Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

4月のポトラッチ・カウント(3)

2024年04月30日 06時30分00秒 | Weblog
 「4月大歌舞伎」夜の部の最初の演目は、「於染久松色読販」より「土手のお六」と「鬼門の喜兵衛」の2場である。
 残りの2つの演目は舞踊なので、法学的・社会学的観点から分析の対象となるのは、最初の演目だけということになる。
 「於染久松」というけれど、今回上演される2つの場には、於染も久松も登場せず、その代わり、悪役の典型とも言うべきお六(玉三郎)と喜兵衛(仁左衛門)が登場する。
 ちなみに、玉三郎&仁左衛門のコンビは、令和3年2月の歌舞伎座公演でも同じだった。
 往年の桃井かおり&ショーケンのような味を醸し出しているが、それもそのはず、コンビ結成から半世紀以上たっているのだ。

 「共演する玉三郎は、「一番気心が知れた、客観的に見ても素晴らしい役者さんです」。玉三郎の養父であった十四世勘弥と自分の父(十三世仁左衛門)も仲が良く、「芝居のとらえ方が非常に共通していた」と話し、「だから、お互い芝居に対する気持が通じ合うんです」と続けた言葉のなかに、二人の間の厚い信頼と絆を感じさせます。「いつも玉三郎さんと話しているんです。もう半世紀以上、このコンビを観たいと言っていただけて、本当にありがたいねと」と、しみじみと思いを口にします。

今度の舞台を楽しく見るために 無駄のない強請(令和2年3月の公演について)
 「――「油屋」で、それぞれ違う思惑からお金が欲しいお六と喜兵衛の夫婦は、たまたま莨屋に運び入れられた死体をたねに、弟を殺されたと言いがかりを付けて油屋から金を強請りとろうとします。
 この強請場は無駄がないというのでしょうか、簡潔です。ごちゃごちゃと難しいことは言っていません。結果的に成就しない強請をしているのですが、そこがはっきりとしています。

 さて、メインの登場人物はほぼ全員悪役であるが、彼ら/彼女らの行動原理は分かりやすい。
 「自分のために、あるいは恩義のある人のために、手段を選ばず金を手に入れようとする。その際、他人から預かったものを自分のものにしてしまう。
 つまり、横領=占有侵害に集約される。
 具体的には、
・善六・・・店に預けられた折紙を盗み、紛失の罪を油屋の息子に着せようとする。
・お六・・・以前仕えていた千葉家の竹川から、家宝の宝刀と折紙を油屋から請け出すため百両の金の工面を頼まれ、たまたま預かった死骸(実は丁稚の九太)を自分たちのものにして油屋に対する強請を行う。併せて、久作から預かった袷(油屋の家紋入り)を着服して強請のネタに使う。
・喜兵衛・・・千葉家の宝刀と折紙を盗み、二品を質入れした挙句金を使い込んでしまったが、その穴埋めをすべく、お六と共謀して死骸を用いて油屋に対する強請を行う。
といった具合で、占有侵害のオンパレードである。
 私が爆笑しそうになったのは、お六と喜兵衛は共謀関係にあるものの、お六が、家宝の宝刀・折紙を請け出そうとする千葉家のために百両の金を工面しようとするのに対し、喜兵衛は、千葉家から盗んだ宝刀・折紙の質戻しのため百両の金を工面しようとするという、マッチ&ポンプの関係にあるところである。
 お六は、油屋に「自分の弟を死なせた」と言って強請を行い、後からやってきた喜兵衛もこれに加わるのだが、”弟”は丁稚の九太であり、フグを食って倒れていただけだったので、お灸をすえられて生き返る。
 かくして、お六と喜兵衛の強請は未遂に終わった。
 ということで、「於染久松色読販」のポトラッチ・ポイントは、未遂につき0.5となる。
 以上を総合すると、4月のポトラッチ・カウントは、
・「双蝶々曲輪日記」引窓 ・・・▲5.0
・「夏祭難波鑑」・・・6.0
・「於染久松色読販」・・・0.5
で、1.5(★☆)。
 今月は、国立劇場の文楽が大阪開催ということもあり、少なめになったが、その分東京の劇場はポトラッチが炸裂せず、平和だったということなのだろう。
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4月のポトラッチ・カウント(2)

2024年04月29日 06時30分00秒 | Weblog
 「歌舞伎俳優の片岡愛之助が2日、東京・歌舞伎座で初日を迎えた「四月大歌舞伎」(26日・千秋楽)の昼の部「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」に出演した。

 昼の部のラストは、「夏祭浪花鑑」である。
 毎年5月、歌舞伎座では「團菊祭」が開催されるのだが、今年は4月に「愛菊祭」というか、むしろ「ラブリン祭」とも言うべき愛之助の独壇場が出現した。
 それにしても、この演目は人間関係がややこしい。
 私は、職業柄、人物相関図をつくるのが得意なはずなのだが、それでも完成させるのに5分くらいかかってしまった。

 「泉州浜田の家中 玉島兵太夫の忰磯之丞は、堺の遊女琴浦に溺れて放埒を尽くし、勘当される。兵太夫の恩を受けていた堺の魚売団七九郎兵衛は、琴浦と添わせるべく磯之丞の世話をする。  
 磯之丞の恋敵大鳥佐賀右衛門は、琴浦を手に入れようと奸計し、一寸徳兵衛を味方につける。団七と徳兵衛は達引きとなったが、徳兵衛も玉島家の恩顧を受けたものであることが判明し、団七と徳兵衛は義兄弟の契りを結んで、磯之丞を守ることになり、釣船の三婦の許に磯之丞と琴浦を匿う。  
 徳兵衛の女房お辰は、磯之丞を備中玉島へ送り届けるため、自らの額に焼き鏝を当てて、醜婦となる。  
 団七の舅三河屋義平次は琴浦を奪い、大鳥に渡して金にしようとするが、追付いた団七はさまざまな恥辱にたえ、歎願するも聞入れぬので、思わずも舅を殺してしまう。  
 舅殺しが露見した団七は、一旦玉島に逃れるが、自ら名乗って縄目にかかる。大鳥も旧悪が露顕して磯之丞は帰参が叶う。

 もとは浄瑠璃で、全9冊あったそうだが、今日では序幕、二幕と大詰めの3冊のみが上演される。
 それでも十分ややこしいストーリーではあるが、登場人物は「お世話になった人のために恩返しする」という江戸時代(あるいは日本の歴史全体)の行動原理を忠実に守って動くので、これを押さえてしまえば理解は容易である。
 そうした中で、唯一の例外として、団七(愛之助)が「親殺し」という、当時におけるもっとも重い罪を犯すという点が特色となっている。
 団七は、恩義のある磯之丞のために、彼の愛人である傾城琴浦を、舅の義平次から金で買い取ろうとする。
 団七が、
 「わしの顔が立たぬ。頭を下げて頼む。・・・慈悲じゃ情けじゃ・・・
と懇願するので、義平次はいったんこれを請け負う。
 ところが、実は団七は金を持っていないことが判明したため、激怒した義平次は団七を打ち据え、更に挑発を重ねる。
 これに憤慨した団七は、はずみで義平次の肩を斬ると、義平次は、
 「親殺し!
と叫ぶが、団七は逆に覚悟を決めてとどめを刺す。
 ポトラッチと関連するのは、この「親殺し」の場面と、磯之丞を預かりたいというお辰(愛之助)に、三婦が「あんたには色気がある」と言って断るのに対し、お辰が自らの頬に鉄弓を押し当てて火傷を作り、「美貌を損なう」場面の2つである。
 ということで、「夏祭浪花鑑」のポトラッチ・ポイントは、
① 「親」の威光を笠に着て、団七に執拗かつ非情に金を要求し続け、団七の磯之丞に対する”恩返し”を妨害したことの代償として自身の命を失った義平次→ 5.0ポイント
② 自傷行為によって自身の美貌を損なったお辰 → 1.0ポイント
の計6.0ポイントとなる。
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4月のポトラッチ・カウント(1)

2024年04月28日 06時30分00秒 | Weblog
 歌舞伎座「四月大歌舞伎」昼の部の最初の演目は、「双蝶々曲輪日記」引窓である。
 人気の演目ということで、昨年も浅草公会堂(1月)と国立劇場(7月)で2回上演されているが、歌舞伎座では前回が令和2年9月なので、約3年半ぶりということになる。
 前回とメンバーはほぼ違っている中で、中村東蔵(お幸)だけが前回と同じなのだが、その東蔵について、中盤でちょっとした”事件”が起こった。
 中盤でセリフが「飛んだ」のである。
 おそらく舞台の下の方から、男性がセリフを小さな声で東蔵に伝えていたが、そのうち女性が叫ぶような声が聞こえるようになった。
 私も固唾をのんで見守っていたが、3分ほどしてようやく落ち着き、プロンプター(黒子がこれを務めることもあるらしい)役の声は聞えなくなった。

①町人・南与兵衛は、父の後妻のお幸、妻のお早と暮らしていたが、めでたく郷代官に取り立てられることになった。
 ②そんな与兵衛の家に、殺人を犯した力士の濡髪長五郎がやってくる。濡髪はお幸の実の子であり、母に一目会おうと思ったため。
 ③しかし与兵衛に与えられた最初の任務は「濡髪を召し捕ること」であった…お幸は濡髪を匿い、どうか見逃してほしいと懇願する。
 ④濡髪は与兵衛への義理のため縄にかかろうとするが、与兵衛は放生会にことよせて濡髪を落ち延びさせるのだった。

 私は、江戸時代の日本の社会は、大正・昭和のそれと並ぶ「絶望の社会」だと考えるのだが、そうした中にあって、「双蝶々曲輪日記」は、「切られ与三」などと同じく一筋の光明を見せてくれる数少ない演目の一つである。
 まず、南家の設定が絶妙である。
 当主:与兵衛は、父の代は庄屋代官の名跡であったのが、訳あって零落し、現在は町人の身分となっている。
 妻のお早はもと芸者で、与兵衛に身請けされ、今は専業主婦として平和に暮らしている。
 お幸は与兵衛の義理の母で、前夫との間に濡髪を設けたが、事情あって5歳で彼を養子に出したという設定である。
 このたび、与兵衛は庄屋代官に取り立てられ、名跡の復活が実現することになったが、最初の任務は、何と濡髪を召し捉えることであった。
 濡髪を捕まえることは「国の誉れ、母の喜び」と張り切る与兵衛に対し、お幸はなぜか、濡髪の「人相書」(私が見た限り、濡髪の全身像が書かれてある)を売ってくれと頼む。
  お早も、「濡髪を捕まえることは、かか様への大の親不孝」と口走ってしまう。
 ここに至り、与兵衛は濡髪がお幸の実子であることを見抜く。 
 そして、「「イエ」を立てれば、母と弟が立たない」というこのジレンマを、神業的なロジックで見事に克服する。
 与兵衛は、
 「「人相書」はあきんどの代物
という理由でお幸に売り渡しておきながら、鶏の鳴き声を聞くと、
 「もう夜が明けた。ならば代官はお役御免
といって、放生会にことよせて、しかも逃げ道まで説明した上で、濡髪を逃がすのである。
 要するに、与兵衛は、身分制ひいてはイエ制度の虚構性を知り抜いており、これを逆手にとって、一人の人間の命を救ったわけである。
 ということで、「双蝶々曲輪日記」引窓のポトラッチ・ポイントは、一人の人間の命が救われたということで、マイナス5.0ポイント。
 ついでに、「父は子の為めに隠し、子は父の為めに隠す」になぞらえて言うと、
 「子は母と弟の為めに隠す、黒子は役者の為めに隠す
という格言が出来そうだ。
 
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ポリコレ視点でみる「シカゴ」

2024年04月27日 06時30分00秒 | Weblog
 
 今年はブロードウェイミュージカルの来日公演が目白押しだが、長い歴史を誇る「シカゴ」はその筆頭に挙げられる。
 私は、ミュージカルはもちろん映画も観ていない純粋な”未修者”ということで、先入観なく観た。
 すると、これが何と、刑事裁判にまつわるいわば身近な話だったのである。
 法的な問題については、知財法の分野で著名な福井健策先生がリーガル・アドバイザーとして関与していらっしゃるのだが、それでもポリコレ的な問題点を指摘することが出来る。
(1)弁護士に対する不当な偏見の助長
 まず、挙げるべきは、「被告人に虚偽の証言をさせる弁護士」、ビリー・フリンの問題である。
 アメリカ法では被告人にも証人適格が認められるので、殺人罪の被告人:ロキシー・ハートが宣誓の上「正当防衛」や「妊娠」などの虚偽の証言を故意に行うと、当然偽証罪が成立するはずである。
 もちろん、弁護人のビリーにも偽証罪の教唆が成立するはずであり、こんなことをする弁護士は、少なくとも今日では到底考えられない。
 なので、この設定を真に受けると、「弁護士は犯罪まがいのことをする悪い人間だ」という不当な偏見を抱いてしまう恐れがある。
(2)外国人(移民)差別
 次に、外国人(移民)差別の問題が挙げられる。
 具体的には、ハンガリー人の囚人:ハニャックの扱いが問題となる。
 彼女は、"Not Guilty" 以外の英語を話せず、セリフは意味不明の言葉として表現される。
 彼女は、おそらくは資金不足のために「国選弁護人」しか頼むことが出来ず、結果的に絞首刑となる。
 この際、「ハンガリー人の綱渡り」という描写があり、絞首刑後にロープが登場するのだが、これはさすがにポリコレ的に危ないだろう。
 ハンガリーの人は、怒りを感じるかもしれないからである。
(3)国選差別
 さらに問題点を挙げると、
 「私は無償の国選弁護人なんだ。有罪という主張しか考えられない」(記憶に基づいて再現しているので、ちょっと不正確かもしれない)
というセリフには、”国選差別”の印象を抱く。
 「国選弁護人は無償で働くんだから、どうせ大した弁護活動はしないでしょ」という偏見のあらわれのように感じるのである。
 ・・・ところで、このミュージカルでは、「演技性人格障害」が疑われる人物が主要キャストを務めている。
 筆頭はやはりロキシーで、彼女は幼い頃から「自分の名前が新聞に載ること」を夢見ており、その夢は実現された。
 彼女の殺人事件のことが、一面で
 ”ROXY ROCKS CHICAGO
と大々的に扱われたからである。
 有頂天の彼女は、自分が無罪になるかどうかという最重要の問題について、
 「そんなことはどうだっていいの
と言ってのけてしまう。
 同房の殺人犯:ヴェルマも似たような人種であり、さらに言えばビリーもスター気取りの悪徳弁護士である。
 このミュージカルのテーマは、「演技性人格障害」なのではないか?
 
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観ていない映画について語る(3)

2024年04月26日 06時30分00秒 | Weblog
 「クリスマス・イヴを家族と祝う男の家を突然訪ねてくる元恋人の頼みとは?
クリスマス・イヴ。妻子とともにイヴを過ごすべく、タクシー運転手のヤヌシュが帰宅する。子供たちの為にサンタクロース役を演じたりと仲睦まじい家族の時間を過ごすが、その夜遅くヤヌシュの自宅に元恋人の女性エヴァが現れ、ヤヌシュに失踪した夫を一緒に探してほしいと訴える......。

 「デカローグ3」は、「4」とは「祝祭日と演技する女性」という共通の主題で結ばれている。
 クリスマス・イヴに、元不倫カップルが一方の配偶者を捜索するという話なので、「モーセの十戒」で言えば、「安息日順守違反」及び「姦淫禁止違反」に該当するだろう。
 「4」は、1~4の中で最も展開が読みづらく、それだけに面白い。
 その理由は、エヴァの属性、すなわち「演技性人格障害」にあるのではないかと思う。
 エヴァは、自分に構って欲しいためか、やたらと嘘をつく、要するに面倒くさい人物なのである。
 エヴァ役の小島聖さんは、この劇場では一昨年の「夜明けの寄り鯨」(25年前(1))以来の出演だと思うが、この種の”展開が読めないストーリー”には格好のキャラクターという気がする。
 言っていることが本当なのか嘘なのか、直ちには見分けがつかないのである。
 さて、私が映画に絶対出て来ると予想するのは、
 「エヴァを乗せてヤヌシュが運転するタクシーが、どんどん速度を増していってクラッシュするシーン
であるが、映画ならではの、ドライブ・レコーダー的な映像が用いられているのではないだろうか?
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観ていない映画について語る(2)

2024年04月25日 06時30分00秒 | Weblog
 「一人暮らしの医師と、愛人の子供を身籠った女性バイオリニストの対話と選択。
 交響楽団のバイオリニストである30代の女性ドロタと彼女と同じアパートに住む医長の二人。ドロタは重い病を患って入院している夫アンジェイの余命を至急知りたいと医長を訪ねる。ドロタは愛人との間にできた子を妊娠していた......。

 「デカローグ1」と「デカローグ2」との共通の主題は、「神への直接の言及」、モーセの「十戒」で言うところの「神名濫称禁止違反」であるが、要は人間の「死」は何によって支配されているかという問題である。
 「1」は、人間の計算では予測し得なかった事故により人の死がもたらされるというものだが、「2」の展開はこれとは正反対である。
 「あなたのご主人は亡くなります。私の神に誓って
という医師の宣告は外れてしまう。
 また、「2」は、同時上演の「4」とも共通の主題を有しており、それは、「妻の姦通による夫の子ではない子の出生」、モーセの「十戒」で言うところの「姦淫禁止違反」である。
 「2」では、主人公のヴァイオリニストが妊娠した子を堕胎するかどうか悩むシーンが出て来るが、そうすると、映画では、
 「母親の体内で動く胎児
のシーンが登場すると予測する。

 「父と幸せに暮らす娘。ある日、娘は父が自分に宛てた手紙を見つける。
快活で魅力的な演劇学校の生徒アンカは、父ミハウと二人暮らし。母はアンカが生まれた時に亡くなった。父娘は友達同士の様に仲睦まじく生活していたが、ある日アンカは「死後開封のこと」と父の筆跡で書かれた封筒を見つける。その中身を見たアンカがとった行動とは.....。

 「法律上の父と生物学的な父」という「2」と「4」の主題はいかにも弁護士好みであるが、共同執筆者のクシシュトフ・ピュシェヴィチは弁護士である。
 序盤の「友達同士のように仲睦ましい父と娘」というところで、既に”何か”が匂う。
 ミハウとアンカは、普通の父と子というのではなく、恋人同士のような雰囲気を醸し出しているのである。
 「死後開封のこと」と父の筆跡で書かれた封筒の中には、娘を出産後5日目に亡くなった母の遺書が入っていた。
 その冒頭には、
 「ミハウはあなたの・・・
と書かれていたが、その後が読めなくなってしまう(ネタバレになるので書けないところである)。
 芝居でも出て来るが、映画では、
 「大きくクローズアップされた(一部しかない)「遺書」
が出て来るのは間違いないだろう。

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観ていない映画について語る(1)

2024年04月24日 06時30分00秒 | Weblog
 「大学教授の父と、世の中で起きることを数学で解いていく息子。彼らを待ち受ける苛酷な運命。
 大学の言語学の教授で無神論者の父クシシュトフは、12歳になる息子パヴェウと二人暮らしをしており、信心深い伯母イレナが父子を気にかけていた。パヴェウは父からの手ほどきでPCを使った数々のプログラム実験を重ねていたが......。

 「デカローグ」は、ポーランドの映画監督シシュトフ・キェシロフスキのテレビドラマ・シリーズで、これを舞台化したのが今回の新国立劇場の企画である。
 原作は、あのキューブリック監督が激賞していたらしいので(「デカローグ」公式サイト)、傑作と見て間違いないだろう。
 私は、映画(ドラマ)の方は未見なのだが、巨大な団地が”ミリュー”(台所からキッチンへ(19))ということで、映画の方が芝居より有利だと思った。
 おそらく、大半のストーリーが、”室内”で展開されるからである。
 この種の設定だと、どうしても室内に進入出来るカメラの役割が大きくなるが、観客の視点が固定される芝居では、”ミリュー”の内部に入ることが出来ないからである。
 さて、「ある運命に関する物語」は、ほぼ3人の登場人物によって演じられる、シンプルな戯曲である。
 無神論者のクシシュトフは、PC操作に長けた息子パヴェウと二人暮らしで、信心深い伯母のエレナが母親的な役目を務めている。
 クシシュトフ役のノゾエ征爾さんは、先日観た「マクベス」(タイトル・ロール?(2))の印象から、奇抜な演技をするのかと注目していたが、意外にもオーソドックスで端整な演技である。
 子役の子は負担が重いが、なかなか上手くこなしている。
 エレナ役の高橋惠子さんは、テレビでおなじみと言うことで「懐かしい」という印象がまず先に出て来る。
 この戯曲では、PC(当時はまだ四角のデカいモニター付きのやつ)が大きな役割を演じており、芝居でもこれをクローズ・アップした演出がなされる。
 映画でも、PCの扱いが大きなポイントとなるはずだが、果たしてどういう映像になっているのだろうか?
 ややベタではあるが、
 「誰もいない部屋で、PCがひとりでに起動し、激しく作動するシーン
が出て来るのではないだろうか?
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指揮者の偶像化とステージ上の民主主義

2024年04月23日 06時30分00秒 | Weblog
指揮:リッカルド・ムーティ
アイーダ(ソプラノ):マリア・ホセ・シーリ
ラダメス(テノール):ルチアーノ・ガンチ※
アモナズロ(バリトン):セルバン・ヴァシレ
アムネリス(メゾ・ソプラノ):ユリア・マトーチュキナ
ランフィス(バス):ヴィットリオ・デ・カンポ
エジプト国王(バス):片山将司

 客席から、「チケット完売だってよ」という声が聞こえてきたが、確かに、5階席までほぼ埋まっている。
 この要因は、やはり、指揮者(ムーティ―氏)と演目(「アイーダ」)にあるのだろう。
 それにしても、ムーティ―氏の人気の凄いこと。
 彼が初めて登場した瞬間、割れんばかりの拍手が始まり、ブラヴォーを叫び出しそうなファンの熱気が会場に充満する。
 チラシを見ても、彼がタクトを振る姿の写真の上に、
 「聴き逃すな!日本で、帝王ムーティ―のヴェルディを聴けるのは東京春祭だけーーー
とある。
 ワーグナーの写真でデザインされた「トリスタンとイゾルデ」「ワーグナー・ガラ」のチラシ(Tristan_WagnerGala.pdf (tokyo-harusai.com) )とは対照的である。
 このように”偶像化”されているムーティ―氏だが、「帝王」と言われるだけあって、彼の指導は、少なくとも日本人の歌手からは、ヤノフスキ氏と並んで「怖~い」と恐れられているようだ。
 歌手に「譜面を見て歌うこと」を求めるだけでなく、歌手にはステージ上を動く自由もない(まあ、これは、合唱が入る関係でスペースに余裕がないということもあるが・・・。)。
 もちろん、「譜面を見て歌うこと」以外にも、彼の指導には特色がある。

 「私たち音楽家は、職業として演奏しているわけではないのですね。ミッション、つまり使命としてやらなくてはいけないことだと思っています。
 私がイタリアで設立した若い音楽家たちによるオーケストラ「ルイージ・ケルビーニ・ジョヴァニーレ管弦楽団」で、私は彼らにいつもこう言っています。劇場にやって来るお客様はただ美しい音を聴くためじゃない、魂のこもった音を求めているのだと。だから、習慣として演奏するということは、音楽をやるうえで最も大きな敵だと思います。
 昨日の《アイーダ》の稽古中のことですが、ヴァイオリン奏者たちがとてもきれいな音を出しました。「あなたたちの音は素晴らしい。美しい。だけど空っぽだ」と私は言いました。音に魂が宿っていなかければ美ではありません。

 「アイーダ」になぞらえて言うと、ムーティ―氏の考えでは、”forma divina”(神々しいフォルム)(「清きアイーダ」の一節)だけだと「空っぽ」であり、そこに"anima"(魂)がこもっていなければ「美」ではない。
 それくらい、要求水準がメチャクチャ高いのである。
 それはともかく、私は職業柄、音楽に携わる人たちの「人間関係」にフォーカスしてしまう癖がある。
 つまり、指揮者と歌手やオーケストラ団員たちの関係に目が行ってしまうのである。
 こうした観点からすると、私見では、「ステージ上の民主主義」に限って言えば、その度合いは

「ラ・ボエーム」 ≧ 「エレクトラ」 ・・・・・・>「アイーダ」

という順番になる。
 ところが、これがなぜか、チケットの売れ行きとほぼ反比例しているのである。 
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玄人好み

2024年04月22日 06時30分00秒 | Weblog
指揮:セバスティアン・ヴァイグレ
エレクトラ(ソプラノ):エレーナ・パンクラトヴァ
クリテムネストラ(メゾ・ソプラノ):藤村実穂子
クリソテミス(ソプラノ):アリソン・オークス
エギスト(テノール):シュテファン・リューガマー
オレスト(バス):ルネ・パーペ 

 昨年も演奏会形式の「エレクトラ」を、ジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団で鑑賞したのだが(ブラヴォーの復活)、今回の公演はそれ以上に印象深い。
 もちろん、エレクトラ役のエレーナ・パンクトラヴァは素晴らしいパフォーマンスなのだが、クリソテミス役のアリソン・オークスのパワー(要するに絶叫の持続力)が凄まじく、彼女に持っていかれた感がある。
 このオペラは、エンディングでクリソテミスが「オレスト!」と絶叫するのが一つの大きなポイントでもあるので、タイトル・ロール役と並んでクリソテミス役が重要な役割を担っているのである。
 ちなみに、東京・春・音楽祭では、2005年にもこの演目を、今は亡き小澤征爾さんの指揮で、しかも演奏会形式ではなく上演している(オペラ公演 R.シュトラウス:歌劇≪エレクトラ≫)。
 当時は「東京・春・音楽祭」ではなく、「東京のオペラの森」という名称で、2005年は「R.シュトラウスとその時代」というのがテーマだった。
 この音楽祭はもともと小澤征爾氏が主導的な役割を担っていたようで、それがムーティ―氏やヤノフスキ氏に引き継がれたということのようだ。
 ところで、R.シュトラウスは、私見では、「心地よいメロディーを好まない、玄人好みの作曲家」で、ヴェルディやプッチーニとは対極にあると思う。
 実際、彼のイタリア・オペラ蔑視は大変なものだったらしく、「ばらの騎士」でも、第1幕では、イタリア人オペラ歌手を、明らかに馬鹿にされる役として登場させている。
 私が行った日は平日ということもあって、お客さんの入りは芳しくなかったが、これには、R.シュトラウスが「玄人好み」の作曲家であることも影響しているのではないだろうか?
 広瀬大介先生の「オペラ対訳×分析ハンドブック リヒャルト・シュトラウス/楽劇 エレクトラ」は、このオペラの決定版といって良い解説書だが、これを見ても、緻密な構成や目まぐるしい変調などはやはり素人にとって難しいと思う。
 とはいえ、この日の終幕後の舞台袖での出演者の盛り上がり方は凄く、私が知る限り、2021年の「世界バレエフェスティバル」最終日での出演者たちの大歓声(これが何回も客席に聴こえてきたのである)に近いものがあった。
 出演者は実に楽しそうに歌っていて、相当な充実感を感じていたと思うが、これはおそらく指揮者:セバスティアン・ヴァイグレと歌手たちの強固な信頼関係によるものだろう。
 なんだか、彼が、これまで以上に神々しく見えてきた。

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おしゃべりクラシック

2024年04月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「シェイクスピアの戯曲を題材にしたメンデルスゾーンの名曲『夏の夜の夢』。ウエンツ瑛士は、物語の重要な役回りを担い、進行役を務める妖精パックとして出演。夏至の頃、妖精たちが集う森で繰り広げられる妖精と人間たちの恋模様を、縦横無尽に舞台を動き、巧みに紡いで、幻想的な物語の世界へ誘う。指揮は佐渡裕、ソリストに人気と実力を誇る日本を代表する歌手陣、小林沙羅 (ソプラノ)、林美智子(メゾ・ソプラノ)を迎え、女声合唱パートは柏少年少女合唱団・流山少年少女合唱団らが務める。

 「真夏の夜の夢」は、「テンペスト」の次に私が好きなシェイクスピアの戯曲である。
 なので、クラシックだろうが、バレエだろうが、公演のニュースを聴くと反射的にチケットを買ってしまう。
 N響も来月「真夏の夜の夢」を取り上げるのだが、抜粋ということなので、新日フィルを選択した。
 新趣向は、ウェンツ氏が狂言廻し役(というより複数のキャラクターの一人芝居)をするところであるが、他方で、ちゃんと独唱・合唱(歌詞も原詩のドイツ語)が入っているのは好印象である。
 さすがだと思ったのは、この戯曲で一番ややこしい、4人の男女(2組のカップル)の関係を、冒頭でウェンツ氏が分かりやすく整理したところである。
 「何度も言うよ。駆け落ちしたカップル。これを追いかける男、さらにこれを追いかける女。ここを押さえておかないと、この後の30分がすごーく退屈になるからね
というくだりで聴衆は爆笑する。
 指揮者の佐渡さんは、音楽監督就任後2期目ということだが、「大阪のオモロいおっちゃん」そのままのキャラクターで、今回も冒頭から笑いを取りながら曲目紹介を行った。
 「真夏の夜の夢」ではオベロンを演じ、ここでも、
 「サントリーホール!ウイスキー飲みたい!
などと叫んで大きな笑いを取る。
 なんだか、彼がクラシック界の上沼恵美子のように見えてきた。
 「佐渡裕のおしゃべりクラシック」という副題がついてもよさそうである。
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