教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

「今、そこにいる僕」ララルーカタルシス

2010-01-03 16:31:34 | オタネタ全般
「今、そこにいる僕」とうアニメ。
このアニメの製作背景についての感想は先日書いたとおりなので、今度は作品の中身について書いてみようかと思う。
(ということで今回はバリバリにネタバレ満載なのでよろしゅうに)



このアニメのメインヒロインはララルーという少女。
この少女、ほぼカンペキな能面で、感情を全く表に出さない。
綾波レイが感情豊かに見えるほど感情を出さない。
というより、最初っから感情がほとんどなさそうな感じかな。

なぜララルーはそうなったのか?

これは作品では語られない。
この問題だけではなく、この作品は語られない事があまりにも多い。
しかし少しだけだが問題を解く鍵はある。

1つ目の鍵。

この世界は水が不足している。
飲み水や食料の生産に使うばかりではない。
兵器の動力源の一部としても使われている。
そして水をめぐっての争いがおきている。

さてこのララルー。
どこからともなく水を出せるという特殊能力がある。
しかしその水はララルーの命を削る。

人々は水を出したララルーをありがたがる。
しかし、すぐに出して当然になる。
出さないと怒る。
さらには、ララルーをめぐって戦争がおきる。
だからララルーは水を出さなくなった。

2つ目の鍵。

ララルーは見た目は少女だが1000年は生きている。
世界は文明の利器を多少使えているものの、それらを新しく作ることはできなそうな状況に退化しているように見える。

これからララルーに対する仮説が生まれる。

ララルーは人ではない。
人造人間かもしれない。

恐らくララルーは、1000年以上前にまだテクノロジーの進化があった世界においての、水を生産する切り札として開発された人造人間だろう。
そしてエネルギー保存の法則や質量保存の法則のごとく無から有を生み出すことはできないという仕様により、水を生み出す対価として命が必要なのだとうことだろう。

ララルーは1000年生きてきた。
その間にイヤなものを死ぬほど見てきた。
ララルーが水を出さないと怒り出す人たち。
ララルーをめぐって争うひとたち。
ハムドのように戦争するためにララルーの水を使う人たち。

ララルーは見てきた人類に対して絶望した。
ララルーの眼には人類は自分の命を削ってまで救ってやる価値のないものとして映った。
ララルーは心を閉ざした。
それが今のララルー。

恐らくこのララルーのいたる経緯は特別なものではない。
ララルーのような能力があればきっと人類はそう扱うだろう。

現在の日本はララルーの世界ほど貧困に追いこめられてはいない。
しかし人は食べるのに困るほど貧困に追い込まれると、集団Aと集団Bに分かれて奪い合いを始める。
人類が争うのは金品のためでも宗教のためでもない。
根本的には貧困が原因だ。

とくに韓国のように何でもかんでも日本のせいにし、日本にあるものは何でもかんでも自国のものだと主張することが国民レベルで周知徹底している国ならなおのことそうだろう。
韓国が食べるのに困るほど貧困に陥り、しかも日本に勝てるくらいの軍事力を有していたとすれば、100%の確率で絶対に日本に侵略してくる。
そのときの韓国人に言わせれば、日本の神道をはじめとする天皇や靖国の所業がどうのという宗教戦争なのだとか、日本の私利私欲的な外交政策が韓国にとってどうのという正義の戦争なのだとか、そうやってことごとく自分を正当化しようとするだろう。
戦争は金品のためでも宗教のためでもなく、これらは全て後付けである。

わたしは韓国人なら特にそうなると思っていて韓国を警戒しているが、必ずしも韓国人だけにしか当てはまらない特徴なわけではなく、これは人類全体で共有するものだ。
人類はたやすく人を絶望に追い込みやすい。
これは現世にある種の絶望を感じ2次元に移住することを決めた我輩ならなおのことわかる。
いまの日本はたまたま平和だが、人は1000年も生きていれば誰だって絶望する。



しかし、この作品は絶望だけではなかった。
最後の最後でララルーは絶望の縁から這い上がった。

ララルーは主人公と旅をした。
命がけで自分を助けてくれた主人公をずっと見てきた。
命があり人を信じるということが何かという事を教えてくれたシスやその子供たちを見てきた。

ララルーは主人公を何度も救った。
それが自分の命を少し削ることであれ。

そして最後にララルーは自分の命を全て使って人類に大量の水を提供し、人類を救うと同時に消えた。


恐らくララルーは夕日が好きで朝日は嫌いといったのもそういう複線だ。
朝日は始まりの象徴。(朝日というとサヨクの象徴でもあるが(笑))
夕日は終わりの象徴。
ララルーはいつか自分の命がつきる時のことをずっと待ち望んでいたのだろう。

最後の最後でララルーは自分の命と引き換えにしても良いと思えるほどのものを人類に見た。
これはララルーの1000年以上にわたる人生においての唯一の救いだったろう。

しかしながら皮肉なものだ。
ララルーにとっての救いは死をもってしか表現できなかった。

一般に、ヒロインの死というものは悲劇になる。
しかし「今、そこにいる僕」は違う。
ヒロインの死がヒロインにとって唯一の魂の救済だったのだ。

これだけのカタルシスを表現できたアニメがいったい他にどれだけあるだろう。