Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

決め手(3)

2023年01月31日 06時30分00秒 | Weblog

 解説は、75手目「3七桂」が”決めて級の一手”であるとコメントしているが(13:17付近)、それ以前に大勢が決している。
 私見では、決め手は、おそらく藤井さんの59手目「3七歩打」(11:02付近)。
 これで、後手はどう応じても敗勢となる流れである。
 第3局は、藤井さんが終始ノー・ミスで、後手番としては千日手狙いくらいしかなかったようである。
 解説からも、「ちょっと強すぎて、手がつけられないような、圧倒的な将棋でしたね」というコメントが出たが、もう少し面白い対局が観たい。
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ドイツかぶれ?

2023年01月30日 07時07分00秒 | Weblog
 「ヴィントシャイトさんは、1856年に、「訴権」に代わるものとして、「請求権」という実体上の概念を発明しました。」(p25)
 「民法は、みなさんが思っているのとは異なり、裁判官を名宛人として、裁判官が裁判をするときの規準を示したもの(=裁判規範)なのです。民法の中には、裁判でなければ行使できない権利もあります(民法424条)。」(p66)

 爆売れ中のこの本は、「コラム」の部分もなかなか奥が深い。
 引用した記述によれば、岡口判事は、請求権について、「訴権に近づけて考える考え方」(奥田昌道「ドイツ民法学における請求権理論について」p94「請求権の訴権ないし訴訟的把握」)を採用しているように思える(ちなみに、民法424条の詐害行為取消権の起源は、パウリアーナ訴権(actio Pauliana)である。)。
 だが、この「訴権」について、民法や民事訴訟法の教科書で、十分納得のゆく定義を示しているものは驚くほど少ない(と思う)。
 例えば、我妻榮「民法講義」や原田慶吉「ローマ法」などを見ると、いきなり「訴権(actio)」という言葉が出て来る感じであり、比較的詳しい新堂幸司「新民事訴訟法」でも、「個人が訴えを提起して裁判を受けられる関係」、結論として「訴えの利益や当事者適格を要件として成立する本案判決を求める権利」とされていて、何だかモヤモヤ感が残る。
 「訴権」というのは、定義しがたい概念なのだろうか?
 おそらく、そうなのだろう。

 「民事訴訟,したがって法,は,占有原則が懸からなければ出動しない。出動するときには政治システムを背景に創造的に働く。法律家ならが「形成的に」と言うかもしれない。これらのことから,訴権 actio という形式が生まれる。発動の可能性が具体的に開かれたとき,発動推進の行為を指すが,その可能性を前にして,具体的な個人が保持していると概念される。占有の問題は必ず個人に関わるからである。」(p117)

 木庭先生によれば、占有原則(この意味については譲渡担保を巡るエトセトラ(8)をご参照)が懸かる状況においては、民事訴訟・法が発動する可能性が開かれることとなるが、その発動推進の行為をもって「訴権」と呼ぶということのようである。
 ところが、ヴィントシャイトによって代表される19世紀ドイツ法学による訴権の「克服」によって、占有原則の観点が希薄化してしまったらしい。
 こうした「請求権思考」は、場合によっては危ない話になる。
 どういうことかというと、占有原則の観点が欠落してしまうと、極端な例(端的な実力行使のケース)では、ロシアがウクライナの領土に侵攻したときに、「権原」(「原因」)に基づく言い分(NATO拡大に対する「自衛権」の行使など:
Explaining the Causes and Consequences of Putin’s Invasion of Ukraine with Mike McFaul 1:50~)に、「一応耳を傾けなければならない」ということになりかねない。
 これに対し、「訴権思考」だと、実力行使に対しては、占有判断の時点で「権原」(「原因」)に基づく言い分(マイケル・マクフォール氏いわく「ロシアの disinformation」)は斥けられ、本案審理に入る必要はないことになるだろう(この点で、訴権と「訴えの利益」や「当事者適格」との関係を挙げた新堂先生はさすがに鋭い。)。
 こういう風に考えてくると、「請求権思考」というのは、ドイツかぶれの一種なのかもしれないという気がしてくる。
 そう言えば、ドイツ国歌では"Recht" (正義、権利)が ”Freiheit”(自由、要するに占有)の前に出てくるが、これも「請求権思考」の一つのあらわれなのだろうか?
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脱出出来ない

2023年01月29日 06時30分25秒 | Weblog
水ダウ、名探偵津田の活躍に沸く 番組Dは「津田一択」の期待 続編ほぼ決定か
 「25日にTBS系で放送された「水曜日のダウンタウン」では、ダイアン津田篤宏が「犯人を見つけるまでミステリードラマの世界から抜け出せないドッキリ」のターゲットに。ラストの警察官が続編が決定的な言葉を残し、ネットも沸いた。」

 今回は神回といってよく、私も腹を抱えて笑ってしまった。
 この種の「問題を解決するまで脱出出来ない」設定は、ほかにも結構あると思う。
 例えば、誰しも経験があると思うが、悪夢の中で、「これは夢だ」と気付きながらも、抜け出す方法が見出せないというもの。
 法曹で言えば、おそらく多くの人が、「試験の夢」を経験しているだろう。
 典型的なのは、既に合格しているのにまた司法試験を受けており、問題が難しくて解けず、時間がどんどん過ぎていく、というパターンである。
 途中で「これは夢だ」と気付くが、試験会場から脱出することも出来ず、気付いたときには目が覚めている。
 もしかすると、夢の中で何とか脱出して解決しているのかもしれないが、起きたときにはその間の記憶が失われてしまうのかもしれない。
 次に見る夢では、出来れば津田さんに登場していただき、会場から無事に脱出させてもらいたいと思う。
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未完成の理由

2023年01月28日 06時30分53秒 | Weblog
東京フィルハーモニー交響楽団 2023シーズン定期演奏会(1月) シューベルト 交響曲第7番
 「第2楽章の第1主題は、調も節まわしも、『冬の旅』で束の間の陽光を放つ「菩提樹」の囁きかけと同じだ。まもなく孤独なさすらいが回帰するも、光の主題がこれを包み込んで終わる。つまりこの楽章は、“光による歌の回復”を描いている。
 「永遠なる至福の世界が、一挙に、まるで瞬間のうちに押しよせてくるのを僕は感じた……」。自筆メルヒェン(1822年7月3日)のラストは、第2楽章を言葉にしたものだろう。文学と音楽、歌曲と器楽のあいだで心情をまっすぐに吐露した人―それがシューベルトという作曲家である。
」(p4)

 シューベルトの交響曲第7番「未完成」が第2楽章までで終わっている理由については諸説紛紛としているわけだが、私見では、第2楽章に「菩提樹」のモチーフが取り入れられている点が大きなヒントであるように思う。
 ということで、「菩提樹」の解釈が必要となる。

ドイツ・リート名詩百選
 "Komm her zu mir, Geselle, Hier findst du deine Ruh’!"(「ここへおいで、若者よ、ここにお前の憩いがある」と)
 「deine Ruh’ 「おまえのいこいを」ここでは死を意味している。」
(p142~143、p225)

 この詩については、トーマス・マンが「魔の山」の中で分かりやすく解説してくれているが、第4連の"Ruh"(憩い)が「死」を意味している点が重要である。
 つまり、シューベルトは、本来終楽章で使うべきこのモチーフを第2楽章で使ってしまったために、先を続けられなくなったと考えることが出来るのだ。
 強引に続けようとすれば、「復活」のモチーフを捻出するくらいしかないだろうが、それは難しいだろう。
 こういう風に、ドイツ・リートの解釈は結構面白い。
 例えば、続く第5連の「帽子」の意味もそうだ。

 ”Die kalten Winde bliesen Mir grad’ in’s Angesicht, Der Hut flog mir vom Kopfe, Ich wendete mich nicht.”
 つめたい風が 私の顔にまっすぐに吹いてきて 帽子が頭から飛び去った でも私は振り向かなかった


 「帽子」は、冷たい風(生きていくうえで経験するさまざまな困難や逃れがたい運命)から私を守るものであるが、やがて風が私から奪っていくものである。
 なので、「帽子」は、私を庇護してくれるが、やがて失われる運命にある人物、つまり「両親」と解釈できるのだ。 
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決め手(2)

2023年01月27日 06時30分14秒 | Weblog
両者ほぼノーミスの神局 王将戦第2局が美しすぎる! 羽生善治九段 VS 藤井聡太王将 (第72期ALSOK杯王将戦七番勝負第2局 主催:毎日新聞社、スポーツニッポン新聞社、日本将棋連盟)
 「羽生九段は、ここから、『1四角と、非常に狭いところに角を打って、攻めを繋いでいきました。」(2:38~)

 53手目・先手羽生九段の「1四角打」が決め手と思われる。
 ということは、50手目・後手藤井王将の「4五銀」が敗着ということになるものと思われる。
 ここでは、平凡に、「8四歩」と桂馬を取りに来る手で良かったのだろう。
 第一局の決め手は、藤井王将の常識では考えられない・意表を突く手だったが、第二局の敗着は、「凡手を避けた」ところにあったようだ。
 つくづく将棋は難しい。
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我妻先生、立たされる

2023年01月26日 06時30分49秒 | Weblog
昭和の風景「我妻栄先生を迎えて」
 我妻先生の孫「おじいちゃまは、小学校で、部屋の中を騒ぎまわって、立たされてたんだそうだね?」(4:52付近)

 ボ2ネタに挙げられていた我妻先生の動画で、ビックリする発言があった。
 我妻先生は小学生のころ、同級生に教えるのが大好きだったそうで、その際の会話で騒がしい状況が生じることもあったそうだ。
 それを見た教師が、「我妻、立ってろ」と言って、教室の隅に立たされることがあったらしい(なので、我妻先生は、注意欠陥多動性障害(ADHD)のために騒いでいたわけではない。)。
 だが、ここで思うのは、こういう懲戒は、現在では果たして許さるのだろうかということである。
 「野比!廊下に立っとれ!」ちょっと待って先生!それ、ダメかも?(弁護士法人ALG&Associates)で引用されている通達(昭和23年法務庁(現法務省)通達)は、以下の通り。

 「児童を教室外に退去せしめる行為については、【中略】、懲戒の手段としてかかる方法をとることは許されないと解すべきである。ただし児童か喧騒その他の行為によりほかの児童の学習を妨げるような場合、他の方法によってこれを制止し得ないときは、-懲戒の意味においてではなく-教室の秩序を維持し、ほかの、一般児童の学習上の妨害を排除する意味において、そうした行為のやむまでの間、教師が当該児童を教室外に退去せしめることは許される。

 これは、「教室外に退去せしめる行為」は原則として許されないとするもので、これを反対解釈すると、「教室の隅に立ってろ!」というのは、現在も許容されるということのようだ。
 
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怖くないジャパン

2023年01月25日 06時30分15秒 | Weblog
【WBC】栗山監督が腐心する史上最強侍のキャプテン問題 最適任はダルビッシュだが…
 「ここに千賀まで加われば「史上最強軍団」がさらに最強となるわけだが、その一方で〝難題〟も発生している。侍関係者の間から「これだけのメンバーをまとめ上げるキャプテンの選考は、かなり難しいのでは」との声が早くも飛び交っているからだ。

 私の見たてでは、栗山監督は、ある病気に冒されているようだ。
 病名は、「怖いニッポン」病である。
 それをはっきり示しているのが、かつての”キャプテン”候補だった坂本勇人選手についての、栗山監督の次の発言である。

 (栗山監督は)「代表選考は白紙を強調する。そんな中、WBC開催時は34歳、来季35歳シーズンを迎える巨人・坂本には特別な思いがある。
 「日本球界を支えてくれる、魂を持って、チームのために自分が死んでくれるという信頼感と尊敬が抜群にあるのは間違いない」
」(さらば、昭和の鬼たちよ(2))。
 
 栗山監督は、「チームのために自分が死んでくれる」キャプテンを熱望していたのである。
 だが、坂本選手の出場辞退により、彼を侍ジャパンのキャプテンに据える目論見は潰えた。
 それだけでなく、坂本選手は、どうやら「チームのために自分が死んでくれる」タイプの人物ではなさそうなことも、ほぼ明らかになった。
 というのは、坂本選手は、「我ら誇りある立ち居振る舞いを」という巨人軍の(集合的)超自我(「我ら」=「超自我」と考えると分かりやすい)の指示に従うのではなく、自身の欲望に忠実に生きるタイプの人物のようだからである。
 ちなみに、私の見る限り、侍ジャパンのメンバーの中堅・ベテランで「チームのために自分が死んでくれる」タイプの選手は、今のところ見当たらない。
 なので、おそらく今回は、「怖いニッポン」と言われなくて済むのではないだろうか?
 
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加藤周一10万人計画

2023年01月24日 06時30分26秒 | Weblog
『日本文学史序説』補講 加藤 周一 著
 大江健三郎「加藤さんは、東京での1945年の希望に、真剣に向き合い続けた人です。チェコで新しい運動が起これば、強い共感を寄せながら、日本のことも考える、こういう人を誇らしい日本人、世界的な人、本当の知識人だと思います。私はその人を記憶し続けたい。新しい加藤周一が次つぎ現れる、まず若い加藤周一読者が10万人生じてそれを準備するのが、私の希望です。」(p342)

 「新しい加藤周一氏」が沢山生まれれば、確かに日本はより良くなるかもしれない。
 こういう風に、大江先生は加藤氏を手放しで礼賛するけれども、懸念が全くないわけではない。
 個人的には、加藤氏の、「作品ではなく、作者を”全否定”する」かのごとき言説(愛情なき辛口など)は、やや危険だと思う。
 もちろん、加藤氏の真意は、その時代時代の「多数派」を形成している(病んだ)思考に対する批判にあったのかもしれない。
 だが、例えば、次の加藤氏の言説を見ると、どうやらそれは怪しい。

 「19世紀半ばの福澤にとってナポレオンの戦争はわりに近い話でした。ナポレオンは最後のロシア攻撃で敗けましたが、それまでは連戦連勝です。コルシカから出て来た身分の低いナポレオンが戦えばかならず勝った。どうしてなのか。司馬[遼太郎]さんが書けば軍事的天才になるでしょう(笑)。」(p237)

 またしても司馬遼太郎批判だが、ここでイメージされている司馬作品は、おそらく「竜馬がゆく」などだろう(台所からキッチンへ(11))。
 つまり、加藤氏がやり玉に挙げているのは、登場人物の超越的・神秘的な”天才”によってすべてを説明してしまうような思考、要するに権威主義・神秘主義に連なる思考なのだろう。
 だが、司馬作品の中には、そうではない、例えば、何度か挙げた「殉死」のような小説もあるし、何より、「だって、史実ではなく、小説(フィクション)なんだから」。
 なので、私としては、「新しい加藤周一」は、もうちょっとマイルドな人物であって欲しいと思う。
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20年ののち

2023年01月23日 06時30分21秒 | Weblog
SDGsって何だろう?
 
 しばらく前から”SDGs”という言葉をよく聞くようになったが、個人的には強烈な違和感を覚える。
 というのは、20年ほど前、私は、アメリカの大学院で「持続可能性の経済学」などを学び、環境行政学の修士号を得て就職活動を行ったものの、大半の企業・機関は「「サステイナブル・ディベロップメント」って何よ?」という反応だったからである。
 なので、「何を今さら?」という感がぬぐえないのである。
 さて、私が履修したプログラムだが、10年ののち、科目はほぼ維持されていた。
 それでは、20年ののち、どうなっただろうか?

M.P.A. in Environmental Science and Policy

 カリキュラムがかなり変わった。
 夏学期を見ると、自然科学系の科目が大半を占めるところは変わっていない。
 但し、HYDROLOGY、ECOLOGYなどは(内容はともかく)新出の科目となっており、他方、人口学が消えている。
 秋学期のSUSTAINABILITY MANAGEMENT、QUANTITATIVE TECHNIQUES AND SYSTEMS ANALYSIS IN POLICY MAKING、MICROECONOMICS AND POLICY ANALYSIS I AND II(シラバス)などもほぼ変わっていない。
 最後に挙げた科目の中に「持続可能性の経済学」が含まれているようである。
 Pindyck and Rubinfeld. Microeconomics. 8th edition.がテキストとされているところからして、文科系学部の出身者は結構苦労をしそうな気がする。
 数学(とはいえ日本で言えば高校レベル)に弱い人が多いアメリカ人は、毎回出される課題 ”problem, set” に悪戦苦闘するのである。
 ”SDGs”というスローガンを叫ぶのであれば、まず、自然科学(気象学、化学、エコロジーなど)やミクロ経済学を勉強する必要があるのかもしれない。
 
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質の低下?

2023年01月22日 06時30分26秒 | Weblog
「使えない弁護士」が珍しくなくなった根本背景 かつては合格率3%、今や3人に1人が受かる構造
 「「英語や外国法の教育も結構だが、民法など基本法の判例や条文などの基礎知識がとにかく不足している。事案を見ても、どの条文のどの論点の話なのかがわからない。これでは仕事にならない」。九州の若手弁護士はそう苦言を呈する。

 「弁護士の質の低下」が指摘されて久しい。
 かくいう私も、「1500人合格時代」の人間であるため、この問題についてコメントする資格はないのかもしれない。
 だが、訴訟で対峙していると、相手方代理人の弁護士としての”質”は分かりすぎるくらい分かってしまうのだ。
 そこで、この1年で経験・見聞した事案を振り返ってみたい。
① 若手(登録10年未満)のケース
 ある離婚事件(私は被告代理人)で、和解が成立したので、今後の手続について原告代理人と打ち合わせしようとしたら、「区役所への離婚届は被告さんの方でやって下さい」と言ってきたので、驚いてしまった。
 おそらく実務(特別な場合を除き、原告・申立人が届出を行う)を知らないのだろうが、裁判官から丁寧な説明をしてもらって、何とか収まった。
 これは、端的に実務を知らない(教えてくれるボス弁や兄弁がいない)という問題かと思われる。
② 中堅・ベテラン(10~30年程度)のケース
 中堅・ベテランの横領事案が多い。
神戸地裁で和解金着服事件初公判 被告弁護士が起訴内容認める
 「芦屋市の弁護士、堀寛被告(58)は、相続財産の分割をめぐる民事手続きで、依頼者の相手方から受け取った和解金などあわせておよそ510万円を着服したとして、業務上横領の罪に問われています。
 これは”質”というよりもモラルの問題ではないかと思われる。
③超ベテラン(30年以上)のケース
 ある民事事件(私は原告代理人)で、被告代理人(80代、昭和40年代に弁護士登録した超ベテラン)が、こんな準備書面を出してきた。
 「民法701条は645条から647条までの規定を引用しているものの、644条は準用していない。したがって、事務管理者は善管注意義務を負わない。
 これは誤りで、正しくは、民法698条を反対解釈すれば、急迫の危害を免れさせるためではない事務管理については、管理者は、善管注意義務(第644条)を負うと解されている。
 つまり、被告代理人は、条文解釈の段階で間違っているわけである。
 これは、”質”の低下というよりも、条文・教科書レベルの知識の欠如というべきだろう。
 それにしても、「我妻暗記世代」にあってもこうした知識がスッポリ抜けている(ちなみに、「事務管理・不当利得・不法行為」ではちゃんと事務管理者の善管注意義務について論じてある)というのは、「忘却」という可能性も考えられる。
 こういう風にみてくると、「質の低下」という言葉で一くくりに論じることには、問題があると思うのである。
 
 
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