでピアノを弾いたようだ。
 もちろん、私は大後悔である。

短調は長調より強し?(2)

2025年03月27日 06時30分00秒 | Weblog
J.S.バッハ
ピアノ協奏曲第3番 ニ長調 BWV1054
ピアノ協奏曲第5番 へ短調 BWV1056
ピアノ協奏曲第7番 ト短調 BWV1058
ピアノ協奏曲第2番 ホ長調 BWV1053
ピアノ協奏曲第4番 イ長調 BWV1055
ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 BWV1052
<アンコール曲>
ブランデンブルク協奏曲第5番 BVW1050から第2楽章、第3楽章、第1楽章

  2026年で解散を宣言しているカペラ・アンドレア・バルカの最後の日本ツアー。
 見ての通り、プログラムAはアンコール曲も含めオール・バッハという珍しい選曲となった。
 シフのなめらかで踊るような演奏は通常運転だと思うが、誰しも気になるのは曲の並べ方だろう。
 ニ長調で始まりニ短調で終わるのだが、これはプログラムBへの伏線のように思われる。
 というのも、オール・モーツァルトのプログラムBのラストも、ニ短調のピアノ協奏曲20番だからである。
 そんなことはともかく、バッハのピアノ協奏曲1番は、全7曲の中でもずば抜けた傑作だと思う。
 冒頭からして他のバッハ作品とは違う。
 どちらかというとロマン派的なドラマティックな曲想で、なんだかモーツァルトの交響曲40番とピアノ協奏曲20番をミックスさせたような雰囲気を醸し出す。
 2楽章はひたすら重々しく悲しく、明るい日差しは見えてこない。
 3楽章はダンサブルで軽快な調子だが、やはり暗く悲しげなメロディーで、バッハにしては珍しくカデンツァ(これも暗鬱なメロディー)がラスト付近に出てくる。
 さて、今回のコンサートで感心したのは、”弾き振り”(ピアノ演奏と指揮を同時に行う)をするシフが、聴衆に対して背中を向けず、通常のソロ・コンサートと同じ向きに座っていることである。
 というのも、通常の”弾き振り”だと、ピアニスト兼指揮者が聴衆に背中を向けて座ることが多いのだが、この場合、ピアノの音が客席に向かってあまり広がらないという難点がある(”弾き振り”と座席の位置の問題)。
 今回はそのような難点もクリアーしており、離れた席にもよく音が届いていたし、シフの指使い(&ダンス)もよく見えた。
 何よりも、彼がメンバーを完全に信頼しているのがよく分かる。

 「鍵盤楽器と室内楽が一体の世界です。CABの1人1人は弦楽四重奏団や室内アンサンブルに所属する室内楽の名手であり、純然たるオーケストラの楽員はいません。お互いを聴き合い、尊重する室内楽は最も繊細で親密な音楽づくりの現場です。今日の交響楽団が指揮者への依存を強め、楽員が自分のパートしか聴かない傾向に私はとても懐疑的です。近代の音楽史で進行した指揮者の神格化、自らは1音も発しない音楽家を『マエストロ』と崇拝するのは、ただただリディキュラス(ばかばかしい)です。CABにおける私は指揮者、独裁者ではありません。本質は室内楽奏者であり、音楽のより深いところに入る好奇心の結果として指揮者も兼ねるのです。CABではとにかく皆で話し合い、最後に私が1つにまとめる態勢です。」(公演パンフレットより)
 
 音楽に対するシフの姿勢がよく分かると同時に、分業化とピラミッド化が進んでタコツボと化したオーケストラや、1音も発しないのに崇拝される”マエストロ”への痛烈な批判を含んでいる。
 この「マエストロ」という言葉で、私は不謹慎にも、来日中(来日予定?)の2人の指揮者のことを想像してしまった(指揮者の偶像化とステージ上の民主主義)。
 いずれにせよ、私もあんまり指揮者を神格化しないようにするのがよいと思う。

覆面ミュージシャン

2025年03月26日 06時30分00秒 | Weblog
  • 篠塚 友里江クラリネット
    ドビュッシー:
    クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲
  • 中原 梨衣紗ヴァイオリン
    チャイコフスキー:
    ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35より第一楽章
  • 児玉 隼人トランペット
    タルティーニ:トランペット協奏曲 ニ長調
    ビゼー/山下康介編曲:カルメンファンタジー
  • 菊池 亮太ピアノ
    ガーシュウィン:アイ・ガット・リズム変奏曲
    山下康介編曲:映画音楽メドレー
  • 中島正三(作曲):黄昏に濡れて
 珍しい曲が並んでいたのでチケットを購入。
 クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲は、解説のとおり、「牧神の午後への前奏曲」を彷彿とさせる幻想的なメロディーがたびたび登場。
 チャイ・コンはいつ聴いても名曲だが、初演時にレオポルト・アウアーから「演奏が難しすぎる」という理由で拒否されたそうだ。
 そういえばピアノ協奏曲1番も、作曲家アントン・ルビンシテインに「弾けない」と酷評され演奏を拒否されたのだった。
 確かに、中間部で例の「メロディーを鳴らしながらのピチカート」が出て来る。
 タルティーニのトランペット協奏曲二長調は初めて聴くが、それもそのはず、元はヴァイオリン協奏曲として作られたバロック時代の曲である。
 カルメンファンタジーの「闘牛士の歌」は、トランペットで演奏されるとどうしてもテレビCMを思い出すのは世代のせいだろうか? 
 個人的に楽しみにしていたのが菊池亮太さん。
 YouTubeではたくさん聴いているが、生演奏を聴くのは初めてで、なぜかシュールに感じてしまう。
 しかも、ふだん(こんな感じ:菊池亮太 Ryota Kikuchi PIANO)とは違って帽子をかなり深くかぶり、頭の3分の2が隠れている上、メガネ着用なので、誰だか分からない姿である。
 これでは、覆面ミュージシャンである。
 だが、1曲目の「映画音楽メドレー」が始まると、理由が分かったように感じた。
 冒頭は「スター・ウォーズ」。
 そう、おそらく菊池さんは、見た目をダース・ベイダーに寄せてきたのではないか?
 続いて「E.T.」のテーマとなるが、さすがにこれに似せるのは無理だった。
 3曲目は「ニュー・シネマ・パラダイス」で、これはやはりピアノが一番しっくりくる。
 ラストの「黄昏に濡れて」は弦楽四重奏。
 メロディー・ラインはポップス的な感じで親しみやすい。
 そう言えば、神奈川交響楽団の「ブルーライトヨコハマ/弦楽四重奏」もピッタリはまっていたが、弦楽四重奏とポップスは相性が良いのだろうか?
 ・・・というわけで、クラシック特有の堅苦しさのない楽しいコンサートであった。
 

カブキ化?

2025年03月25日 06時30分00秒 | Weblog
 「古典の人気作の一つに数えられながら、全幕上演の機会は限られていたこの埋もれた名作に、2007年、熊川哲也はそれまで誰も想像し得なかった鮮烈な命を与えた。
 七つの海を渡る海賊たちの略奪の日々と、海賊船の難破を活写したプロローグからして胸高鳴る舞台では、個性豊かな登場人物たちが躍動し、スリルと感動のドラマが繰り広げられていく。

 「傑作」という声が多い熊川版「海賊」だが、私はこれが初見である。
 1幕のストーリーはオーソドックスだが、コリオが新鮮に映る。
 私見では、「シェヘラザード」と「イーゴリ公」に似たコリオが多く出て来るように思う。
 つまり、コリオ的にはロシアン・テーストを感じる。
 また、「見た目だけでは善玉と悪玉の見分けがつかない」という設定も良い。
 もちろん、「海賊」なので、男たちは全員反社会的勢力に属しているわけなので、全員悪玉とも言えるのだが、「ヒゲを付けているから悪玉」などという、他の演目では通用する判断基準がこの作品では役に立たない。
 映画「シャレード」も、見た目だけではケーリー・グラントが良い人なのか悪い人なのか終盤まで分からないところが良いのである。
 だが、熊川版の最大の特色は2幕で、アリを事実上の主役としたところと、アリの死に方にある。
 ギュルナーレが死ぬ設定はほかにもあるが(例えば、原作のバイロンの物語詩に立ち返り、時代背景を加味した久保版『海賊』、NBAバレエ団)、アリが死ぬというのは初めて見た。 
 しかも、(ネタバレとなるが、)コンラッドをかばって銃弾に倒れるという、「主君のための犠牲死」である。
 ・・・むむむ、これは歌舞伎ではお定まりの死に方ではないか!
 ということは、「海賊」はカブキ化しているのではないか!
 ・・・などと考えてしまう、のどかな春の一日であった。

短調は長調より強し?

2025年03月24日 06時30分00秒 | Weblog
 「航空運賃が高すぎて、マネジメントも赤字覚悟!
 この演奏会は、演奏会への愛だけでできています。
J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番 ロ短調 BWV 1002 
クリス・ロジャーソン:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 
E.イザイ:無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番 ニ短調『バラード』Op.27-3 
J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004
<アンコール曲>
J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 Ⅲラルゴヘ長調 BWV 1005  
J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番 ホ長調 Ⅲ ロンド風ガヴォットBWV 1006

 例によって絶妙なキャッチ・コピーのおかげか、チケットは完売。
 私の場合、ヴァイオリンやチェロのコンサートは主にバッハが目当てなので、今回もバッハ目当てでチケットを買った。
 ヴァイオリンの場合、”弾きっぷり”は非常に重要だと思うのだが、バイルマンはその点はパーフェクトだと思う。
 演奏している時の見栄えが良いのだ。
 さて、1曲目のパルティータはオーソドックスなバッハ作品だが、2曲目は変わった選曲。
 作曲したクリス・ロジャーソン(Chris Rogerson)は私も初めて聴く。
 どうやら最初から最後まで超絶技巧の連続らしいが、長音を奏でながらのピチカートなどという、目を疑うようなシーンも出てくる。
 私見では、最終楽章はダンサブルでテンポの良い曲なので、似たようなテーストで全楽章を作ると良かったと思う。
 ところで、ヴァイオリンの名曲には、シャコンヌを筆頭として短調の曲が多い。 
 今回演奏されたイザイもそうである。
 シャコンヌについては、この曲が表現している人間の情動は、全くの私見ではあるが、「肉親、配偶者、親友などが亡くなった時の激しい悲しみ」が一番近いように思う。
 私には、ヴァイオリンの音が、激しい慟哭かすすり泣きのように聴こえるのである。
 短調の名曲が多い理由についてだが、人間の情動の中では、悲しみや苦しみの方が喜びよりも強いということが挙げられるかもしれない。
 そのため、短調の方が長調よりパワーが強いのではないだろうか?
 そもそも、人間は泣きながら生まれて来るのだし、出産のときにお母さんは苦しみを味わうのだから。
 ・・・いや、これには異論があるようだ。
 爆発的な喜びを表現した曲があるではないか。
 例えば、「第九」や「献呈」など。
 だが、これらにおける情動はいずれも歌(曲)つまり言葉を伴って表現されるものであり、ヴァイオリンなどの楽器だけで表現されるものではない。
 むむむ、「長調は短調より言葉に近い」ということなのか?
 ・・・などと考えてしまうのどかな春の一日であった。

始めよけれど終わりダメ

2025年03月23日 06時30分00秒 | Weblog
・開演(午前11時)に先立ち、10時50分頃より幕前にて「口上人形」による当日の配役の読み上げがございます
 ・「四段目 扇ヶ谷塩冶判官切腹の場」は、古くから「通さん場」と呼ばれ、演出の都合上、客席内へのお出入りを一部ご遠慮いただいております。なにとぞ、お早めにご着席くださいますようお願い申し上げますとともに、ご諒承を賜りますようお願い申し上げます

 今月の歌舞伎座は、「仮名手本忠臣蔵」の通し。
 加藤周一が「団結の、集団所属感の、つまるところ日本社会の基本的構造の、見事に集中的な表現」と指摘した、日本社会の暗部を集約した演目である(5月のポトラッチ・カウント(2))。
 だが、一切の先入観を排して虚心坦懐に観ていると、前半部分はかなり現代的なパワハラ・セクハラのストーリーであることが分かる。
 発端は、高師直が塩冶判官の妻・顔世午前に横恋慕するところなのだが、これは、例えば夫婦が同じ職場で働いているカイシャなどでは現実に起こりそうなセクハラである。 
 だが、一番リアルに感じたのは、師直がパワハラのターゲットを変えていくところで、極めて現代的なストーリーと言える。
 師直は、最初は若狭之助をターゲットとして暴行(扇子ではたく)を含むパワハラを行っていたが、これに激高した若狭之助は師直を斬ろうとする。
 すると、師直は手のひら返しで先の非礼を詫び、若狭之助は気勢をそがれて立ち去る。
 ところが、この後、師直はターゲットを塩冶判官に変更し、判官を口汚く罵って「言葉によるパワーハラスメント」を開始する。
 こうした「パワハラ・ターゲット・チェンジ現象」は、サラリーマンであれば誰もが一度は目にしたことがあるはずだ。
 さて、師直の「言葉によるパワーハラスメント」はとにかく言葉が汚いのだが、中身は小学生レベルである。

 「家にばかりへばりついておって、・・・『井戸の鮒』・・・判官が鮒になられたぞ!鮒だ鮒だ!

 これに比べれば、私が社会人1年目に上司から面と向かって言われた次の言葉の方がまだレベルが高いし、ダメージも大きい。

 「◎大卒にもいろいろいるが、総務の○○がピンなら、お前はキリだな!

 昼の部最大の見せ場は、何と言っても4段目のうち「扇ヶ谷塩冶判官切腹の場」である。
 おそらく映画「憂国」は、歌舞伎のこの場面を一つのモデルとしてつくられたのだろう。
 この後は、いわば「付け足し」であり、勘平・おかるのサブ・ストーリー(2月のポトラッチ・カウント(7))を含めオリジナルなものは見当たらない。
 11段目は、これがないと観客の気持ちが収まらないのかもしれないが、「くだらぬチャンバラ劇」(カブキ101物語 新装版 p163)というほかない。

ロシア・シフト

2025年03月22日 06時30分00秒 | Weblog
チャイコフスキー:「四季」より1月~6月
チャイコフスキー/ワイルド編:バレエ《白鳥の湖》より 4羽の白鳥たちの踊り
スクリャービン:ピアノ・ソナタ第4番 嬰ヘ長調 Op.30
チャイコフスキー:「四季」より7月~12月
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番「戦争ソナタ」 変ロ長調 Op.83
<アンコール情報> 
チャイコフスキー:6つの小品 感傷的なワルツ Op.51-6 ヘ短調
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲op.43より第15変奏
シューマン:子供の情景より見知らぬ国 Op.15-1 ト長調

 「満員御礼」の掲示が出たブルース・リウのソロ・コンサート。
 ショパン・コンクールの覇者ではあるが、曲目から分かるとおり、今回はアンコールの最後の曲を除き、全てロシア(又はソ連)の作曲家の曲となっている。
 ”ロシア・シフト”を敷いているかのようだ。
 ちなみに、今年のショパン・コンクール予選に出場が決まった亀井聖矢さんも、昨年のツアー(亀井聖矢 リサイタルツアー2024 追加公演)やコンチェルト(東京交響楽団 特別演奏会 原田慶太楼×亀井聖矢 コンチェルト・アフタヌーン)では、プロコフィエフを取り上げている。
 「ショパン弾きはチャイコ&プロコも十八番にすべし」という不文律でもあるのだろうか?
 これとは逆に、チャイコフスキー・コンクールの覇者であるアレクサンドル・カントロフは、2022・2023・2024年の日本ツアーでは、私が行った日に限れば、アンコールも含めてショパンの曲は一曲も弾いたことがない。
 彼にとってショパンはタブーなのだろうか?
 さて、ブルース・リウは、「一つ一つの音のコントロール」に秀でたピアニストという評価があるらしく、私も同感である。 
 とにかく和音が”割れない”のには驚くばかり。
 今回も、冒頭から滑らかな音の響きで、コンディションが良いことが分かる。
 私見ではあるが、この人の真骨頂は、「”トランス状態”における音の乱舞」にあると思う。
 今回は、「戦争ソナタ」の第1、3楽章でも出現していたが、最も顕著だったのはスクリャービンのソナタ4番の2楽章で、正しく、陶酔状態で踊りながら弾いていた。
 私は運よく最前列中央の席を取っていたのだが、こういう光景を間近で見ると、ベートーヴェンのイ短調四重奏曲を聴いてワーグナーが述べたという、
 「人間はこのように非地上的なものを聞く資格があるかどうか、疑問にさえ思われる。
というセリフが出てきそうである(バッハ発、ワーグナー行き(7))。
 ・・・かと思いきや、そういう名人でも、「幻想即興曲」では、信じられないミスをしたりすることもあるのである(リウとミュウ、あるいは「コンサートは生きている」)。
 なんだか人間的で、ちょっと安心してしまう。