聴衆が集まらない演奏会に助成はできない、というのが、日本ではほぼ常識である。
「聴衆の数を何故問題にするのですか?シューベルトの歌曲の初演は常に10名程度でしたよ。」とカナダ人は言った。
なるほど、そういう論法があるか。
「私達はアートをやっているのです。エンターテイメントではない。」
そうか、その論法が通じるのだな…。
しかしそれならば、敢えて反論を試みたくなる。(実際には反論していない。)
シューベルトの歌曲は、今では立派なアートだが、シューベルトはアートだと思っていただろうか。聴きに集まった友人達はアートを観賞しているつもりだっただろうか。
私が思うに、シューベルトは友人達を精一杯楽しませたい、友人達も新曲を楽しみたい、と思って集まったシューベルティアーデだったと思うのだ。楽しませる=エンターテイメントである。
ハイドンやモーツァルトだって宗教曲以外は目一杯楽しませることを考えていたと思う。バッハだって、協奏曲の類いはそうだろう。
だから、私はエンターテイメント性を重視する。
エンターテイメントではなくてアートなのだから助成せよ、という論法はしっくりこない。これはエンターテイメントなのだから助成せよ、どちらかというと、そのような考え方かもしれない。
「聴衆の数を何故問題にするのですか?シューベルトの歌曲の初演は常に10名程度でしたよ。」とカナダ人は言った。
なるほど、そういう論法があるか。
「私達はアートをやっているのです。エンターテイメントではない。」
そうか、その論法が通じるのだな…。
しかしそれならば、敢えて反論を試みたくなる。(実際には反論していない。)
シューベルトの歌曲は、今では立派なアートだが、シューベルトはアートだと思っていただろうか。聴きに集まった友人達はアートを観賞しているつもりだっただろうか。
私が思うに、シューベルトは友人達を精一杯楽しませたい、友人達も新曲を楽しみたい、と思って集まったシューベルティアーデだったと思うのだ。楽しませる=エンターテイメントである。
ハイドンやモーツァルトだって宗教曲以外は目一杯楽しませることを考えていたと思う。バッハだって、協奏曲の類いはそうだろう。
だから、私はエンターテイメント性を重視する。
エンターテイメントではなくてアートなのだから助成せよ、という論法はしっくりこない。これはエンターテイメントなのだから助成せよ、どちらかというと、そのような考え方かもしれない。
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