Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

マニピュレーター(1)

2022年11月30日 06時30分51秒 | Weblog
他人を支配したがる人たち―― 身近にいる「マニピュレーター」の脅威
 「ある種の職業や公的機関、特定分野では、潜在的攻撃性パーソナリティ―に対し、公然と人を搾取できる格好の機会が提供されている。その好例が政界であり、法曹界、宗教界だと言えるだろう。
 ・・・テレビで福音を説く説教師やカルトの指導者、過激な政治思想を叫ぶリーダーたち、あるいは日曜日の夜のテレビ番組ではおなじみの、”有名”通販バイヤーが熱弁を振るっている。新聞の見出しをにぎわしている過激な社会運動家も同じだ。
」(p72)

 司法修習生時代、実務修習先の裁判所では、ある大きな殺人事件の公判が大詰めに差し掛かっていた。
 同期は、裁判所(刑事部)、検察庁、弁護士事務所に散らばっていて、この事件に関するいろいろな情報が入ってくる。
 その中で、被告人の弁護人のもとで修習している同期からの話が伝わってきた。
 それによると、被告人は、「接見室で会って話をすると、『非常に魅力的な人』だが、弁護人を含め、関係者を『操作しようとする』」人物らしい。
 「操作しようとする人」を英訳すると、「マニピュレーター」ということになるが、これこそが、この本の著者であるジョージ・サイモンが指摘する「攻撃性パーソナリティー」の最大の特徴である。
 ところで、現在、マスコミで「政治と宗教」の問題が大きく取り上げられているが、ジョージ・サイモンによれば、「政界」と「宗教界」は、マニピュレーターにとっての理想の職業、「約束の地」であるそうだ。
 道理で、この2つの業界人は、しばしばタッグを組むわけである。
 ちなみに、「法曹界」も「約束の地」の一つに挙げられているが、これについては同意するかどうかについては、留保することとしたい。
 
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空中戦

2022年11月29日 06時30分08秒 | Weblog
講談社元社員「妻殺害」裁判で最高裁が有罪判決破棄差し戻しという「逆転」判決の意味
 「原審では、弁護人の控訴趣意書及び検察官の答弁書において、Aの顔前面の血痕の有無に関する主張はなく、Aの顔前面の血痕の有無は特に争点とされていなかった。・・・
 しかし、原審検5号証添付の写真3及びその拡大写真には前額部挫裂創周辺の狭い範囲しか写っておらず、原審検6号証添付の前記写真には顔面全体が写っているものの、同写真は電子カルテから普通紙に印刷されたもので色調が不鮮明である。これらの写真からAの顔前面の血痕の有無を判断することは困難というほかなく、他にAの顔前面の血痕の有無を判断する根拠となり得る証拠は取り調べられていない。
 仮にAの顔前面の血痕があるとすれば、原判決の論理によっても、Aの両手に血液の付着やその痕跡がなく、血液を拭うなどした物も見当たらなくとも必ずしも不合理でないことになるから、原判決が本件自殺の主張を排斥した主要な根拠が失われることとなる。
 また、原判決は、Aの両手に血液の付着やその痕跡がなく、血液を拭うなどした物も見当たらないことから、Aが前額部挫裂創を負った時点で意識を消失しており、意識を回復することなく死亡したことが推認できるとし、そのことが本件推認を強く支えるともしているが、Aの顔前面の血痕があるとすれば、本件推認の強い支えも失われることとなる。


 判決文の要点を抜き出してみたが、これを読む限り、一審・控訴審ではむなしい空中戦が展開されていたようである。
 重大な争点であるべき「Aの顔前面の血痕の有無」がなぜか争点になることなくスルーされ、これに関する証拠がまともに取り調べられることもないいまま審理が進み、判決が下されてしまったのである。
 つまり、事実と証拠の吟味を欠いた空中戦の末の判決だったということである。
 これはやはり、最高裁の調査官がいい仕事をしており、それを裁判官がよく理解したということだろう。
 この判決のメッセージは、「捜査側は写真をちゃんと出せ」ということではないかと思われ、そのことは、上に引用した表現ぶりからほぼ明らかだろう。
 この証拠がないということは、ちょっと考えられないのである。
 
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音楽の力

2022年11月28日 06時30分01秒 | Weblog
新国立劇場バレエ団 春の祭典 The Rite of Spring
 「新国立劇場で生まれたオリジナル・ダンス作品として、高い評価を受け再演を重ねる傑作『春の祭典』。この大切なレパートリーを新国立劇場バレエ団ダンサーが引き継ぎ上演し、さらに男性ダンサーたちが活躍する新作『半獣神の午後』を併演いたします。

 「肉体の獣性」というダンスのコンセプトもさることながら、「春の祭典」(4手ピアノ編曲版)を二人のピアニスト(松本詩奈さんと後藤泉さん)が演奏するという、それだけで既に豪華な演目である。
 
スーパースターガラ 2022 Bプログラム
 アーサー・ピタ「彼女(ナタリア・オシポワ)はスタジオではあらゆることにオープンで、何に対しても挑戦をためらいません。何か挑戦になることを与えると、彼女は本能的にそれに応えてくれます。音楽性の面でも卓越している。彼女はつねに自由です。そういう自由の感覚を持った相手との仕事は必ず素晴らしいものになります。」(公演パンフレットより)

 私のように、朝目覚めた瞬間にiPodに手を伸ばして音楽を聴いているような人間は、バレエの公演でも、まず音が体に入ってくる。
 そして、音が動きを指示しているように感じるのである。
 そういう意味では、「ジュエルズ」より ダイヤモンドは、チャイコフスキーの交響曲第3番が用いられているが、コリオとマッチしていて心地よいし、「シェヘラザード」なども、もともとバレエ用につくられていたのかと錯覚するような音楽である。
 さて、Bプログラムでお客さんが思わず声を挙げそうになったのが、「Somebody Who Loves Me」である。
 ホイットニー・ヒューストンのI Wanna Dance With Somebody(但し、アカペラバージョン)に振り付けたもので、ダンスのためにつくられた曲であることが「発見」された瞬間である。
 ホイットニー・ヒューストンの曲に合わせて踊る元ボリショイ・バレエのプリンシパル・バレリーナ・・・。
 こういう”自由な”ロシア人もいるという事実は、希望を与えてくれるように思う。
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軟体動物

2022年11月27日 06時30分06秒 | Weblog
スーパースター・ガラ 2022 【A プログラム】

 豪華な顔ぶれでどれも注目だが、個人的には、「この人が出演するとチケットは売り切れになる」というので有名なスヴェトラーナ・ザハロワによるコンテンポラリー作品の上演が目玉だと思う。
 ということで、「Digital Love」に注目していたのだが、軟体動物が俊敏に動くようなコリオ(但し、最後は「瀕死の白鳥」と同じポーズ)で、ややグロテスクな印象を与える。
 いつも彼女のクラシック・バレエの端正な姿を観ている人はビックリするだろう。
 コンテンポラリーと言えば、エドワード・ワトソンの「インポッシブル・ヒューマン」も、死体が自由自在に動いているようなコリオであり、いずれにせよ人間とは思えない動きである。
 ザハロワさんはウクライナ生まれで、本来、こういう「国境を越える」芸術家が「新しい自由な社会」の担い手となることが期待されていたのだ。
 もちろん、ボリショイバレエ団のメンバーである以上、さらに言えば、プーチンの後押しで国会議員になってしまった以上、それは無理な話なのだが・・・。
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ルーティンはつくらない

2022年11月26日 06時30分42秒 | Weblog
第16回 渋谷の午後のコンサート 〈クリスタル・クラシック〉
 「「あいつがゴミ箱に捨てたスケッチだけでも一曲書けそうだ」。これはドヴォルザークの非凡なメロディメーカーぶりを称えたブラームスの言葉。」(曲目解説より)

 ドヴォルザークは、クラシックの作曲家の中でも屈指のメロディーメーカーと言われており、ブラームスも称賛している。
 「交響曲第8番」で言うと、第3楽章が「スラブ舞曲集」と同じく、”ドヴォルザークしか作れない”メロディーに入るだろう。
 メロディーメーカーらしく、彼は歌曲やオペラも得意で、オペラは10作を越える。
 そこで、今回のゲストはオペラ歌手である。
 恒例の質問コーナーで面白かったのは、森麻季さんのルーティンについてのお話である。
 かつては、本番前にある飲み物(はっきりしないが、ハーブティーのようなものか?)を飲むというルーティンがあったが、ドイツでの公演の際、ガス入りの水しか用意されておらず、困ったそうである。
 そのとき、「歌手は、どんな時でも歌わないといけないのに、ルーティンをつくってしまうと、それが守れないときにピンチに陥ってしまう」(私の記憶で再現しているので、実際は違う言葉だったかもしれない)と思い至り、ルーティンはやめたそうである。
 私も、仕事上のルーティンはつくらない方が無難だと思う。
 というのは、それが守れない環境におかれた時に自分が困るだけでなく、周囲の人に迷惑をかけるおそれがあるからである。
 極端な例を挙げると、「締め切り直前までやる気が出ないので、書面はギリギリに出すルーティン」を有する弁護士と共同受任したケースを想像するとよい。
 一緒に書面をつくる側としては、迷惑この上ないのである。
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神話に非ず

2022年11月25日 06時30分03秒 | Weblog
新版 ローマ法案内 (紙版) 現代の法律家のために
 「神話は範型(チャーター)となる話一般のことであり、日常的な事件を語る語と緩やかに区別されている。後者も範型となりうるから区別は相対的である。これに対して、多くのヴァージョンを校合したりしてチェックし本当かどうかを疑えば、範型たるをえなくなるから、その話は神話ではなくなり、残余のみが神話となる。ギリシャでは非神話化が徹底され、方法的に絶対範型たりえない話がまさに範型たりえない話として人々の記憶に刻まれた。これが文芸である(われわれにとっては「ギリシャ神話」であるが、実は非神話である。)。」(p16)

 だいたい、ゼウス(ジュピター)が浮気性のとんでもない男で、その妻ヘラ(ジュノー)はヒステリックで皺を気にしたりするおばさんなのだから、ギリシャの神々は日本人がイメージする”神”ではない。
 こうした「非神話化」の極致が、おそらく「天国と地獄」だろう。

《二期会創立70周年記念公演》 東京二期会オペラ劇場 天国と地獄
 「ジュピターは大の女好き。ユリディスをひそかにものにしようと企んでいたのだ。彼はハエに姿を変えて、退屈するユリディスの部屋に忍びこむ…。そこへオルフェも到着…。ハエに姿を変えてユリディスを誘惑するジュピターに怒るプルート。天国と地獄の面々入り乱れての乱痴気騒ぎ。さて、どうなることやら…。

 ハエの姿となってユリディスと歌うジュピター・・・。
 それにしても、こういうオペレッタで輝く渡邉公威さん(ブルート)や又吉秀樹さん(ジュピター)といった歌手の皆さんたちは、「非神話化」にとって貴重な存在である。
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国境を越える

2022年11月24日 06時30分47秒 | Weblog
物語とみどころがよくわかる名作バレエ70鑑賞入門
 「1929年、ディアギレフの死と共に、バレエ・リュスは解散。その後、アメリカの富裕な青年リンカーン・カースティンとの出会いによって、バランシンに転機が訪れる。アメリカにバレエ芸術を定着させたいという夢を抱いたカースティンに招かれ、1933年渡米。翌年、スクール・オブ・アメリカン・バレエが開校し、『セレナーデ』が発表される。」(p124)

 「新しい自由な社会」の担い手は、「大量の専門技術職層、およびこれと結びついた芸術家ないし芸術関連専門職層、そして独立度の高いマネージャー層」と考えられるわけだが、戦前にもこの種の”国境を越える”人たちはいた。
 私見では、その典型がリンカーン・カースティンである。
 こういう人たちが各国に一定数存在するようになれば、自由で平和な世界が実現されることになるだろう。
 日本にも、鈴木幸一さんのような、芸術のために私財を投じる実業家は存在するが、まだまだ少数であり、西欧やアメリカなどと比較すれば「周回遅れ」の状況にあるのだろう。
 ・・・などという偉そうなことを言う私も、サラリーマン時代には、カースティンのような人物が、事業を起こすために融資を申し込んできたとすれば、

 「融資を行うためには、不動産担保が必要です

と答えることしか出来なかったのかもしれない。
 もっとも、当時の私は、「国境を越える」(脱サラして留学する)ために、お金を貯めていたのではあるが・・・。
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ポリコレ解釈されたムソルグスキー(2)

2022年11月23日 06時30分43秒 | Weblog
 トークの中で、亀山郁夫先生は、「ボリス・ゴドゥノフは、一般名詞としての意味を持っている」という趣旨の指摘をなさっている。
 一般名詞としての「ボリス・ゴドゥノフ」は、部族社会の原理からすると、「ジェネアロジーとテリトリーとの関係」(リューリク朝ロシア帝国)に(前帝フョードル1世の妻の兄として)外から侵入した人物と言う位置づけになるだろう(カイシャ人類学(14))。
 ところが、ボリス・ゴドゥノフは、単なる「外」にはとどまらず、イヴァン雷帝の末子:ドミトリー皇子を殺害して帝位についたという「濡れ衣」を着せられてしまう(今日の歴史家は、ドミトリー殺害の事実を否定するそうである。)。
 民衆は真実より「ジェネアロジー=リューリクの永続性」を求めたということなのだろうが、ここにロシア的「フェイク」の起源があるような気がする。
 実際、その後僭称皇子=「偽ドミトリー」なるものが現れ、ジェネアロジーの継続性を仮構するのだから、始末が悪い。
 ちなみに、佐藤優氏は、トークの中で、北朝鮮の現在の最高権力者も「僭称」であると指摘している。
 東アジアにおいては、帝位・王位は長子が継承するのが原則だからである。
 ・・・このオペラは、現在のロシアや北朝鮮の体制・文化を解き明かしてくれているような気がするのだ。
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ポリコレ解釈されたムソルグスキー(1)

2022年11月22日 06時30分48秒 | Weblog
ペラ『ボリス・ゴドゥノフ』オペラトーク
 「開場25周年記念公演としてポーランド国立歌劇場との共同制作により世界初演される『ボリス・ゴドゥノフ』のオペラトークを開催いたします。
ゲストにロシア文学者でオペラにも造詣の深い亀山郁夫氏と現代ロシア事情に精通した佐藤優氏を迎えます。指揮を務める大野和士オペラ芸術監督との鼎談で繰り広げられる熱いトークにどうぞご期待ください。
さらに、『ボリス・ゴドゥノフ』で本役・カヴァーを務める豪華歌手陣の演奏による作品紹介も。こちらもご期待ください。


 オペラトークにも行きたかったのだが、スケジュールが合わず行けないまま本番を観る。
 1869年のオリジナル版は、「ヒロインが出てこない」という理由で上演を拒否された。
 このため、1872年版にはポーランドのシーンが加えられ、「愛の二重唱」が出て来るそうである。
 オペラトークの末尾付近で大野監督が述べているとおり、このシーンは、本公演では2つの理由でカットされたそうである。
 一つは、ポーランドのくだりを入れることは、ムソルグスキーの本意ではなかったということである。
 もう一つは、ポーランド国立歌劇場との共同制作であり、この後ポーランドで上演される予定であるところ、「・・・ポーランドシーンをまじえてやることは、非常に難しい選択となるであろう・・・」という、政治的な理由である。
 私見では、ボリス・ゴドゥノフの内心の葛藤にフォーカスするのは大正解という印象なので、この選択はよいと思う。
 ちょっと気になったのは、「愛の二重唱」というところでの、大野芸術監督のやや蔑みを含んだ笑みである。
 実は、彼はイタリアオペラを軽蔑しているのではないかという気がした(立場上、そんなことはおくびにも出せないのだろうが。)。
 例えて言うならば、(内心は)「アンチ巨人」のプロ野球のコミッショナーのようなものか。
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世界を変えるかもしれない人

2022年11月21日 06時30分23秒 | Weblog
『私の一ヶ月』作・須貝 英、インタビュー
 「第一フェーズはメンバーが互いを知り合うための時間で、ロイヤルコートの講師の方々がこれまでに培ったノウハウについて聞いたり、課題の戯曲について皆で議論し合ったりしました。参加者内で「戯曲をどこから書き始めるか」なども話し、シェアできたのはこれまでにない有意義な体験でした。
 それらを経て、各々が第一稿を書いた上で第二フェーズに入ったので、参加者から聞いていた話と出てきた戯曲を照らし合わせて考えることができ、「なるほどこういう形になるのか」「こんな表現になるとは意外だ」など発見の連続でした。上演を目的としないで書く自由さ、それをゼロから共有する仲間がいる心強さなど含め個人的にメチャクチャ楽しい時間で、メンバー内で僕が一番楽しんでいた自信があります(笑)。それにまず人を知り、その後から作品を知るという機会もあまりないことでしたから。


 なるほど。
 複数の作家が同時進行的に戯曲を書き、それを見せ合ってディスカッションを行い、推敲を重ねて完成させるという方式のようだ。
 「上演を目的としない」というところが新鮮で、実際、「上演されない作品」(未完成の戯曲、あるいは読むための戯曲など)というものもあってよいと思う。
 さて、本作の最大の特徴は、舞台上に3つの空間が登場し、同時に劇が進行していくところである。
 この3つの空間は、① 2005年11月、② 2005年9月、③ 2021年9月 という風に、時間を異にしている。
 ②と①の間で起きた大きな出来事を巡るストーリーなのだが、それは前半では知らされず、後半で明かされることとなるので、ミステリーを読んでいるような気分になるのである。

演劇をやる上での原動力の一つに「世界が抱えている問題を何とかしたい」という思いがあります。演劇で世界を変えるのは簡単なことではなく、実際政治家になった方が早いのかも知れません。でも「世界を変えるかもしれない人」を演劇によって変えることは出来るのではないか。その願いは『私の1ヶ月』にも込められています。
 ・・・僕自身は日本全体がスローダウンすればみんなが楽になると思っています。そうできないことが日本の貧しさにつながっていると捉えていて、その傾向がコロナ禍でより加速していったように感じます。
」(公演パンフレットより)

 私見では、「世界を変えるかもしれない人」を日本で探すとすれば、やはり中高生ではないかと思う。
 基本的なものの見方や感じ方は、おそらくこの年代に形成されるからである。
 ところが、この数十年というもの、中等教育において、人間を没知性的にするような教育が広く行われ続けている(知的信用)。
 須貝さんがいう「スローダウン」と正反対のことが、社会全般で蔓延しているのだが、その病原は、ここに潜んでいる可能性がある。
 なので、中高生に、こうした演劇を安価又は無償で観てもらうプロジェクトなどを、私は希望するのである。
 
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