Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

ひとり別格(2)

2023年08月31日 06時30分00秒 | Weblog
「生の半ば」という題について、私は異論がある。
理由は次回述べるが、私見では、「生の世界の半分」と訳すのが適切だと思う。
さて、本作はインパクトの強い詩であることから、日本語訳にもいろいろなものがある。
その中から興味深いものを2つネットで拾ってきた。

黄色い梨はたわわに実り
そして野薔薇は咲き誇り
大地は湖の上に降り、
愛らしい白鳥たち、
口づけに酔いしれて
その頭をひたす
聖らかで冷たい水の中に
ああしかし、どこに求めればいいのだ、もし
冬が来たら、花を、そしてそう
日の光を
地上に射す影を?
石垣は立つ
声もなく冷ややかに、風は
風見を軋ませる。

② 中路正恒先生(《Mit gelben Birnen ...》: 世界という大きな書物 中路正恒公式ブログ )※ 但し、最初の3行のみ。
黄色い梨の実がたくさんあるというのに、そして
野ばらもいっぱいにあるというのに、わたしの立つ地面は
それらとともに湖へ滑り落ちてゆこうとする。
 

この詩は対照的な2つの連で構成されているが、まず、1連を見ていこう。
「梨子の実」と「野ばら」は、「私を含む生き物たちが活動している世界」の果実・花(つまり精華)である。
ところが、それらを擁する大地(Land:私を含む生き物たちが活動している世界)は、湖(See:一応アクセス可能だが、大地とは別の世界)の中へ滑り落ちて行こうとする。
つまり、大地は永続的なものではない。
次に、場面はいきなり変わって、湖と(おそらく二羽の)白鳥が出てくる。

愛らしい白鳥たち、
口づけに酔いしれて
その頭をひたす
聖らかで冷たい水の中に

というくだりでは、一見すると分かりやすく「愛」が描かれているが、問題は「水」である。
「流れ」や「水」については、ハイデガーの難解な議論が存在する(ヘルダーリンの讃歌『イスター』 第2部門 講義(1919‐44)ハイデガー全集53巻 p19~)。
だが、ここは深読みする必要はなさそうで、"heilignüchterne Wasser "は、「愛」に続いて出てくるところから見て、「生命の源」という解釈で良いと思う。
ヘルダーリンは、「生命の源」は、「一応アクセス可能だが、私を含む生き物たちが活動している世界とは別の世界」にあると考えているようだ。
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ひとり別格(1)

2023年08月30日 06時30分00秒 | Weblog

 13時から21時まで、休憩を挟みながら、ドイツ・リート全109曲(アンコール曲を含む)を演奏するという、空前絶後の試みである。
 私は、ドイツ・リートが大好きなので(未完成の理由)、全曲を原文と照らし合わせながら聴いた。
 こういう風に、一気に聴き比べを行うと、綺羅星のようなドイツの偉大な詩人の中でも、「この人は次元が違う」という詩人が、はっきりと分かって来る。
 この「ひとり別格」の詩人は、フリードリヒ・ヘルダーリンである。
 このイベントでは7曲が取り上げられており、1曲目の「春」は比較的普通の曲だが、2曲目の「生の半ば」(Hälfte des lebens)が超ド級のインパクトを放つ。
 この詩は、ヘルダーリンの詩の中で最も頻繁に曲が付されているらしく、何と60曲以上が存在する。
 私の直観では、この詩は、「この世とあの世の境界」を描いた詩である。
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世襲女性議員

2023年08月29日 06時30分00秒 | Weblog
 「支持率が低迷している岸田首相としても、次の人事で若い女性を抜擢して政権を浮揚させたいところ。小渕氏は、“前科”さえなければ、経験、知名度、新鮮味、どれをとっても抜群に良い。何よりもの取り柄は小渕恵三元首相の娘である点。自民党はなんだかんだ言って“血統書”がモノを言う組織ですから
 「東京28区の選挙協力問題から始まった自公亀裂は、もともと茂木氏が学会嫌いだったからこそ起きてしまった騒動です。逆に、小渕氏は公明党にウケがいい。自公連立が始まったのは父・恵三氏が首相の時ですからね。

 「実は永田町は「男社会」であり、女性の国会議員は極めて少ない。国会議員722人中、女性は78人しかいない(およそ1割)。かつ、その78人の顔ぶれを眺めれば、「芸能人・スポーツ選手」と「世襲」の議員だけで3分の1を占めており、最も目につく。この比率は男性に比べても極端に大きい。

 女性議員の幹事長登用が取りざたされている。
 その理由は、「血統書付き」と「公明党の受けが良い」ということらしい。
 だが、この記事が言うところの「血統書付き」というのは、議員であった”父親”の子であることが重視されているわけで、結局のところ、「男系のイエ原理」が前提されている点が重要である。
 このことを裏付けようとすれば、たとえば、国会議員であった”母親”の子である女性の国会議員が存在するかどうかを確かめてみるとよいだろう(私も網羅的に調べたわけではないので、存在したらゴメンナサイ。)。
 また、自民党がこれ以上「血統書付き」議員の重用を推し進めていくと、維新との対立が尖鋭化するというリスクもある。
 なぜなら、維新は、基本政策において世襲に敵対的な態度をとっているからである(第2ラウンドから第3ラウンドへ)。
 まとめると、女性幹事長が誕生すれば、自民党が世襲体制を維持・強化すると同時に公明党との連立も維持することが明らかになるが、他方において、維新との対立が尖鋭化し、連立ないし協力が難しくなる、ということになると予想する。
 さあ、どうなりますことやら?
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良心はどこへ?

2023年08月28日 06時30分00秒 | Weblog
 「編集部から与えらえた問いは以下のようなものである。一方で裁判は不偏不党でなければならないはずであるのに、他方で裁判官は「その良心に従い」(日本国憲法76条3項)裁判しなければならないとされる。「客観的」でなければならないものが一体どうして「主観」によって導き出されるのか。一体「裁き」とは何なのか。」(p102)

 果たして、この問いに対して、十分納得のいく答えを持ち合わせている法律家がどれくらいいるだろうか?

 「・・・冒頭の問いに答えるのは極めて簡単なのであるが、誰でも容易に気づくように、簡単ではない難所が、この答えには潜んでおり、引っかかる人は引っかかってしまう。・・・この答えの核心部分は、「法は集団に圧迫された個人のために立ちはだかるためにある」というところにある。ところが、日本ではこれが法律家以外には(市井の人ばかりか哲学者や歴史学者や政治学者にせ)理解されていない。法律家でさえ理解していない者がいる。・・・
 こうして、例えば裁判は争いを解決するためにあるなどと言う者がでてくる。」(p105~106)

 そういえば、大学一年生向けの「法学」なる講義でも、ある教官は、「法は、対立する利害を調整し、利害を巡る紛争を解決するためにある」などと教えていた記憶がある。
 現在の最高裁も、おそらく多数派を占める裁判官は、岡口判事も示唆するとおり、「法は、いわゆる秩序のことであり、裁判は秩序を維持するためにある」などと言いかねないところだろう。
 一体「良心」はどこに行ってしまったのだろうか?
 こういう法曹(しかも一人は元裁判官!)が「とんでもない歴史的事態」を作り出してしまったことについては、呆れてしまうほかないだろう。
 「国民の多数派」を代表する政治家の圧力に対し、法曹が抵抗するどころか協力してしまうとは・・・。

 「このとんでもない歴史的事態に、俺の知り合いばかり登場する 
 検察官の定年延長問題は、これを認めちゃ絶対にダメだろというレベルの問題題。歴史に残る事態。
 これを進めようとしている法務大臣は、俺の受験生の頃からの知り合いの森雅子大臣
 人事院総裁は、俺の司法研修所の教官だった一宮なほみ総裁
 そして、これに果敢に立ち向かったのは、俺が水戸修習時代に大変にお世話になった神村昌通検事です。

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秩序維持派

2023年08月27日 06時30分00秒 | Weblog
 「「秩序維持派」が支配してしまった
現在の最高裁に、
バランス感覚など期待できるはずがない。
悪いことをした国民がいれば、
秩序維持派たちは、
見せしめ的に、
必要以上に、ひどい目に合わせる
でも、それって、「裁判官の役割」ではないのですが・・・
.
今、「通常の裁判官の判断」ができるのは、
宇賀克也裁判官だけです。

 「飲酒運転は退職金もゼロ円になる。覚えておいて損はない。

 本件事故は物損事故なので、従来の判例の判断基準(「それまでの勤続の功を抹消または減殺するほどの著しい背信行為があった場合」でない限り、退職金を減額、不支給とすることはできない。)からすれば、退職金ゼロはまず考えられない。
 ところが、この裁判体は、退職金ゼロを認めてしまった。
 最高裁判決を読んでも、全く説得力がなく、首をかしげるばかりである。
 どう見ても、宇賀先生の
 「教職員以上に飲酒運転を自制すべき立場にあるともいい得る警察官が、 被上告人による本件非違行為より後の平成30年に酒気帯び運転を行った事案では、停職3月の懲戒処分にとどめられている。
という指摘の方が説得力がある。
 どうしてこんなことになってしまったかについて、岡口判事は、「秩序維持派が支配してしまった」ことを理由に挙げる。
 第二次別姓訴訟(大法廷決定)でも宇賀先生は「反対意見」を書いておられるが、こういうまっとうな意見が「反対意見」になってしまう最高裁はやはりおかしい。
 ・・・まあ、殆どの法学部・ロースクールで「法とは何か」が教えられてこなかったのだから、こうなるのも予測の範囲内ではあったが。
 
 
 
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追い込み型ピアニスト

2023年08月26日 06時30分00秒 | Weblog
指揮=坂入健司郎
ヴァイオリン=前田妃奈
チェロ=鳥羽咲音
ピアノ=亀井聖矢
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 作品104
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23

夏の定番コンサートで、かつては海外のソリストばかりだったのが、いつの間にか日本人ばかりとなったこともあり、最近は敬遠していた(直近で行ったのは2019年)。
トップバッター:前田さんのストラディヴァリはなかなかよい響きで、安定感を感じさせる。
今年の注目は、やはり18歳のチェリスト:鳥羽咲音さんではなかろうか?
前評判通り、堂々たる演奏ぶりで、音もよく響いていた。
ラストは、昨年来注目を集める亀井さんのチャイコン1番。
ちなみに私は、ドミトリー・シシキンが、2019年にこのホールで開催されたチャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラで完璧な演奏をしたために、その後数日ほど興奮が収まらなかった経験がある。
亀井さんは、先日の東フィルとの共演でもそうだったが、第一楽章では緊張があるのかやや硬い(ピアノが重い)印象を抱いた。
今日も、2,3か所細かいミスタッチがあった。
だが、2楽章に入ると神憑り状態となり、3楽章ラストでは、ピアノを叩き壊さんばかりの力で”荒魂”的な演奏を見せた。
亀井さんの十八番のサン・サーンス5番(エジプト風)は、曲のつくりがそうなっているので「ラスト追い込み型」がピッタリくるのだが、何だか、ほかの作曲家の曲でも、尻上がり的に調子を上げてくる感じである。
「ピアノ界のディープインパクト」と呼べるかもしれない。

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視覚と記憶

2023年08月25日 06時30分00秒 | Weblog

 「初代国立劇場さよなら特別公演 」の一つで、国立劇場6館研修修了者によるパフォーマンスが観られる。
 私は、これほどバラエティーに富んだ舞台公演をかつて観たことがない。
 というのも、例えば、バレエの後に文楽が出てきたりするわけで、これだと「次は何が出るか?」というワクワク感があり、上演時間も適度な長さなので飽きが来ない。
 さて、私が一番衝撃を受けたのは、沖縄の伝統芸能である「組踊」”手水の縁”である。
 その理由ははっきりしている。
 琉球の伝統的な衣装がアルメニアの民族衣装と酷似しているため、「ざくろの色」の記憶が蘇ってしまうのである(琉球舞踊とざくろの色)。
 「ざくろの色」は、この世のものとは思われない映像の連続である。
 はっきり言えば、「あの世の映像」である。
 この映像の記憶が、私の脳の一部を完全に支配しており、それが視覚的な刺激によって呼び覚まされてしまうのである。
 なので、琉球の伝統的な衣装が目に入った瞬間、私の脳裏を不吉な予感がよぎった。
 ところが、例によって、沖縄の楽天的な音楽に乗ってストーリーが進んでいくので、ちょっと安心する。
 だが、それは錯覚だった。

結で置く契りヨー
この世までと思な
変るなやう互に
あの世迄も

結んで置く契りは
この世だけと思うな
変わるなよ、お互いに
あの世までも  

 こうしたセリフは、我々が業務において接することの多い、ストーカー/DV/モラハラ系配偶者などのボキャブラリーに属している。
 「密通」が発覚して「打ち首」にされそうになるという、怖いお話だったのだ(最後はハッピーエンドのようだが。)。
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真夏のクラシック(5)

2023年08月24日 06時30分00秒 | Weblog
ラヴェル:「道化師の朝の歌」(管弦楽版)
アルトゥロ・マルケス:ダンソン第9番(ダンソン・ヌメロ・ヌエヴェ)
芥川也寸志:交響管弦楽のための音楽
ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調 *
チャイコフスキー:バレエ組曲『眠りの森の美女』 Op. 66a

 フィナーレは例年東京交響楽団と”慶太楼 ” ということらしい。
 今年はソリストが清塚信也さんということもあり、チケットは早々に完売となった。
 幸いなことに追加発売があり、私は何とかパイプオルガン側、つまりオーケストラを背後から見下ろす位置の席を確保した。
 最初の「道化師の朝の歌」は、ビックリするような大音声が飛び出す曲で、おそらく子供が聴いたら長いこと印象に残るだろう。
 次はダンソンという選曲で、プレ・トークでは「今日のテーマは”踊り”」とあった。
 その次が本日一つ目の目玉:清塚さんによるラヴェルのコンチェルトである。
 清塚さんはこの曲を相当弾きなれている印象で、緊張するどころか、指揮者やオーケストラを挑発するようなアイコンタクトや身振りが目立つ。
 そういう仕草を見ていると、小さい頃は多動症だったのではないかという疑いを抱いた。
 案の定、ソリスト・アンコールでは、指揮者の原田さんが着席する前に演奏を始めてしまい、やり直しとなる。
 二つ目の目玉は、「眠りの森の美女」で、これが一応のラストとなる。
 残念なことに、私はこの後の「The Artistsーーバレエの輝きーー」に向かうため、「ローズ・アダージョ」を聴き終えたところで会場を去った。
 ちなみに、「バレエの輝き」のラストの演目は、奇遇というべきか、「「眠れる森の美女」ローズ・アダジオより」であった。
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真夏のクラシック(4)

2023年08月23日 06時30分00秒 | Weblog
オネゲル:交響詩『夏の牧歌』
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 Op.102 *
R.シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』Op.40(ヴァイオリン独奏 石田泰尚)

 「 辻井さん登場」ということで、例によってチケットは完売。
 今回はショスタコのコンチェルト2番で、演奏時間は約16分と短い。
 今回の辻井さんでいちばん感銘を受けたのは、ショスタコではなく、アンコールの
 ショパン:夜想曲第20番 嬰ハ短調 《遺作》 
であった。
 この曲は、先日のオーケストラ・アンサンブル金沢との共演の際もアンコールで演奏されたのだが(オペラのアンコール)、今回の演奏はそれを明らかに上回る、素晴らしい出来ばえだったからである。
 私は、「もっと長時間弾いていたい!」という辻井さんの心の声を聴いたような気がした。
 プログラム後半の「英雄の生涯」は、初めて聴く曲。
 初めて聴く曲だと、比較の対象がないために、「好演」といってよいかどうか自信が持てない(直感的には ”good” だったか?)。
  11月のベルリンフィル来日公演でも聴くので、比べてみたいと思う。
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真夏のクラシック(3)

2023年08月22日 06時30分00秒 | Weblog
  • 指揮:秋山和慶(日本センチュリー交響楽団 ミュージックアドバイザー)
    ヴァイオリン:HIMARI *
  • シューベルト:交響曲第5番 変ロ長調 D. 485
    ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 Op. 26 *
    ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト長調 Op. 88
 今回の目玉は、12歳の天才ヴァイオリニスト、HIMARIさんによるブルッフの協奏曲だろう。
 定番の協奏曲で、昨年は三浦文彰さんがソリストだった(フェスタ サマーミューザKAWASAKI 2022 NHK交響楽団エキサイティング!渋谷から熱風が襲来!)。
 今回のHIMARIさんは初見だが、勝手に「前橋汀子さんの幼いころ」という印象を抱いた。
 彼女のストラディヴァリウス「Hamma」は、前澤友作氏から貸与を受けているそうで、会場には前澤氏の姿があった。
 ヴァイオリンは値段が高いため、こういう風にスポンサーから貸与を受ける例も多いようだ。

 「元NHK交響楽団のコンサートマスター徳永二男氏がストラディバリウスをこう語っています。 
 
演奏家にとっていろいろな感情を表現するために必要なことは音色なのです。音楽家ならば常に楽器にそういうものを求めているのです。そしてその要求に答えてくれる深さと幅を持っているのがストラディバリウスなのです。
音楽家は演奏していることで自分を表現しています。自分の存在を賭けているわけで、そのことに対しては貪欲で際限がないものです。良いヴァイオリニストになればなるほど要求が深くなる。だからストラディバリウスが必要になるわけです。そのことが一番大事なことでしょうね。

 なるほど。
 「弘法は筆を選ばず。だが、音楽家は楽器を選ぶ
というわけである。
 
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