Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

90年代東京ミニシアターガイド(4)

2022年12月31日 06時30分54秒 | Weblog
 現存するミニシアターも結構ある。
 ユーロスペースは、当初は渋谷・桜丘町にあったが、現在は円山町に移転している。
 1982年の開館なので、ミニシアターの中では最も早いと思われるが、こちらは邦画主体で、「ゆきゆきて、神軍」(私は未見)の上映で有名になったという記憶がある。
 当時亡くなって間もない神代辰巳監督のロマンポルノ作品などを上映していたが、「鬼畜大宴会」の上映時、気分の悪くなった観客が次々と退席したのが強烈に記憶に残っている(かくいう私も、昼飯に食べたカツ丼を戻しそうになってパニックになった。)。
 現存するミニシアターは、なぜか池袋に多く存在するような気がする。
 東口の新文芸坐は、かつては「文芸座」の名称で、料金が安い(確か1本800円くらい?、あるいは1000円くらいで2本?)ので重宝していた。
 但し、木製の固い椅子なので、オールナイトはつらいだろう(私も夜明かしで観たことはない)。
 西口にあるのがシネマ・ロサ(ロサ会館)で、かつては洋画主体だったという記憶だが、現在は邦画主体のようだ。
 ホームページ(cinemarosa.net)を見ると、「年末年始も休館はございません」ということなので、年末年始に行って観たいと思う。
 
 
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90年代東京ミニシアターガイド(3)

2022年12月30日 06時30分11秒 | Weblog
 「ミニシアター」と言えば必ず挙げられるのが「ACTミニ・シアター」であるが、私はこちらには行ったことがないので語る資格はない。
 私がよく行ったのは、池袋東口にあった「ACT SEIGEI THEATER」の方である。
 とはいえ、この正式名称をすっかり忘れていて、「ACT2」(アクトツー)の名前で記憶していた。
 これはおかしなことではなく、入口(映画館は地下1階だった)のボードには、(正式名称は読みづらいせいか)「ACT SEIGEI THEATER(ACT2:アクト・ツー)」と書かれていたのである。
 さて、オープン記念企画が「デレク・ジャーマン映画祭」というくらいなので、商業主義路線とは一線を画していることが明白だが、フィルム・アーカイヴを見ると、「自転車泥棒」(「占有」と「信用」がテーマである:知的信用(4))などの法曹必見の重要作品もカバーしている。
 個人的には、結構な頻度で「ゴダール特集」をやっていた印象があるが、「ゴダールの映画史」を観ていなかったのが悔やまれる。
 いまAmazonでDVDを買うと、何と64,800円もするのだ(ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX [DVD])。
 1999年閉館、跡地「和泉屋ビル」地下1階が現在どうなっているかは未調査。
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90年代東京ミニシアターガイド(2)

2022年12月29日 06時30分16秒 | Weblog
 次に、ソ連映画専門映画館として一時代を築いた「キネカ錦糸町」を挙げなければならない。
 これは「シネヴィヴァン六本木」開館の3年後(1986年)の開館で、こちらも(当時の)西武グループの運営らしい。
 当時は西武グループの全盛期だったのだ(野球も西武が強かったという印象である。)。
 私の記憶では、「不思議惑星キン・ザ・ザ」と「ざくろの色」(但し旧ソ連ヴァージョン)を2本立てで上映していた。
 くどいようだが、「ざくろの色」は映画史上に残る傑作である。
 これ以外にも、「シネ・ヴィヴァン六本木」とかぶるが、タルコフスキー監督の諸作品を上映していた。
 旧ソ連のような抑圧体制の下でつくられる映画は、「ざくろの色」がそうであるように、独特の作風で成功することがあるが、その背景には「検閲」があると思う。
 旧ソ連の映画制作者の場合、「言葉」でストレートに表現すると検閲で引っかかるおそれがあるため、「映像・画像」だけで表現する志向が強い。
 こうして、視覚に強烈に訴えかける手法が研ぎ済まれていったのではないだろうか?
 このことは、「セルゲイ・パラジャーノフ Blu-ray BOX」のヴォン・グリゴリャン(パラジャーノフの元助手)の解説でよく分かる
 「キネカ錦糸町」は1994年に閉館し、跡地には現在「メガロス錦糸町」が入居しているらしい。
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90年代東京ミニシアターガイド(1)

2022年12月28日 06時30分05秒 | Weblog
 古代アテネ旅行ガイド 一日5ドラクマで行く フィリップ・マティザック 著 , 安原 和見 翻訳はなかなか面白い本で、古代アテネの世界にトリップしたような感覚を味わえる。
 いま、私が味わいたいと思うのは、90年代の東京のミニシアターの雰囲気である。
 当時のようにミニシアターが沢山あれば、おそらく業後に週3本は映画を観ているだろう。
 ということで、90年代の東京の代表的なミニシアターを回顧してみたいと思う。
 私見では、やはり今はなき「シネ・ヴィヴァン六本木」を真っ先に挙げる必要があると思う。
 
【ミニシアター再訪】第4回 六本木からのNew Wave・・・その1 シネ・ヴィヴァン・六本木 前編
 「ゴダール作品以外にも、アンドレイ・タルコフスキー(『ノスタルジア』〈83〉)やテオ・アンゲロプロス(『シテール島への船出』〈83〉)など、映像詩人と呼ぶのがふさわしい、知的で、哲学的な作風の監督たちの映画が次々に上映され、この映画館の先鋭的な個性を作り上げていく。

 ゴダール、タルコフスキー、アンゲロプロスというところだけでも選択が絶妙だが、ヨーロッパ映画だけでなく、ジョン・カサヴェテス監督の全作品を上映したこともある。
 おすすめは料金がお得なレイトショーで、ルイ・マル監督の作品などを、(日によっては2本?)1000円前後で21時頃から上映していた記憶がある。
 但し、郊外に住む人は注意が必要で、当時国立に住んでいた私は、けっこう午前様になったものだ。
 1999年に閉館し、跡地は現在六本木ヒルズ メトロハットになっている。
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合唱とタクト

2022年12月27日 06時30分45秒 | Weblog
ベートーヴェン『第九』特別演奏会Presented by 楽天カード 指揮:尾高忠明(東京フィル 桂冠指揮者)

 小さいころによくテレビで観ていたせいだろうか、尾高先生の指揮をおそらく初めて生で観るというのに、何だかお馴染みの人物のように見えてしまう。
 さて、尾高先生は、どうやらタクト(指揮棒)を使わないタイプの指揮者のようである。
 その代わり、指が細やかに動いている。
 合唱の場合、タクトを使わない指揮者も多いようだ。

指揮棒は必要か
 「特に合唱の指揮などのように、情感豊かに歌い上げたり、細やかなニュアンスを伝えたい場合には指揮棒を持たないほうが、より豊かに表現することが出来るようです。このためヘルベルト・フォン・カラヤンやヴォルフガング・サヴァリッシュは合唱音楽のときには指揮棒を使わなかったといいます。

 なるほど。
 この「タクトを持たない指揮法」は、2人の偉大な指揮者が始めたようである。

指揮棒を持たない指揮者たち
 「じゃ、今の棒なしトレンドはいったい誰が作ったのかって?
 そりゃ、間違いなくこの二人。
 まず、作曲家で、近現代の音楽では他の追随を許さない巨匠、故ピエール・ブーレーズ・・・
 もう一人は先日亡くなられたニコラウス・アーノンクール。

 「それからもうひとつは、身体的な都合による理由である。指揮棒を持つ、というのは図形を明確に描くため、というのはすでに述べたが、そのために、普通の指揮法では「指揮棒は手の延長」であることが求められる。
 手の延長であるためには、そう見えるような指揮棒の持ち方をしなくてはならず、一定以上の力で指揮棒を握り続けるのは、長時間になると結構負担に感じることもあれば、力を込めすぎると、手や指の腱、筋を痛めることもある。腱や筋は当然肩や首までつながっているので、先に肩が上がらなくなったり首が痛くなったり、どこか自由が利かなくなってくる場合もある。
 職業指揮者というのは、練習や本番でほぼ毎日のように長時間振っているわけで、1回1回はなんともなくても、それが20年30年続いたときに、自由が利かなくなってくる部分が出るのは、運動機能的に正しくやっていたとしても十分に考えられることである。


 合唱団や後ろ側の演奏者にとっては、手の指までは見えづらいので、おそらくタクトがあった方がありがたいはずである。
 なので、タクトを持つだけの腕の力がなくなり、かつ、指揮台に立ち続けるだけの足腰の力がなくなると、曲目次第では指揮をするのが難しいという場合もあるだろう。
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あれから7年

2022年12月26日 06時30分58秒 | Weblog
電通 過労自殺から7年「いのちより大切な仕事はありません」
 「大手広告会社、電通の新入社員だった高橋まつりさんが過労のため自殺してから25日で7年になります。母親の幸美さんが手記を公表し「いのちより大切な仕事はありません。働いている人はぎりぎりまで我慢しないでSOSを出してください」と訴えました。

 昨日は、高橋まつりさんが過労自殺を遂げてからちょうど7年目だった。
 まつりさんが、世間の人々が幸福感に溢れ返るクリスマスを自死の日に選んだのは、電車に飛び込む人たち(もちろん、発作的なものもあると思われるが)と同様、おそらく意図的なものだろう。
 つまり、自分の死を可視化して世間の人々に何らかのメッセージを伝えるためであろう(もっとも、メッセージを受け止めない人の方が大多数かもしれないが。)。

過労死 過重労働・ハラスメントによる人間破壊 〈日本語版〉
 (まつりさんのツイート)「男性上司から女子力がないだのなんだと言われるの、笑いを取るためのいじりだとしても我慢の限界である。」(p6)

 「他人を揶揄して笑いを取る」上司の思考・行動は、25年前のテレビのお笑い番組(25年前(11))と同じである。
 まだまだこの種の思考・行動は残存していることだろう。
 なぜなら、このカイシャの「マウント思考・行動」は顕著であり、「1強支配」という言葉もあるくらいだから。

「成功報酬型」巨額手数料、電通に300億円超…入札骨抜き[五輪汚職 1強支配]
 「東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件で、東京地検特捜部は18日、大会組織委員会元理事・高橋治之容疑者(78)について、受託収賄罪でみたび起訴する方針だ。巨額の公金が投じられた大会で、一連の不正はなぜ起きたのか。背景には、大手広告会社「電通」が自社の利益を優先し、スポンサー選定の権限を独占した実態が浮かぶ。
 「契約には、単純入札(手数料率3%)での選定も選択肢に残された。だが、別の組織委元幹部は取材に「入札でスポンサーを選んだ記憶はない」と証言。入札が「骨抜き」にされた結果、スポンサー料の価格交渉が可能になり、電通で専務などを務めた高橋が懇意のスポンサーを組織委や電通につなぐ「仲介ビジネス」の余地が拡大した。

 私の見立てでは、まつりさんの自死をもたらしたものと、オリンピック不正を引き起こしたものとは、おそらく同じ淵源を有している。
 カイシャというヴィークル=集団がもつ力を用いて échange 、つまり不透明な利益交換を実現するという思考・行動が、まつりさんを échange の客体(exchangeableなもの、例えば部品や原材料など)にしてしまったのである。
 もともと échange における"贈与"はマウントをとるために使われるのだが、このカイシャの場合、とりわけマウント(「1強支配」)を徹底的に強化することによって échange をやり易くしようとする傾向が強いようだ。
 合掌。
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潮を読む、波を読む

2022年12月25日 06時30分25秒 | Weblog
三浦半島・岩礁の道☆台風一過の高波に撤退
 「劔崎~江奈湾の間、盗人狩の手前で引きかえすことになった
 海が穏やかであれば問題なく歩けるのだろうが高波の時は通行不能、特に盗人狩のあたりは波に攫われる可能性があると思うので極めて危険


 私は、何ヶ月に1回くらいの頻度で、無性に海を見たくなることがある。
 というわけで、早起きして、2,3年ぶりに「三浦・岩礁のみち」を訪れてみた。
 このルートは、首都圏自然歩道(関東ふれあいの道)神奈川県の1番目に指定されているのだ。
 ここは、波打ち際を通るコースなので、事前に満潮の時間を調べておく必要がある。
 そこで、「潮を読む」わけだが、ネットの潮見表によれば、満潮は6時半くらい、干潮は11時半くらいだったので、「まあ、9時から11時ころに歩けば大丈夫だろ」と軽く考えて出発した。
 だが、これが甘かった。
 というのは、今日は海上で大しけとなったため、早朝に波浪警報が発令されていたのである。
 道理で、海は台風のときのように荒れ狂っている。
 ちょっとやそっとでは諦めない私も、「盗人狩」の手前で激しく打ちあがる波をみて、撤退を決断した。
 上で引用したヤマレコの方と似たような状況である。
 「潮を読む」だけでは足りず、「波を読む」必要があったのである。
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日常の幸福

2022年12月24日 06時30分45秒 | Weblog
「ウクライナ国立バレエ」戦禍の中で来日公演 背景に…“日本人初”芸術監督の奮闘(2022年12月19日

 今夏までは「キエフ・バレエ」だったが、今冬は「ウクライナ国立バレエ」としての公演で、演目は「ドン・キホーテ」である。
 例年、「くるみ割り人形」を上演しているのだが、ウクライナ当局から「チャイコフスキーの音楽を使用するバレエはダメ」というお達しがあったそうで、この演目が選ばれた。
 このバレエ団の”顔”とも言うべきアンナ・ムロムツェワさんが参加できなくなったのは残念であるが、彼女いわく、

 「私は、幸運なことにハンガリー国立バレエへ入団することができました。長い伝統がありクラシックを大切にするカンパニーです。ハンガリー国立バレエの一員として入団直後にカンパニーを離れることができず、この冬、日本へ行く事が叶いません。

ということなので、やむを得ない(転職直後で休みがとれない労働者のような立場だろう。)。
 さて、公演開始の直前、3人の関係者と思われる人物やってきて、1席空けて私の隣に陣取った。
 見ると、真ん中の方はどう見ても寺田芸術監督で、隣のウクライナ人女性(誰か分からなかった)としきりに話している。
 芸術監督が客席で観るというのは普通のことなのだが、こんなに近くなのは初めてである。
 オーケストラの皆さんは久々の海外公演だと思われるが、オーケストラ・ピットを見ると、皆さんにこやかで非常にリラックスしている。
 日本の”平和”を堪能しているのかもしれない。
 演目がそうさせるのかもしれないが、ダンサーもみな笑顔で、バジル役のニキータ・スハルホフさんに至ってはほぼ終始ニコニコしているような状況である。
 ムロムツェワさんの代わりにキトリ/ドルネシア姫役を務めるイローナ・クラフチェンコさんは初来日だが、お人形さんのようなダンサーで、グラン・フェッテを軽々と決めて喝采を浴びる。
 いかにも平和な演目だが、「日常の幸福」というもののありがたさをしみじみと感じた一日であった。
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アポロンとカエル

2022年12月23日 06時30分52秒 | Weblog
古代アテネ旅行ガイド ─一日5ドラクマで行く フィリップ・マティザック 著 , 安原 和見 翻訳
 「実際には、質問者からは女預言者の姿は全く見えない、女預言者すなわちピュティアは地下にいて、柵で外界から切り離されているのだ。しかも予言者といっても普通の女で、それが精密に方位を合わせた三脚台の前に座っているだけだ。この儀式の前半で、女預言者は山から湧き出るカスタリアの泉で身を浄め、アポロンの祭壇で月桂樹の葉と大麦を燃やす。そしてその部屋で瞑想をし、月桂樹の若枝を片手に持ちながら、質問を受け取ったときに訪れた言葉とまぼろしを叫ぶのである。」(p24)

 古代ギリシャ・デルポイで、巫女(ピュティア)がアポロン神から信託を授かる場面の記述である。
 なかなかリアルだが、これとよく似た”儀式”が、約30年前に大阪で行われていた。

ヤクザと金融機関 海棠 進 著
 「当時当たると評判だった尾上の株占いは、次のようなものだった。まず、「蛙の石像」の前で尾上が一心に祈祷する。見た人に聞いたところでは、尾上縫は一種憑依状態のようになり、そこに神が下りてきてご託宣がある。ご託宣により上がる株が分かるということで、証券会社や銀行の担当役員がよく通って推奨株を占ってもらうということだった。・・・日本興業銀行の当時の頭取がわざわざ大阪まで出向き、尾上に面会するといった状態だった。
 「蛙の石像での占いに始まった話は、総額2700億円の詐欺で一応完結した。尾上縫は、ヤクザの類いではない。ただ、蛙の石像での占いに、プロである証券会社や銀行の役員が群がったという状況は、当時の金融マーケットの異常な精神状態を表している。こういった「異常な状況」をヤクザは見逃さなかったのだが、その実態があらわになるのは、もう少し後のことになる。」(p18~20)

 「蛙の石像」を「アポロン神」に置き換えれば、古代ギリシャのデルポイとそっくりなのだ。
 ・・・それにしても、いくら取引や貸付けのノルマを消化するためとはいえ、証券会社や銀行の役員クラスが尾上縫の占いに群がり、しかも詐欺を見抜けなかったというのは、やはり異常な時代だった。
 これでは、(一部の)証券会社や銀行が破綻するのも当然だったのだろう。
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悪質なバトルロイヤル

2022年12月22日 06時30分50秒 | Weblog
過労死 過重労働・ハラスメントによる人間破壊 〈日本語版〉
 「日本では戦後の高度成長期の1960年代ごろから大学入学のための受験競争が激化し、いまも続いている。・・・
 小さいころから、競争に勝つためには、楽しみや睡眠さえも犠牲にしなければならない、という体験をする。この結果、人々の心のなかに根付いているこのようなメンタリティ・思想(楽しみや睡眠さえも犠牲にする)が、就職後も労働者を長時間労働に駆り立てる一因となっている。
」(p10)

 受験競争が、過労死を生み出す土壌を培養しているという鋭い指摘である。
 付言すれば、受験競争は犠牲強要社会の反映という側面があり、法学部はその典型だろう。
 法学部の状況は、私も当事者としてよく知っているが(法学部における犠牲強要とクソな競争)、医学部もやはり競争が激しいようだ。
 というのも、「新階級社会」において階級を維持する、あるいは上昇回路に乗るためには、医学部に入ることが有力な手段の一つだからである。
 さて、受験競争で感覚のおかしくなった人たちが何をやりだすかというと、自分自身を犠牲に供するだけではなく、他人に対しても自己犠牲を強要するようになる。
 しかも、この犠牲強要は、上から下へと向かい、どんどん激化していく。
 丸山先生が指摘した「抑圧委譲」である。
 私見では、この種の「自己犠牲の強要」が、過重労働やハラスメントの大きな要因だと思う。
 これは、傍から見ると、バトルロイヤルのような様相を呈する。
 但し、「一番強い人を最初にやっつける」という通常のバトルロイヤルではなく、「一番弱い人をダウンさせ、退場させる」という方向性のもので、極めて悪質である。

憲法の土壌を培養する 蟻川 恒正 木庭 顕 樋口 陽一 編著 「簡単な応答」(木庭 顕)
 「さらに、西村氏の展望からは、「私物化」の結果個人が犠牲になるというより、何が何でも個人を犠牲にするために「私物化」がなされる、という筋道が見える。つまり、基点に最下層の労働の状況が存在する。憲法問題にとってここが分水嶺となるという点は動かないと思われる。」(p215)
 
 やはり、最低でも、EU法における労働時間指令のような規制を導入すべきなのだろう。
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