Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

7月のポトラッチ・カウント(4)

2024年07月23日 06時30分00秒 | Weblog
② 伏見稲荷鳥居前の場
 いわゆる「鳥居前」で、静御前が主役である。
 義経は、正妻:卿の君の存在がありながら、愛人=静御前を囲っていたのである。
 「私もついて行く!」と義経との同行を願い出る静御前を、義経の家来:駿河と片岡は鼓の調べ緒で梅の木に括りつけ、放置して鳥居に戻って行く。
 後先考えない放置プレーである。
 そこに敵方が現れ、静御前を拉致しようとするが、これは当然予測出来た展開。
 これまた予測通り、そこに突然佐藤忠信(團十郎)が現れ、静御前を救うと、タイミングよく登場した義経は、忠信に「源九郎義経」という「姓名」と着用の着長(きせなが)を褒美として与える。
 このあたりに来ると、既に出て来た「初音の鼓」と、この段で出て来る「源九郎」という2つの贈与対象物が、この物語の鍵を握っていることがうすうす分かる。
 注目すべきは、「イエ」制度の中核的構成要素である「名」が、何と贈与の対象とされていることである。 
 どうやら、共通のゲノムを承継していない者であっても、「イエ」の構成員になることが出来るということのようだ。
 もしそうだとすれば、それまでの「ゲノム中心主義」からの変容が生じていることが推測出来そうである。
③ 渡海屋の場
 今度は平家のメンバーが登場。
 船問屋「渡海屋」に主人:渡海屋銀平は知盛が町民に身をやつしたものだが、ここに義経主従が逗留している。
 義経らを匿ったのは、何と銀平こと知盛である。
 ここで観客は、
 「何でさっさと義経たちを殺しちゃわないんだ?千載一遇のチャンスだろ?
と思うはずだが、知盛らの真のターゲットは頼朝であり、義経は、頼朝の所在を掴むため、「泳がされていた」ようだ。
 「渡海屋」を後にした義経らを、知盛らは怨霊に見せかけるため白装束姿で追っていく。
 このあたりも、現在の観客には分かりにくいだろう。
④ 渡海屋奥座敷の場
 銀平の子:お安は実は安徳帝、銀平の妻を装っていたのは安徳帝の乳母の典侍の局だった。
 そこを入江丹蔵(團十郎)が訪れ、知盛の計略は義経に察知されており、味方は敗北したと告げ、追手の武士を道連れにして海へと身を投げる。
 おそらく、この演目の登場人物中、登場してから死ぬまでの時間が一番短いのは彼だろう。
 主君を守るため丹蔵が犠牲になったため、ここでポトラッチ・ポイント5.0:★★★★★を計上。
 典侍の局も安徳帝を抱いて入水しようとするが、弁慶らに捕らえられる。
⑤ 大物浦の場
 満身創痍の知盛の前に、安徳帝らを伴った義経が登場。
 知盛は義経に討ちかかろうとするが、安徳帝は、
 「長々の介抱はそちが情け、今また我を助けしは、義経が情け。仇に思うな、これ知盛
と諭し、何と義経側についてしまう。
 これを聞いた知盛は、
 「恨み晴らさず。昨日の敵は、今日の味方
と述べて義経らに安徳帝の守護を頼み(!)、身体に碇綱を巻き付けて、壮絶な最期を遂げるところで序幕が終わる。
 安徳帝のため必死で戦ってきた知盛の努力は、安徳帝が義経に籠絡されたことにより、水泡に帰したかのようだ。
 まるで、社長交代で経営方針が180度変わってしまい、それまでの努力が無駄になってしまったカイシャの営業マンを見ているようだ。
 ここで、安徳帝を守るため知盛が命を捧げたことにより、ポトラッチ・ポイント5.0:★★★★★を計上。
 
 
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7月のポトラッチ・カウント(3)

2024年07月22日 06時30分00秒 | Weblog
 「発端と序幕の間には、柿色に三升の紋の裃姿で登場(これも早替り!)。舞台に大きく映し出された人物相関図を背に、『義経千本桜』のあらすじを解説する。
 再興を目指す平家の残党、源頼朝の追っ手から逃げる義経一行、それを取り巻く人々……。立役、女方、若衆から老け役まで團十郎が勤める13役は次の通り。
 左大臣藤原朝方、卿の君、川越太郎、武蔵坊弁慶、渡海屋銀平実は新中納言知盛、入江丹蔵、主馬小金吾、いがみの権太、鮨屋弥左衛門、弥助実は三位中将維盛、佐藤忠信、佐藤忠信実は源九郎狐、横川覚範実は能登守教経。

 七月大歌舞伎・昼の部は、「義経千本桜」のダイジェスト版で、團十郎が十三役早替り+宙づりの大活躍を見せる「星合世十三團」。
 2019年初演から5年ぶりの再演だが、歌舞伎初心者や外国人の方にも楽しめるよう、上に引用したような分かりやすい解説が付いている。

(1)発端 福原湊の場
 「発端は、満月の福原湊。定式幕が開くと壇ノ浦で散ったと思われていた平家方の猛将・能登守教経(團十郎)が圧倒的な迫力で登場。拍手や大向こうの余韻も冷めぬうちに、花道から高貴な身なりの平維盛(團十郎)が逃げのびてくる。美麗な貴公子のピンチを、あわやというところで救うのは着物の裾に波の模様の頼もしい男、渡海屋銀平、実は平家の名将・新中納言知盛(團十郎)だ。
 
 おそらく、観客にとってはここが一番分かりづらい。
 今回の公演では、この後スクリーンに人物相関図が現れて説明がなされるのだが、こうした図を筋書きにも入れて欲しいものである(国立劇場の文楽のプログラムだと、複雑な演目ではだいたい人物相関図が入っている)。 
 教経、維盛、銀平こと知盛の3人(全員團十郎)が次々と登場するが、現代の観客の殆どはこの3人の関係を知らない。
 なので、平家略家系図のような図は必須だろう。 
 教経は清盛の甥であると同時に、出家した(ていの)維盛の叔父、町民に身をやつした知盛は維盛の伯父、という関係にある(たぶん)。
 既に死んだと思われていたこの3人が実は生きていた、というのが「義経千本桜」における斬新な発想とされているわけである。
 この時点でうすうす分かるとおり、「平家再興」つまり「お家存続」がこの物語の中心的なテーマとなっている、というか、そのために作者はわざわざ史実をつくり変えたというのが真相だろう。

(2)序幕
 ① 堀川御所の場
 ここは、原作である文楽の「堀川御所の段」をだいぶん改変、というか簡略化してある。
 突然、左大臣藤原朝方(團十郎)と義経(梅玉は体調不良のため松也が代役)が登場。
 朝方は平家討伐の恩賞として「初音の鼓」を与え、これが後白河院(昔から清盛の父ではないかとよく言われている)の院宣だと告げる。
 これは、頼朝を「打て」(=「討て」)というメッセージだという(現代の観客にすんなり伝わるか疑問ではあるが・・・。)。
 筋書の解説では、これを聞いた義経は、「後白河院への「忠義」と、兄頼朝への「孝心」との間で板挟みとなる。」とあるが、この説は、小学6年の社会科の教科書でも取り上げられているようだ(源頼朝は、なぜ義経をたおしたの)。
 これに歌舞伎(文楽)では、義経の正室:卿の君の問題が加わる。
 卿の君は、平時忠の娘であり、義経が平氏の血を引く女性を妻にしたことが、頼朝の疑いを招いたという設定である。
 鎌倉方の上使である川越太郎(團十郎)は、義経に対し、卿の君を討ち、その首を差し出して疑いを晴らすよう告げる。
 とんでもないポトラッチの提案である。
 この様子を聞いていた静御前は「御台様(卿の君)の身代わりに!」と自ら申し出、歌舞伎ではお馴染みのポトラッチ合戦が始まる。 
 案の定、卿の君は自身に刃を突き立てた状態で現われ、義経に介錯を頼むが、そこに川越が割って入る。
 川越は、実は卿の君が、平家の姫との間に設けた自分の娘であると明かす。
 「他人にあらぬ。父の介錯、迷わず成仏してくれよ。親子の名乗りが、親子の名残り
と述べて、卿の君の首を斬り落とす。
 結局のところ、歌舞伎(と文楽)では頻出の、「ポトラッチとしての子殺し」であった。
 ところがそこへ、鎌倉方の討手の土佐坊昌俊を相手に、武蔵坊弁慶が討って出たことが知らされ、卿の君の命は無駄に失われたことが判明する。
 ここまでのポトラッチ・ポイントは、義経を守るため卿の君が犠牲となったことから、5.0:★★★★★。
 
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7月のポトラッチ・カウント(2)

2024年07月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「都の僧が東国を目指し、美濃国・赤坂にさしかかると、一人の僧が現れ呼び止め、今日はさる者の命日なので弔って欲しいと頼みます。一体誰を回向するのかと問うと、その名は明かさず、自分を庵に案内します。
  庵の中は仏像とてなく、ただ長刀や武具があるばかり。その訳を尋ねると、この辺りは山賊・夜盗が多く出没し、助けを求める人々のため長刀を携えて駆けつけるのですと答え、それは仏のみ教えにも適うことと言って、寝室へ姿を消すと見るうちに、不思議なことに辺りは一面の草むらとなり、松の木の下に世を明かすのでした。
  やがて弔う僧の前に、長刀を担いで熊坂長範の霊が現れます。その熊坂こそ弔いの主だったのです。
  奥州へ下る金売り吉次一行に夜討ちをかけた熊坂は、逆に一行の中いち牛若丸(後の源義経)に討たれてしまった最期を詳しく語るのでした。」 

 前半で登場する土地の僧は、面をかぶらない状態で登場する。
 シテが面を使用しないという、珍しい例である。
 この僧(実は熊坂)が、
 「さる者の命日にて候。とぶらひて賜り候へ。
と回向を所望するが、旅の僧は、
 「誰と名を知らで回向はいかならん。
と難色を示す。
 ここで入る地謡のセリフは驚くべきものである。
 「御弔ひを身に受けば、御弔ひを身に受けば、たとひその名は名のらずとも、請け喜ばば、それこそ主よありがたや。
 回向の対象となる人物の「名」は関係ないという。
 これは、作者不明とされるこの作品の成立当時、「名」を中核的要素とする「イエ」はまだ制度として確立していなかったことと関係があるのかもしれない(あくまで推測)。
 さて、70余人の盗賊のトップである熊坂だが、子分のうち13名余りを、牛若子(牛若丸)に殺された。
 とはいえ、熊坂本人が狙われたのではないので、そのまま逃げれば命は助かったのだが、彼はそうしなかった。
 いったん退散しようとしたものの、思い直し、
 「討たれる者どもの、いで孝養に報ぜん
として牛若子に立ち向かい、逆襲に遭う。
 つまり、熊坂は、子分たちの霊の孝養のために、心ならずも犠牲となったのである。 
 というわけで、「熊坂」のポトラッチ・ポイントは、熊坂が子分たちの霊のために犠牲になったことから、5.0:★★★★★。
 ところで、この作品について、作者の意図がどういうものであるかは、観ている人にはすぐ分かったと思う。
 ポイントは、牛若子が、ただ強いというだけでなく、捕まりそうになると上にジャンプして見えなくなったり(!)、姿が見えていて両手でつかんだけれども実はそこには居なかったり(!)という、まるで「何でもあり」の展開になっているところにある。

 「わたくし、考えますに、
この謡曲の作者は「牛若丸はすごかった!」ということを表現したかった。
牛若丸が秀でた勇ましい武者であったというエピソードが作りたかったわけです。
 そのために敵役をどうするか。
(中略)
 しかし、実在の人物の中では、しっくりくる者がいない。作者は考えた挙句、日本中より腕利きの賊70余人を集合させ統率できた大盗賊「熊坂長範」なる人物を創作したのではないでしょうか。敵は大勢にして大物であればあるほど物語は盛り上がりますしね。
 さらに、そんな大盗賊を登場させる舞台として近江・鏡はあまりに都から近すぎる、と考えたのではないでしょうか。都の中央政府の目の届きにくい、権力の及びにくい地の方が、得体の知れない恐ろしい者が出現してもいいように思えます。
 それに牛若丸が戦う舞台が都から離れているほうが、彼の健気さや孤独さが引き立ちます。逆境を乗り越えて旅をしているという悲劇性も増しますからね。
 そういうことで、東海道と中山道の交わる要所、美濃国西部地方を選びました。
 ここなら都からある程度遠いし、人の往来が多いから盗賊が現れやすい。
 それに、平治の乱に敗れた父・源義朝が逃れた地でもありました。「赤坂」の隣の宿地「青墓」では兄・朝長が命を落としています。源氏にとって悲劇の地。
 だからこそ、その地で、牛若丸を大活躍させたくなった・・・のではないでしょうか。
 
 なかなか鋭い分析である。
 このことから、この能をどう観ても牛若子の「強さの理由」が全く明らかにならない理由が分かる。
 つまり、作者の言わんとしたことは、
 「清和源氏は天皇家の血筋を引いている。だから義経は幼少の頃から強かったんだ!
に尽きると思う。
 明示的には述べていないものの、作者は、牛若子の強さを「血」(ゲノム)の超越的な力に帰してしまっているわけである(”変身譚”の終焉)。
 この種の物語については、「進撃の巨人」によって”駆逐”される流れになって欲しいというのが、私の願いである。
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7月のポトラッチ・カウント(1)

2024年07月20日 06時30分00秒 | Weblog
体験コーナー 
※ロビーに能・狂言の面装束体験コーナーを設けます。事前申込不要。
プレトーク  観世喜正(シテ方観世流)
狂言 附子(ぶす) 野村太一郎(和泉流)
能  熊坂(くまさか) 遠藤和久(観世流)
※能と狂言をコンパクトにお楽しみいただく公演です。
※体験コーナーに関するお問い合わせ:国立能楽堂企画制作課(03-3423-1331・代)
 *字幕あり(日本語・英語・日本語現代語訳)

 「ショーケース」というのは、能・狂言の初心者や外国の方向けにわかりやすく工夫した設定という意味をあらわしているようだ。
 ちなみに、字幕がある能楽堂は、日本ではこの国立能楽堂だけらしい。
 客席はほぼ満席で、外国の方も結構いらっしゃる。
 演目も、分かりやすい定番のものが選ばれているようだ。
 というわけで、まずは狂言「附子」。
 現在、狂言は小学6年の国語で学ぶことになっているが、「附子」ではなく、「柿山伏」などが取り上げられているらしい。

 「ある家の主人が、用事ができたので山の向こうへ出かけることになりました。
その際、主人は太郎冠者と次郎冠者に葛桶を見せながら
「これは猛毒だ。桶を通り過ぎた風に当たっただけで死んでしまう恐ろしい附子が入っているので、十分に気を付けて留守番をするように」
と言い付けて出かけて行きました。

(中略)
猛毒だと聞いていた附子ですが、どうにも美味しそうな物に見えた太郎冠者は一口食べ、そして叫びました。
なんと中に入っていたのは猛毒ではなく、お砂糖だったのです!
そうと分かれば次郎冠者も食べたくて仕方ありません。
奪い合うようにお砂糖を食べた結果、桶の中はあっという間に空っぽになってしまいました。
しかし、あれだけ主人に厳しく言われていたのにもかかわらずお砂糖を食べてしまった事がバレたら大変です。
主人が帰ってきたら謝ろうという次郎冠者ですが、一方の太郎冠者には妙案がありました。
なんと2人は主人が大切にしている床の間の掛け軸を破り、さらには家宝の天目台(茶碗を乗せる台)を木っ端微塵に割るのです。

(中略)
用事から帰ってきた主人は、大泣きしている2人と無残な品々を見て、どうしたのかと事情を問います。
すると2人はこう答えました。
「留守番中に寝ないよう相撲をしていたら、掛け軸と天目台を破壊してしまった。死んで詫びようと附子を食べたがついに死ねなかったのです」

 ここでのポイントは、太郎冠者と次郎冠者が「死んで詫びようと附子を食べた」という点である。
 「主人が受けた損害を償うため、使用人が自らの命を奉げる」というのは、封建制下における典型的なポトラッチであるが、太郎冠者はこれを逆手にとって、「掛け軸と天目台を破壊したことへの代償として、自らの命を捧げる」という、”偽ポトラッチ”を演じて見せた。
 これが、自分たちを信じようとしない主人への反撃であることは言うまでもない。
 というわけで、「附子」におけるポトラッチは偽物なので、ポトラッチ・ポイントはゼロ。
 
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”獅子”からの変身、あるいは乗り遅れた人たち

2024年07月19日 06時30分00秒 | Weblog
 「2022年11月、斎藤知事が公務出張で訪れた同県上郡町の町長から、特産品であるワインについて話が出た際に「まだ飲んだことがないから味がわからない。飲んでみたい」「折を見てお願いします」と、知事からワインの贈呈を“おねだり”する内容があったことを明かしていた。  
 また、斎藤知事が2023年9月、同県丹波市の事業所を視察した際、事業所が製作した、売りものでない木製の椅子とサイドテーブルを持ち帰っていたことも明らかになっている。

菊池「別に目標があって辞めるわけではなく、もっと漠然としたものでしたから、周りの人から見れば、なぜバレエ団に名前を残さなかったのかと思われたかもしれません。・・・ぼくは十六歳のときからバレエ団にお世話になってきました。牧阿佐美バレエ団はすごく歴史のあるところですから、時代を作り上げてきた方々のなかに、ポッと出で入った十六歳のぼくができることと言ったら、カンパニーにずっと居続けて、すべての知識、すべての技術、すべての時間を受け入れ続けることだったんです。・・・だから、バレエ団を離れても名前を残させていただいてやっていくというのは、そういう自分から一度離れてという自分のなかの考えとは違ってしまう。」(p79)

 ニーチェ先生によれば、人間の精神が自由を獲得して創造へと向かう過程は、”駱駝”→”獅子”→”幼子”という3つの段階に分かれる(三段の変化 )。
 私見では、斎藤知事も菊池さんも、現時点では”獅子”の段階にあると思える。
 現在の日本の若い世代(とはいえ、おおむね50代以下)は、実は、世界のトレンドからまるごと取り残されている(最後の棒倒し(10))。
 なので、斎藤知事も菊池さんも、世代的には「乗り遅れた人たち」に属している(おそらく、二人とも海外留学や海外勤務の経験がないのでは?)。
 敏感な人であれば、こういう「乗り遅れ」を生み出した原因であると同時に「乗り遅れ」の結果でもある日本の国家・社会の問題に気づくだろう。
 問題の最たるものが、(伝統的なイエ原理に根差した)集団志向・集団思考であり、これを逃れようとすれば、斎藤知事が総務省を退官したように、あるいは菊池さんが牧阿佐見バレエ団を退団したように、いったん組織(イエ)との縁を切る(出家!する)しかない。
 この状態が、はた目には”獅子”のように見えるわけである。
 だが、問題はその後である。
 ”出家”が中途半端であり、依然として別の「組織」(イエ)に入ってしまう人物の中には、今度はその「組織」(イエ)の中で頂点に立ち、構成員を「支配する」ことを目指すような人がいる。
 こうして、”獅子”は”幼子”になることに失敗し、より悪質な”獅子”(あるいは”恐竜”となる。
 ・・・なので、私は、菊池さんには、ぜひ”幼子”に変身してもらいたいと思うのである。
 亡くなった元県民局長に合掌。
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コントラストと成功請負人

2024年07月18日 06時30分00秒 | Weblog
 「1998年に新国立劇場で『セビリアの理髪師』を指揮した時もオーケストラと合唱団は素晴らしかったのですが、今回の『リゴレット』ではそのレベルの高さに驚きを隠せませんでした。私たちイタリア人指揮者は、イタリア・オペラの演奏をよく知るオーケストラに慣れていますので、その点を少し心配していたのですが、杞憂でした。
 「私が特に愛している場面は、第1幕のフィナーレです。プッチーニが作り出したコントラストはまさに天才的です。スカルピアはモノローグで、独りよがりな色欲により、狙った女性をサディスティックな悪の手口で征服しようとする意志を歌います。その後ろでは、合唱が神を讃える「テ・デウム」を歌っています。俗と聖の対比、悪と善の対比、無信心と宗教心の対比です。非常に距離のある2つの心情であり、それを表現する鐘の音、オルガン、合唱など様々な音色に感情をひどく揺さぶられます。その瞬間は素晴らしいの一言です。

 ベニーニ氏は、「リゴレット」の時も素晴らしかったのだが、指揮者の能力が素人にもはっきり分かる典型例だと思う。
 音符や作曲家の意図が、ベニーニ氏の手と体の向き・動き、息遣いなどによって”可視化”されており、明確にメッセージが伝わるのである。
 もちろん、尾高先生によれば約10日間の準備期間でラフマニノフの交響曲1番を仕上げたという(曲の生い立ち)、東フィルの団員さんの力も凄い。
 さて、「トスカ」について、ベニーニ氏は、やはり1幕フィナーレの「テ・デウム」をお気に入りの場面として挙げている。
 私がこれまで観た/聴いた中で最も素晴らしかったのは、ブリン・ターフェルがスカルピア役を演じた2023年の東京春音楽祭の「トスカ」である(パクリ疑惑)。
 ベニーニ氏も指摘するように、「テ・デウム」を含め、「トスカ」の要所には、「コントラスト」による場面構成が出現する。

① 1幕:フィナーレ(「テ・デウム)
 俗と聖、悪と善、無信心と宗教心、独唱(スカルピア)と合唱(聖歌隊)
② 2幕フィナーレ(トスカによるスカルピアの殺害と”許し”)
トスカ「死ね、罰当たりめ!死ね!死ね!
(殺害後)
トスカ「死んでしまった!もう彼を許してやるわ!
(中略)
出て行こうとしたが、考え直し、左手の棚の上の二本のローソクを取りに行く。テーブルの上の燭台で火をつけ、燭台の火は消す。スカルピアの頭の右側に火のついたローソクを一本置き、もう一本を左側に置く。再び辺りを見回し、十字架を見つけると壁からそれをはずしに行く。恭しく運んでくると、ひざまずき、スカルピアの胸の上に置く。・・・)
③ 3幕:第2場
 穏やかな生の賛歌(チェロの四重奏)と死を前にした絶望の叫び(「星は光りぬ」の独唱)
④ 3幕:フィナーレ(死んだふりをしているはずのカヴァラドッシが死んでいたのを見て自殺するトスカ)
 歓喜から悲嘆へ、希望から絶望へ、生から死へ

 こういう風に見て行くと、やはり原作が素晴らしいということに尽きるようだ。
 つまり、ヴィクトリアン・サルドゥは、成功請負人だったのである。
 リヒャルト・シュトラウスにとってのフーゴ・フォン・ホーフマンスタールのように。
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盛り合わせ&バラ売りのコンセプト

2024年07月17日 06時30分00秒 | Weblog
コリリアーノ: オスティナートによる幻想曲
ベートーヴェン(リスト編): 交響曲第7番から 第2楽章 アレグレット
リスト:「詩的で宗教的な調べ」S.173から 葬送曲
スクリャービン:練習曲 ト長調 op.65-3
変イ長調 op.8-8
嬰ニ長調 op.8-12 「悲愴」
嬰ヘ長調 op.42-4
嬰ヘ長調 op.42-3
変ニ長調 op.42-6
嬰ハ短調 op.42-5
ショパン:24の前奏曲 op.28から 
第23番 へ長調
第22番 ト短調
第18番 へ短調
第13番 嬰へ長調
第10番 嬰ハ短調
第2番 イ短調
スクリャービン: ピアノ・ソナタ第9番「黒ミサ」
ベートーヴェン: エロイカの主題による変奏曲とフーガ op.35
(アンコール)
ショパン:
4つのマズルカより 作品6-1
マズルカ 作品63-3
ポロネーズ 第6番 英雄
マズルカ 作品68-2

 私は昨年夏のリサイタルのチケットを買っていたのだが、体調不良で来日中止となったため(アレクサンダー・ガジェヴ 2023年6月来日中止のお知らせ)、ガジェヴの演奏を聴くのはこれが初めてである。
 まず、プログラムには書かれていないが、ガジェヴの指示により、演奏前にお客さん全員が暗いホールの中で2分間の「黙想」を行う。
 これが音楽を聴くための準備作業だというのである。
 次に、プログラムを一見すると、丸山先生が厳しく批判した「盛り合わせ音楽会」(盛り合わせや否や?)である。
 いや、それだけではない。
 ショパンの前奏曲は、24曲のうち6曲をピックアップした、いわば「バラ売り」である。
 だが、もちろんこれにはピアニストの意図が込められている。

 「このプログラムの異例な幕開けを飾るコリリアーノの《オスティナートによる幻想曲》は、いわば「流動的な」探求を開始し、やがてプログラム前半のメイン・テーマの到来をゆっくりと告げます——すなわち、ベートーヴェンの《アレグレット(交響曲第7番)》が抱く悲嘆のテーマです。(中略)
 プログラム後半の冒頭では、ショパンの遊び心に富んだへ長調の前奏曲が、私たちを前半の雰囲気から引き離し、希望を授けてくれます。でもそれは、ただの錯覚です。なぜならすぐに、22番、18番、そして——13番の崇高な牧歌的光景を挟みつつ——10番の前奏曲が、陰気なムードを回帰させるからです。最後には2番を置きました。この曲番の逆行は、おそらくは《前奏曲集》中で最も実験的な曲とともに締めくくられるのです。(中略)
 これほど変化に富んだ旅を、どのように終えたらよいのでしょう?ベートーヴェンの《エロイカ変奏曲》は、生の多彩な要素と豊かさを余すところなく肯定します。この上なく豊かな精神をそなえた音楽であり、この上なくシンプルな作曲手段による音楽でもあります。私たちは、冒頭のわずか4つの音(ミ♭-シ♭-シ♭-ミ♭)から全てが生じているような印象を抱きつつも、4音の無限の組み合わせと無限の創意に導かれて、ピアノを、オーケストラを超えるものとして知覚することになります。
 歓喜に満ちたフーガが、この極めて強烈なプログラムに終止符を打ちます。
 
 「『悲嘆』から『歓喜』へ」というテーマで理解すべき選曲ということらしい。
 いずれにせよ、テクニックも表現力も素晴らしいし、アンコールはオール・ショパンだったから、丸山先生も許して下さるのではないだろうか?

F.ショパン:
ノクターン第3番 ロ長調 Op.9-3
ボレロ ハ長調 Op.19
ノクターン 第7番 嬰ハ短調 Op.27-1
舟歌 Op.60
ノクターン 第5番 嬰へ長調 Op.15-2
幻想曲 へ短調 Op.49
24の前奏曲 Op.28
 
(アンコール)
Fショパン:
ノクターン 第12番 Op.37-2
タランテラ Op.43

 こちらは、アンコールも含めてオール・ショパンのプログラム。
 私は、古海さんは初見だが、見かけによらず”パワー系”のピアニストだった。
(最前列の男性のいびき(?)がうるさいな、と思って聴いていたら、どうやらピアニスト本人の鼻息だったようである。)
 ノクターン以外はかなり激しいタッチが要求される曲だし、圧巻だったのは、24の前奏曲のラストである。
 素人が見ても、この曲は、全曲を一気に弾いて、ラストで頂点を迎えるように意図的に構成されていると思われる。
 うーん、やはり、「バラ売り」はあまりお勧めできないようだ。

 
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権威から fabulous へ

2024年07月16日 06時30分00秒 | Weblog

 「シカゴ」(ポリコレ視点でみる「シカゴ」)もそうだったが、私は「天使にラブソングを」の映画もミュージカルもみたことがないので、今回は先入観なく楽しむことにした。
 まず、「天使にラブソングを」という邦訳が不適切であると感じる。
 原題は ”Sister Act” であるが、”Act” には名詞と動詞の二重の意味が込められている。
 すなわち、「シスター(修道女)のアクト(芝居)」という意味と、「シスター(修道女)をアクトする(演じる)」という意味である。
 これではさすがに翻訳不能なので、「天使にラブソングを」としたのだろうが、これだと原題の意味から大きく外れてしまっている。
 次に、設定が実にアメリカ的であることを痛感する。
 アメリカで暮らしたことがある人なら分かると思うが、アメリカ社会において、(もちろん例外も多いけれど、)カトリック教徒は「厳格で、ちょっと冗談が通じない堅物」、カトリック教会は「権威の象徴」のようにみられることが多い(と思う)。
 なので、マフィアの愛人でクラブ歌手であるデロリスが、こともあろうに修道院の聖歌隊の指導を担当するという設定は、ハナから「権威主義」への反抗という意味を帯びている(と思う)。
 そのことを示すのが、彼女が連発する”fabulous”という単語である。
 これは、主に女性が使う形容詞で、通常は「素敵」、「素晴らしい」などと訳されているが、おそらく日本語には翻訳不能であり、あえて訳すとすれば「サイコー!」くらいが近いだろう。
 「勝手にしやがれ!」が”dégueulasse”(最低!) という形容詞によって駆動されていたのと同様に(唯一の共同作品(1))、「天使にラブソングを」は"fabulous"(サイコー!)という形容詞によって駆動されており、しかもこの形容詞は、権威という壁をぶち壊す役割を担っているのである。
 さて、アメリカ社会においては、無分節的な集団(典型は軍隊)は例外的なものとされているが、修道院は数少ない例外の一つである。
 そのことを示すのが、後半に出てくるデロリスの以下のセリフである(記憶に基づいて再現しているので、不正確かもしれない)。

 「客も名声もいらない、シスターたちという仲間がいればいいの。

 デロリスは、見事に権威という壁をぶち壊した。
 カーティスがロドリスに銃口を向けると、他のシスターたちは次々と、
 
 「私を身代わりに!

と述べてその前に立ちはだかるが、このシーンはカルメル会修道女たちの殉教(カルメル会と四十七士、あるいは殉教と殉死)を彷彿とさせる。
 むむむ、「シスター・アクト」は「カルメル会修道女の対話」のコメディ版だったのか!?

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「愛」を語る前になすべきこと(6)

2024年07月15日 06時30分00秒 | Weblog
⑧ 2階に一組の男女(池貝さんとchikako takemotoさん?)と、1頭のクマが登場。
 男性(池貝さん?)に対し、 chikako さん(?)とクマが並んで向かい合う構図だが、着ぐるみを脱いだクマは、何と一人の女性:田中真夏さんだった!
 男性はショックを受けた様子で、田中さんに再度着ぐるみを着せると、chikako さん(?)と田中さんは手を取り合ってエレベータに向かい、1階に降りていく。
 私は、このシーンは、直観的に映画「シャイニング」の”犬男”(初見ではクマにしか見えない)のパロディであると感じた。
 というのも、クマのぬいぐるみを着た人間とエレベータが登場すると来れば、私くらいの年代の映画ファンであれば、「シャイニング」しか思いつかないからである(ちなみに、一般に言われている”犬男”は本当はクマではないかという問題については、
 いずれにせよ、「饗宴」に出て来るのは、”犬男”ではなく”クマ女”である。
 ここの解釈は非常に難しいし、一義的な解釈など存在しないのだが、「『愛』の対極にあるものを浮き彫りにする」という一連の文脈からすると、私見では、「人間が持つ”獣性”に対する根拠のない嫌悪や恐怖」を「愛」に対置させ、それを克服する試みが表現されているのかもしれない。
 但し、ここは私も自信がないところである。
⑨ 2階に1組の男女、次いで今村さんが登場。
 男性(池貝さん/野坂さんのどちらか不明?)はピアノに近づくが、もはや演奏しようとしない(芸術の”支配”の断念?)。
 3人は上着を脱いで、テーブル、椅子、レコードプレーヤーを撤去する(「表象の世界」の消滅?)。
 すると1階で唐沢さんが床のパネルを3つほど外した後、パイプ椅子にスマホを設置する。
 すると、What's Up のメロディーが流れ出し、”STOP the GENOCIDE in GAZA”という文字がスクリーンに表示される中、唐沢さんが自身の足首に針で四角いタトゥーを入れると、突然、パネルの下から炎が立ち上がる。
 もちろん、炎は「戦火」を表しているのだろう。
 こうなるともはやダンスでも演劇でもない次元に突入するが、私見では、(歌詞と映像を手掛かりにすれば、)「"What's going on?” :『一体どうなってんの?』という抗議」及び「『解放』に向けた祈りの儀式」ではないかと思う。 
⑩ ピアノ(と音響・照明機材)しかなくなった2階に、今村さんが登場。
 上方を見上げ、深く息を吸うところで終幕となる。
 「息を吸う」というのは、What's Up へのオマージュだろう。

And I wake up in the morning and I step outside
I take a deep breath and I get real high
And I scream from the top of my lungs
"What's going on?” 
それで翌朝目が覚めて,ベッドから起き出して
大きく息を吸い込むと,やけに気分が良くなって
体の中から大声でこんな風に叫ぶんだ
「これって一体どうなってんの?」

 以上のとおり、「饗宴」は、「愛」の対極にあるもの(反対物)を次々と提示していくことによって、「愛」について語ることがおよそ現在の状況にはふさわしくないということを示した。
 「饗宴」は、
 「私は評価の代わりに、変化を望みます
という橋本さんの言葉のとおり、ダンスでも演劇でも、いや(評価の対象となる)芸術作品ですらなく、一つのメッセージにほかならないということが明らかになったと思う。
 ということで、私自身も、「愛」について語る前に、「変化」に向けた行動を起こす必要があるわけである。
 だが、言うまでもなく、非力な一市民に過ぎない私に出来ることは限られている。
 ということで、まずは、ガザ人道危機緊急募金から始めようと思う。


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「愛」を語る前になすべきこと(5)

2024年07月14日 06時30分00秒 | Weblog
⑥ 1階の壁の落書き(「L」ないし「V」のように見えるが、ガザの地図のようでもある)の上の方を、唐沢さんがペイントで上塗りしていく。
 それが終わると、唐沢さんは右手前の隅にあるカメラの方向へ移動し、カメラを操作し始める。
 すると、5人の出演者(おそらくクマ以外)が現れ、3人は中央でダンスを踊り、2人はその周りを笑いながら走り回る。
 唐沢さんは「ウォー!」と叫び、中央の3人はカメラに向かって前進してくる。
 そのうち、6人全員が中央に集結し、カメラの映像は消える。
 これは、傍観者たること=「笑い」と「無関心」を可能にする現実との間の”距離”の消失を意味しているのではないだろうか?
 6人は、(記憶が曖昧だが)「海も、山も、川も・・・」、「無関心による暴力を・・・」、などと叫びながら踊り続け、スクリーンには”LIBERATION”という単語が現れる。
 野坂さんは、「FREE PALESTINEの文脈で、”Liberation before Peace.”(平和の前に開放を)を実現するための抵抗・表現を実践している」というが、ここでは広く「透明化・周縁化された人たちの解放」という風に理解するのが良いかもしれない。
 そうすると、壁の中央付近の落書きはLIBERATIONの頭文字としての「L」なのだろうか?
 ともあれ、この「饗宴」では、「愛」(LOVE)について語る前に、「解放」(LIBERATION)が叫ばれたのである。
⑦ 最初は2階で、クマと男女1組(?)がテーブルを囲んで座り、右手を90度、左手を180度あげる動作を繰り返す。
 次に、彼ら/彼女らはエレベータで1階に降り、他の出演者と合流する(よって、(クマを含む)7人全員が揃う)。
 7人は、壁の前を、左から右に向かって進行しながら、例の動作を繰り返す。
 これは、明らかに「L」の字を示す動きである。
 インスタグラム(饗宴/SYMPOSION)を見ても、
 ”I DREAM OF A DANCE AFTER LIBERATION
とあるので、間違いないだろう。
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