「国立能楽堂では2年おきに、復曲や新作を主催公演で上演していて、今年度は3月28日、29日に復曲能「武文(たけぶん)」が演じられます。
「武文」は1987年に国立能楽堂が初めて復曲しました(能本作成・演出/横道萬里雄、演出補佐/羽田昶・松岡心平。2年後にも上演)。
今回は演出を見直し、実に35年ぶりの再演です。」
「武文」は1987年に国立能楽堂が初めて復曲しました(能本作成・演出/横道萬里雄、演出補佐/羽田昶・松岡心平。2年後にも上演)。
今回は演出を見直し、実に35年ぶりの再演です。」
「鎌倉幕府打倒のため挙兵した後醍醐帝の第一皇子である一宮は土佐に流されます。そのため、京に残された妻の一宮御息所は、臣下の秦武文を警護に伴い夫をたずねる旅に出ます。
二人が大物の浦の船宿に着くと、この浦に来ていた筑紫国の松浦氏の武士が御息所を垣間見て一目惚れをします。
なんとか御息所を奪いたい松浦某は、船宿の亭主を脅して策略を練らせ、浦の並びの家に火を放って騒ぎを起こします。武文は御息所を守るため近くの船に退避させますが、その船が松浦某の船だったのです。
御息所を乗せた船は逃亡し、気づいた武文はこれを追いますが、小舟では追いつけず、屈辱のあまり腹を掻き切って海に身を投げます。
それを知った松浦某たちは喜んで船を進めますが、武文は怨霊となって海から浮かび上がり、松浦某を海中へ引きずり込んだのでした。」
二人が大物の浦の船宿に着くと、この浦に来ていた筑紫国の松浦氏の武士が御息所を垣間見て一目惚れをします。
なんとか御息所を奪いたい松浦某は、船宿の亭主を脅して策略を練らせ、浦の並びの家に火を放って騒ぎを起こします。武文は御息所を守るため近くの船に退避させますが、その船が松浦某の船だったのです。
御息所を乗せた船は逃亡し、気づいた武文はこれを追いますが、小舟では追いつけず、屈辱のあまり腹を掻き切って海に身を投げます。
それを知った松浦某たちは喜んで船を進めますが、武文は怨霊となって海から浮かび上がり、松浦某を海中へ引きずり込んだのでした。」
毎回発売とほぼ同時に売り切れとなる国立能楽堂の特別公演だが、今月は35年ぶりの再演となる「武文」。
怨霊=武文が主人公となる「鬼神能」で、シテが前後で変身(後シテは面を付けた怨霊)して仇討を行うというドラマティックで見どころの多い演目である。
ラストの復讐の場面では、「仮名手本忠臣蔵」の11段目を観ているようなカタルシスを覚えたお客さんも多いことだろう。
なのに、上演されるのが稀であったのは不可解というほかない。
その理由として私が思いつくのは、一つしかない。
それは、「パクリ疑惑」である。
ポイントは、
「御息所を乗せた船は逃亡し、気づいた武文はこれを追いますが、小舟では追いつけず、屈辱のあまり腹を掻き切って海に身を投げます。」
とあるくだりである。
生きたままでは御息所の船には追い付けないと観念した武文は、”空間を超越する”ために自殺する、つまり、身体(corpus)から魂(animus)を開放する。
これによって、武文の魂・怨霊(animus)が松浦某らへの復讐を遂げるわけである。
だが、この「”空間を超越する”ための自殺」という筋は、オリジナルではない。
いや、正確には、オリジナルでは「なくなった」というべきか?
「武文」の上演記録の古いものは1512年があるのに対し、同じく「”空間を超越する”ための自殺」をテーマとする「菊花の約」を含む「雨月物語」が成立したのは1768年とされているからである。
つまり、後発の「菊花の約」の感銘力が余りにも強すぎ、ストーリーとしての美しさや余韻も上回っているために、先発の「武文」が余り上演されなくなったのではないだろうか?
・・・・・・以上は私の全くの推測である。