映画を観て、なにやら割りきれない気持ちになった事は、以前に書いた。でも、原作は面白いと何人かの方から言われた。が、まだ読んでいない。
ト音記号と繰り返し記号にはさまれた五線譜を描いた反響板がステージに作られ、その中にオーケストラが配置されていた。ピットに入る訳ではないのである。
そしてまた「シンフォニー音楽劇」という形で現れた。
これほど何度も作り替えられるということは、やはり魅力的な原作なのだろうと言わざるを得ない。
この「シンフォニー音楽劇」とは、どういう形態なのか、やはりとても興味をそそられ、ついに観に行ったのである。生のオーケストラやピアニストを使うようだし。
ト音記号と繰り返し記号にはさまれた五線譜を描いた反響板がステージに作られ、その中にオーケストラが配置されていた。ピットに入る訳ではないのである。
その前には2台のグランドピアノが置かれていた。一つはソリスト用、一つは影ピアノ?とでも言う存在。
まず最初にテーマ音楽とも言うべきオリジナル音楽がピアノとオーケストラによって演奏される。その間、文章も映しだされ、ポエジーな世界に観客を引き込む。
そのうちオーケストラの前に紗幕が降り、そこに背景が映しだされて、俳優達はその前で芝居をする。
第1幕にあたる前半は、あまりオーケストラは登場しない。ちょっとつまらないなぁと思いかけたのだが、結構びっくりの仕掛けが控えていた。
主役達が本当にピアノを弾くのである。恐らく「ピアノが弾ける役者」をキャスティングしたと思われる。
プロコフィエフの協奏曲第3番を、ほんの一部だけれど弾いたのだから、少なくとも私よりピアノが弾ける。これには恐れ入った。
そして「歌う」。恩田陸が作詩した歌詞にのせて、ショパンやベートーベンを歌うのである。
オーケストラも「演じて」いた。管楽器は揺らしながら、低弦楽器は楽器を回しながら、最後にはスタンドプレーまでしての熱演だ。
そして、コンクールの本選のシーンに突入していく。
で、コンクールは本物のピアニストによって、プロコフィエフとバルトークの協奏曲第3番が(第1楽章だけだが)しっかり演奏されたから、とても聞き応えがある。
という次第で、見どころはたくさんある舞台だった。
にもかかわらず、熱演にも関わらず、あまり好きにはなれなかった。なぜなのか。
あり得ないことの連続だから、と言って良いかもしれない。
サティの《Je te veux お前が欲しい》をピアノのコンクールの予選で弾いて通過してしまうとか、一人の参加者のためにオーケストラの配置を変えてしまうなど、表面的にもあり得ないことは多い。
しかし、フィクションの世界、その「あり得ないこと」を楽しみに読んだり観劇したりする訳で、一番の不満はそこではない。
私は、それほどコンクールを受けている人間ではないが、それでも少しは経験がある。周囲にはたくさん経験者がいる。
それで、コンクールを受ける人々が一様に、どのような精神状態になっていくかを知っているつもりだ。
簡単に述べると、神経がぼろぼろにすり減るのである。その状態に自分が追い込むのだ。他人ではない。
何故こんな辛いことをやるのか、と自問自答の日々である。
その答えは人によって違うだろう。
ここなのだ!
この葛藤こそ、客観化できれば、フィクションにできれば、一番感動的だと思う。
コンクールとは、それぞれ違う思いを持ったもの同士が一同に会し、美しい音楽と残酷な結果が同居する、凄絶な場所なのだ。
そこさえ描かれていれば、ほかの「あり得ないこと」が混じっても、それほど気にならないのではないかと思う。
逆に、そこが中途半端にしか描かれていないことが、私にとっては最大の「あり得ないこと」なのである。
恩田陸の文章は、とても好きだし、映画も劇も、それなりの手間隙がかかっているだけに、この中途半端な面白さは残念に思う。
次作、があるかどうかわからないが、このような音楽劇は好きなので、また新しい作品が生まれることを期待したい。
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